「傷だらけの天使」全話レビュー

1974.10に日本テレビ系列にて放送されたドラマ「傷だらけの天使」全26話を作家・西田俊也の視点で再考した約300枚のレビュー(未定稿2012年執筆)です。鑑賞の手引きなどにどうぞ。(リンクフリーです。)

98年の夏。「傷だらけの天使」のドラマを「幻のフィルム発掘」のコンセプトで、まったく新しいオリジナルストーリーを西田俊也が書き、やまだないとの手でコミックにしました。その際コンセプトが始まった経緯とともに、ドラマのレビューをupしました。これはそれを元にしたものです。 

0 プロローグにオープニングタイトルの謎を
  ーーカットされた牛乳ぶっかけは射精を意味していたのか

「傷だらけの天使」が好きだ。 放送されたのが1974年の秋だから、もうかれこれ、40年近くこのドラマの魅力に取り憑かれていることになる。 萩原健一ことショーケンのこのドラマを見たことがない人は多くても、テーマ曲とオープニングタイトルのことは知っている人は少なくないはずだ。 
 革ジャンにゴーグル、白いヘッドフォンをつけて、胸には新聞のナプキンをつけた萩原は、食卓に乱雑に並んだクラッカー、トマト、ソーセージ、コンビーフ、そして牛乳を次々と食べていく。そんな映像によるオープニングタイトルをテレビの懐かしのドラマ特集は必ず流すといっていい定番中の定番だ。そしてそこに流れるのは、当時でも時代遅れだった60年代初めのロックンロールをベースにしたテーマ曲である。その曲はその後もCMなどで何度となく使われている。

 このドラマは視聴率も悪く、打ち切りも覚悟の状態で最終回までなんとか持ちこたえた苦難の番組であった。しかしその後再放送を繰り返すたびに人気は上がり、いまでは70年代を代表するテレビドラマの一本として語り継がれるようになっている。
 また「相棒」で再びブレイクした水谷豊の最初の人気のきっかけはこのドラマである。水谷は開始前に降板した俳優の代役として起用されて、うまくいかなければいつでも殺す予定という首の皮一枚での抜擢だった。水谷は期待に十分に応えたばかりか、すでに大スターだった萩原を追い越すほどの人気を番組中盤に得る。さらにその後主演した映画「青春の殺人者」では演技者としても高く評価されていく。 
 萩原はこのドラマの前にすでに「太陽にほえろ!」「青春の蹉跌」と役者としての実力を十分に示していたが、水谷の人気が放送中にあがっていくことに相当なプレッシャーを感じるようになっていく。萩原は水谷に食われまいとそれまで以上の実力を示し、次なる演技の味を生みだしていく。そしてこのドラマのあとに出演した倉本聰の「前略おふくろ様」でさらに大きな存在となっていく。
 ふたりにとってもこのドラマの存在がいかに大きく、実りあるものであったかは、その後ふたりがテレビや映画で一切共演することがないことからも、生半可な企画や内容では「傷だらけの天使」を超えることができないと誰よりもよくわかっているからだろう。
 萩原と水谷は探偵事務所の下働きをするチンピラ同然の若者で、雇う側である探偵事務所の綾部情報社(探偵事務所と語る場面もある)のボスとナンバーツーを岸田今日子と岸田森という、私生活ではいとこ同士であったふたりのベテラン俳優が演じている。(残念ながら岸田森は83年に、岸田今日子は06年に故人となった)。

 このドラマがその後のドラマや映画などに与えた影響は計り知れないほど大きく、「太陽にほえろ!」で萩原の降板したあと刑事役として抜擢されて人気者となった松田優作の代表作のひとつといえるテレビドラマ「探偵物語」には「傷だらけの天使」をどのように応用したかというアイデアがうかがえるし、類似の映画やドラマも多くつくられている。
 また続編に対する声も絶えずあり、近年も萩原主演で映画として登場するという話も具体的にあったりしたが、まだ実現には至っていない。企画を進めたひとりで、ドラマのメインライターで設定をつくった市川森一が故人となってしまったことも大きい。
 ここではドラマ全26話を順番に追いながら、その紹介と魅力と見どころ、印象的な場面やセリフ、時代背景などを記していく。なぜこのドラマが伝説となっていまも語り継がれるようになっているのかを探り、またドラマの結末上なかなか困難である続編の可能性についても考察していく。キャストスタッフの残した証言を参考にもするが、あくまで基本は全26話の本編にこだわり、映っているものやセリフ、音楽から読み解き、ドラマの全貌に迫りたい。
 最近の萩原健一と「相棒」しか知らない水谷豊の、若き日の姿に興味を持った人や、「仁義なき戦い」の深作欣二や日活ロマンポルノの神代辰巳が監督したテレビ作品を見てみようと思った映画マニアが、26本のドラマのどの回を見ればいいかのガイドを目指し、そして若い頃に見たままで記憶はあいまいになった、元傷だらけの天使たちにとっても、新しい発見と再会があるようにと願う。

