kanahime5のコピー68

鹿魚姫(26)

 鹿魚が目を覚ましたのは夜明け前だった。流石に酒宴は終わっていた。眠気はなかった。寝袋を抜けて幕の外に出た。雲が紫に染まっていた。〈鳥モ渡ラヌ澄明ナ空間〉だった。じきに日が昇る。幕営地を歩き回った。鹿魚の足は踊っていた。喉が渇いている。厨幕で肉桂水でも飲むつもりだ。軍旗〈陰陽具有ノ燕ガトマル樟ノ枝ヲ翳ス蠍神〉を掲げた柱を中心として五巡坪ばかり空地になっている。酒宴の場となったのもここである。数人の泥酔した兵卒が寝ている。鹿魚がその一人を跨ごうとしたとき、風が縺れて頭上を吹き抜け、髪が靡く。軍旗を挟んで向こう側に着地したのは、弖飛だった。大腿の骨と肉を二本分両肩に担いでいた。それが人の死骸だと鹿魚には分からない。兵卒が殺した俘虜の死体の一部だった。抵抗中の愚連隊が糧食を盗みに来たのだと鹿魚は判断した。それにしても幼い男童だった。鹿魚、「それを置け」弖飛は黙ってそうした。頬を手の甲で擦った。血で汚れた。鹿魚、「よし。誰にも言わないから、早く帰れ。おまえは子供だから殺さない。こんなに静かな朝はあまりないぞ。もう皆が起きる。じゃあな。出来れば異端を捨てて正しい道に戻れよ」〈子供〉を弖飛は聞き咎めた。一足飛びに鹿魚の鼻先に鼻先で触れんばかりに詰め寄り、「おまえも子供じゃないか」血塗れの手で鹿魚を抱えて、風に乗った。〈幕営地ヲ見下ロス丘〉に降り立ち、鹿魚を放り投げた。鹿魚は尻餅を搗いたが、声は上げなかった。怯えているのではなかった。胸が高鳴っていた。朝日が頭を覗かせた。弖飛は改めて鹿魚をじっと見る。首を捻って、弖飛、「おまえ、目玉をいくつ持っている」鹿魚、「見れば分かるだろう。二つだ」「そうだな。俺はずっと目玉を探していたから、変になったかもしれない。おまえが、その二つよりもっと沢山の目玉を持っているような気がする」あの〈夢〉を思い出す鹿魚、「なんで。目玉を探してたってなんだ」弖飛は聖娼之蒋七のことを話した。〈話シタ〉といって、〈之蒋七ノ目ガナクテ可哀想ダカラ新シイ目ヲヤリタカッタ〉こと以外になにもなかった。鹿魚も〈夢〉を話した。誰かに聞かせたのは初めてだった。弖飛、「じゃあ、おまえの体にはその紆旱孺の目玉が二つ溶け込んでいるのか」鹿魚、「そうかもしれない。ずっと忘れてた」「それは、いいな」「妾の目玉を取るのか」「いや」「あんまり綺麗じゃないかな」「とても〈綺麗〉だ」「之蒋七にやるんじゃないのか」「もう死んだよ」「そうか」喇叭が鳴った。幕営地が起きる。鹿魚、「欲しくないのか」弖飛、「なに」「妾の目玉」「いらない」「なんで」「だから、もういらない」「なんで」「おまえも〈ナンデ〉目玉を俺にやりたがる」言われてみれば不思議だった。鹿魚は理由が分からないから、私にも〈分カラナイ〉。多分、友達が必要だったのだろう。贈り物をしたかった。〈鹿魚ハ誰モ愛セナイ〉。それでも〈イツモ見テイタイ〉と感じ、伝えることは出来た。鹿魚、「なんだか、おまえにもう一度会いたいと思うからだろうな」弖飛、「でも、悪いな」「目玉を勝手に取ってたんじゃないのか」「そうだな。でも、おまえにはなにかやりたいな、俺も」弖飛が鹿魚に興味を抱くのは〈不思議〉でもなんでもない。私がそのつもりで作ったのだから。阿珠跡跡尊が放った〈鹿魚ハ誰モ愛セナイ〉の序詞めいた〈誰ヨリ愛サレテ生マレタ鹿魚ハ誰ヨリ愛サレテ育ツ〉の呪辞もまた響いていた。二人が友達になりたがるのは必然的ではあったが、〈渓川ノ水ガ粥ニナリ湖ノ面ヲ擦ル燕モ餅ニナル〉ような〈皮膚ノ三分ノ二ニ湿疹ガ出ル〉態の浪漫の臭みはなく、私には妙に切なくてやりきれない。鹿魚は狼狽した。〈愛セ〉る鹿魚ならば、〈照レタ〉と表現すべき表情だった。弖飛は鹿魚の髪に触れる。舐めるように撫でている。弖飛、「俺の知っている女は、髪を長くしていた。おまえもそうしないのか」出陣の前に断髪したのだった。理容椅子に深々と腰掛け、〈異教徒ハ髪デ呪イヲカケル。介委眦ミタイニシロ〉と理髪師蘇日に命令した。介委眦は慧鶉王咲簀浮帝時代の大宮廷音楽家であり、彼の〈栄光ヲ讃エル〉は冒頭の総奏三打で誰でも曲名を言い当てることが出来る程有名だ。更に名高いのは彼の肖像である。毛髪が欠如した頭で不機嫌そうに中空を睨み付けている。彼の師であると同時によき好敵手だった伶楽長褒都の喪に服している際の介委眦を描いたもので、従って〈禿〉ではなく〈剃髪〉なのだが、そのような挿話は一般には殆ど知られていない。新写実主義と犬儒耽美派を繋ぐ美術史的にも重要な作品であるにも関わらず、独特の筆致と介委眦の面魂とが相俟って〈白蛸〉という不名誉な通称を拝領する。その〈白蛸〉〈ミタイニシロ〉というのは、つまり〈剃ル〉ことを意味した。理髪師蘇日は宥めたり賺したりしながら、〈武勇ニアヤカレルヨウニ蓴豹王榎倶帝ノ髪型ニシマショウ〉と説得して〈短髪〉程度に落ち着かせた。侍従丞樂止藐は〈一世一代ノ忠義〉と理髪師蘇日の〈説得〉に感謝した。鹿魚の髪は美しかった。〈緑夜〉はその色艶を讃えた叙事詩人矛羅の言葉だが、これは流行らなかった。弖飛は口に肘まで腕を入れ、一束の髪を掴み出した。弖飛、「やるよ」鹿魚、「之蒋七のだろう」「そうだ。でも、やる」「悪いよ」「ずっと持ってるつもりじゃなかった。おまえに似合いそうだから」どうやって髪の毛を髪の毛に継いだのか。手櫛で梳けば、もう自分の髪としか思えなかった。指先が冷たい。肩に掛かって、寒かった。〈死者ハ血ガ通ワナイカラ髪マデ温モリガナイ〉と思った。弖飛は背を向けて、走った。土手を降りていく。見えなくなった。なにか用があるのかと思った。待っていた。小便か。別れの挨拶がなかっただけで、弖飛はどこかへ帰って行ったのだとやっと分かる。

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