陶芸らしさとは

「これを焼き物でやる理由は?」

「陶芸らしくない」


こういうお言葉を多分西日本一言われてきたのではないか?と思うわけですが、まぁそんだけ言われていりゃそういうことに対して人一倍考えたりもするものです。

そもそも自分の作品を陶芸で表現しようと考えた時から自分の中では陶芸でやる理由があるし、従来の陶芸のイメージとは違うものを作るというのはわかっていたわけですので、こういうことを聞かれることは承知の上でスタートしていました。

が、いざ発表し始めるとその意見は想像以上に多く飛んでくる事を実感します。

とにかく陶芸で器以外の立体を作ると堰を切ったように皆が口にする「これを焼き物でやる理由は?」という質問。

要は「陶芸=器」であり、釉薬や土味、緋色など、とにかく質感や形状のある種の固定されたイメージがまずあって、それからはみ出ているものにこのセンサーが反応するんじゃないか?と思うのです。

逆に茶碗や器を作っている人に「これを焼き物でやる理由は?」って聞いてる人を見たことがない。

器だって木やガラス、金属やプラスチックや紙などあげていけばいろんな素材で作られているのにそういう疑問はあがらない。

長い歴史がそういうイメージを作っているし、実際理にかなっているのでそりゃそうだとも思うわけです。


誰に教わるでもなく。


そう、そこなんです、誰に教わるでもなく知らないうちに固定観念のように刷り込まれている陶芸のイメージというものがあることに気付きました。

実際になんなら陶芸家のイメージは作務衣着て、山で壺とかロクロで作って、「気にくわーーーん!!」って叩き割ってる海原雄山みたいなものを想像している人が結構いたりするわけです。

私が高校の非常勤講師で授業していた際、約10年間ほど授業の最初に陶芸のイメージを聞いていたら、その大半がそういうイメージを持っていると言うのです。

中学校卒業までにそういったイメージをどこで刷り込まれるのかわかりません。

TVなのか授業なのか、環境なのか、とにかく陶芸といえばそういうイメージだそうです。

確かに、芸術大学に行ってたから陶芸でいろんな立体表現することを当たり前のように見たり知ったりしてきましたが、そこまでは同じようなイメージを自分も持っていたように思います。

それくらい一定のイメージが強い陶芸という表現の中で制作していくことを選んだのも、その部分を利用したいという気持ちが芽生えたからでもあります。

「デジタルなイメージを立体化したい」ということだったので、立体化する上で何で出来ていたらより面白いのかという面で、デジタルと真逆なイメージを持つ陶芸というものはまさに打って付けだと思いました。

今では陶磁器3Dプリンターも普及してきているのでデジタルとの距離は多少縮んでは来ていますが、だといえ真逆な部分は沢山あるのでこのイメージは当分変わることはないのかもしれません。

「作品を見てそういった疑問が生まれるということは、その人の中で無意識のうちに陶芸とはこうという考えがすでにあることに気付くということ」

私はどうも昔から常識とかそういうものに疑問を持ちやすいタイプのようで、よく「なんで?」と思うことがあります。

作品というものはどこかそういった問題定義ではないですが、思考を働かせるきっかけを生み出すものでもあるとも思うので、そういった質問が来ることは実は願ったり叶ったりな部分なのかもしれません。

常識を疑うことで新しい発見があったりするし、面白いものが生まれてくることもある。

焼き物らしくない作品を作るということは、その時点で一つの解釈を増やしているのかもしれない。

作家ごとにそれを焼き物で作る理由が必ずある。

どう考えても焼き物で作ったらダメな理由も無いのだから。


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