 まず挨拶がわりとして、最初にあのオープニングタイトルのことについて語ることにしよう。

 恩地日出夫が監督し、のちに監督としてもデビューする木村大作が手持ちカメラで撮影している。ペントハウスのベッドで眠っていた萩原が、むくりと起きて、冷蔵庫から取りだした食料を食卓でむさぼり食う二分あまりのワンカットワンシーンの長回し。
 食べることはすなわちセックスを暗示させる意図であった。そう証言する関係者は多い。恩地は(シリーズ全体が)どんな内容のものになっても日常の場面を撮っておけば間に合うだろうということで撮ったと語っている。
 最後に萩原は飲んでいた牛乳をカメラに向けてぶっかける。しかしスポンサーが行儀が悪いとクレームをつけてカットされ、その手前で終わるものが使用された。後年懐かしのテレビドラマ特集で幻の未放映カットが放送されている。牛乳=射精の連想に結びついたこともあり、セックス説を裏付ける根拠となっている。
 萩原は、そんなことは後付けだと08年にだした自伝にて一蹴している。時間がないから朝飯を食うという設定の元でただ闇雲にやっただけらしい。
 再見すると確かに時間のなかった様子はうかがえる。最初にタイトルが被る暗転画面の端は透けて見えている。エフェクト処理でなく、その場にあったなにかで適当に覆ったように見える。暗転が終わると現れる萩原もゴーグルのなかで目を開けていて、そのあと目を閉じて、また目を開ける。寝ている設定としてはちょっと杜撰である。
 その真相はともかく、今回再見してもっとべつの気になることがあった。萩原は最初にベッドから立ち上がると、冷蔵庫に向かうように誰もが記憶しているが、じつは真っ先にすることがある。
 左手の壁にある柱時計の文字盤のガラス蓋をバタンと閉じるのだ。動作だけ見ると、目覚まし時計のボタンを押して止めるようにも見えるが、柱時計にそんなな機能はない。いったいどういう意図が込められていたのか。何度見てもわからない。たまたま開いてたから気になっていたという他愛ない理由かもしれないが。なぜ時計の文字盤のガラスが開いていたのか。そのあとにつづく食べる場面が印象に残り過ぎるのか、誰もが忘れてしまうほどのことだけど。
 萩原が食べる様子を恩地のテイストだけで持つかという判断もあり、当初和田誠によるイラストを挿入する予定だった。イラストは現実に描かれている。
 しかし仕上がりは思った以上によく、結局加納典明が担当したモノクロスチールを4カ所に3-4枚の連続インサートに変更になった。和田誠のタッチがドラマの雰囲気にも合わなかったのだろう。
 写真を細かく見ていくと、萩原が叫ぶように口を開いた横に写るのは都屋かつ江のように見える。三話目の「ヌードダンサーに愛の炎を」からのものだろうか。また二話目の「悪女にトラック一杯の幸せを」にでた緑魔子と思える姿もあり、それは萩原とキスをしようとしているカットにも。この写真の選択は、どれもよく、登場するリズムや順番タイミングも音楽に合い、萩原の魅力が散りばめられている。 
 オープニングタイトルは後年物真似芸やコントなどで何度となく披露された。 ゴーグルはアイマスクがわりなのだろうが、レンズはよく見ると透明である。ヘッドフォンはもちろん耳栓代わりであるのだろう。でもゴーグルをつけて寝るなんて痛くないか?  そんなツッコミなど受け付けないほど、このタイトルは当時の視聴者に新鮮な驚きを与えたことは間違いない。
 ただ食べ散らかすだけなのに、どうして萩原はあれほどかっこういいのか。新聞をナプキン代わりにして、牛乳の蓋を瓶をかじって開けることは誰もが真似出来るのに、そのかっこうよさは誰も真似が出来ない。なぜなのか。これからその謎の一端に少しでも触れられればとドラマ本編を丹念に見ていこうと思う。

