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【通信講座】 短編小説「そこまで寂しいわけじゃないし」 質疑応答②



千本松由季


長編を書きたいのですが、ストーリーができません。
以前試してみたのですが、私は一人称の以外の作品が書けません。主人公イコール自分になってしまいます。
講評を読みますと、私がさらに主人公になり切る必要があるようです。
主人公の生きて行く辛さが、長編になると更に積み重なって、自分も苦しくなって、一緒に号泣してしまいます。
私は若い人に向けて、大袈裟ですが、人生の希望を与えられるような作品を書くこと目指しています。
理想とする小説は、『あしながおじさん』です。孤児として生まれた主人公が、生来の明るさを発揮して、最高の幸福を手に入れるというシンデレラストーリーですよね。でも、私自身である主人公はそんな人物ではありませんから、そのようなストーリー展開がしたくてもできません。
脇役の創り方が苦手なのかもしれません。
例えば、チャーリー・ブラウンは作者の投影ですよね。でもスヌーピーはそうではない。皮肉屋であるなど、似たところは残してありますが。
耕二をスヌーピーに仕立てて、誠の語彙以外の言葉を語らせることなどは、できそうな気がします。
ご指導をいただけますと幸いです。



川光 俊哉 Toshiya Kawamitsu


作者は、自分のなかにないものは書けませんが
ひとりの作中人物に作者の全人格を投影することもまた不可能です。
ドストエフスキー『白痴』における
ムイシュキン、ロゴージンは正反対の人物です。
いずれもドストエフスキー自身の性格をあらわしていますが
どちらが本当のドストエフスキーかは誰にも分かりません。
人間はそれぞれが個性を持った唯一無二の存在であると同時に
生理的にも、感情的にも、ちがうもの以上に同じものを共有しています。
いまだ未分化で不得意な感情、性格、すなわち作者が苦手な登場人物というものはかならずありますが
創作の過程で自分の内面を手がかりにしながら、登場人物を育て、作者自身もまた成長していくことは
可能であり、必要であり、作品の広がりと深さを実現するためには避けることができません。

われわれが作品を創作するために駆使する言語は
感情の道具ではなく、論理の道具です。
「感情そのものは表現できない」
俳優の演技にもまったく同じことが言えますが
感情移入し、なりきることがいいパフォーマンスの条件ではありません。
感情をえがこうとするとき、作者ができるのは
どのような心理、身体の状態(「感情そのもの」ではないことが分かるでしょうか)にあるか
観察力と想像力をはたらかせて、正確に伝えることだけです。

われわれは論理の道具をつかって
ストーリーを構成することができます。
登場人物(主人公)の意外な行為、本来ありえなかった反応を引き出すことも
これによって可能です(必要であり、避けることができません)。
ストーリーの本質は「変化」であり
ある環境、関係性、価値観を提示することだけでも成立する短編ではなく
「変化」の連続をえがく長編であれば、なお重要です。
いかにして登場人物の価値観をゆさぶるか(それによって変化を生じさせるか)、という課題は
事件の配置、アクシデントの利用、キャラクター同士のコンフリクトなど
作者の想像力、アイディアに属することであり
共感、感情移入とはまったく別の資質だということが分かるでしょう。

つまらないテクニックですが、実践的、具体的に申し上げます。
『そこまで寂しいわけじゃないし』を長編にするには
バー、路上、部屋以外の特殊な環境を主人公にあたえ
(作者のさまざまな人格の側面を象徴する)別の登場人物をさらにつくりだすことです。
本当にこれだけです。
特殊な環境では、特殊な事件が必然的に起こり
あらたな関係性は、あらたなコンフリクトを生みだします。
この過程が「価値観をゆさぶる」ことであり、「変化」、ひいては「ストーリー」です。

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