 さあ、時代は1974年10月5日の土曜日の10時にーー。

  
1 宝石泥棒に子守歌を
  ーー「仁義なき戦い」にでたかったショーケンと深作欣二によるコラボ

 1960年代終わり、GSのスターだった萩原健一はGSブームの去ったあと、同じGSのスターだった沢田研二らとともにPYGを結成したが成功に至らず、沢田はソロ歌手、萩原は役者として活動を始めた。萩原は現代的で不良性のある、やさしき若者というキャラクターで、テレビドラマや映画にでていった。
 なかでも1972年の秋に始まった石原裕次郎主演の「太陽にほえろ」での新人刑事役早見淳(愛称マカロニ)は、それまでになかった刑事らしからぬ長髪とファッショナブルな服装で話題を呼び、また登場一年後にあっけなく殉職してしまったことで、強烈な印象を視聴者に残した。
 またその死に方が刑事として犯人を捕まえるための名誉の殉職でなく、立ち小便をしているときに通りすがりの物取りに腹を刺されて死ぬという無様もので、最後につぶやく「おかあちゃん、熱いな……」のなんともいたたまれない台詞もあって忘れがたいものになった。この死に方は降板を希望した萩原自身の発案だったという。「傷だらけの天使」はその殉職による幕切れから一年少し経った翌74年の秋より始まった。その間萩原主演のテレビドラマは他にも何本もあったが、「太陽」と同局の日本テレビが製作した点、また萩原が東宝で「青春の蹉跌」に主演し、うるさ筋の間でも高く評価されつつあったことからも、これまで以上の大きな期待が寄せられていた。
 さらにもうひとつ、「太陽にほえろ!」のテーマ曲が夏にシングルで発売されて、インストゥルメンタルにも関わらずヒットしていたこと。その曲を演奏作曲している井上堯之バンドが「太陽」につづき「傷だらけの天使」のテーマ並びに音楽を担当することも話題であった。 物語は雑居ビル屋上にあるペントハウスに住むカネのないチンピラの若者が、探偵事務所の下請けをやらされていてやばい世界に顔を突っ込んでいくというのがベースである。
 当時の視聴者、そしていまも、探偵と聞いて思い浮かぶのは、行方不明者捜しとか、浮気調査とかいったものだろうし、どちらかというと正義に近い立場に身を置くものだろう。 しかし「傷だらけの天使」は悪いやつらのほうに重心がかかっているドラマで、主人公たちも自分たちが正義であるとはつゆほども思っていないし、社会よりも道徳よりももっと自分勝手が優先する心情の持ち主だった。
 第一話で描かれる探偵事務所、綾部情報社からの萩原への依頼は、宝石を奪って警察に捕まったあと逃げろというもの。当時の視聴者は探偵のイメージから遠い依頼内容とまた下請けとはいえ、ただのチンピラである萩原の姿とのギャップに面食らった。
 その上ドラマの語り口がこのドラマに初めて接する視聴者にまるでやさしくない。いまならというか、第一回のドラマであるなら、まず二人が探偵の下請けをやっていて、やばいけれど、そこそこ危ない程度の仕事をやっているといった前段があり、今回は「宝石泥棒」という犯罪すれすれ、いや犯罪そのものをやらされることになるといった流れが用意されるだろう。二人がどういうキャラクターであるかが理解されて、萩原の目線に立ってドラマを見ていく準備ができていく。
 ところがそんなことはやらない。ドラマは宝石を奪って逃げて捕まえられるという最初のCMブレイクまで、ノンストップな勢いで進んでいく。
 それもそのはず、この第一話はもともと最初に放送するために撮られていたものではない。視聴者がドラマの前提に馴染む、ちょうどいい塩梅だった頃にぶつける仕様になっていた。 ドラマとしての出来がよかったからか、まったくべつの事情かは諸説あるけれど、このドラマの人気がよくなかったのは、不親切ぶりと、不良性きわまる設定が、視聴者を選んでしまったからではないか。
 土曜の夜10時スタートのこのドラマは、金曜夜8時スタートの「太陽」ができなかった大人の表現、つまり性的なものや公序良俗にひっかかる可能性のある内容を盛り込むことが可能ではあった。萩原は「太陽」での不満をここで解消しようと目論んでいた。
 1974年の秋、高度経済成長からドル切り下げ、石油ショックとなって、世の中の経済や勢いに陰りが生まれた頃。もちろんまだ休みではなかった土曜の夜10時は無礼講が許される始まりの時間でもあった。
 けれどやっぱり見るものを選ぶ。そうとうに選ぶ。大人は見ない。こんなバカバカしいめちゃくちゃなものは見てられないと思ったはずだ。では、若者は見ていたか? 一家に一台だったテレビを二十歳前後の若者が占領することは難しいだろうし、またそれよりも年下である子供はもっと難しい。当時13歳だった筆者が見るこことが出来たのは、嫁いだ姉が残していったテレビが自分の部屋にお下がりとしてあったからだった。
 だからこのドラマを当時リアルタイムで見ていたのは、よほどの萩原ファンだった若い女たちと、名だたる映画監督が演出するという、この番組のもうひとつの売りだった点を番組の紹介で目敏く見つけた一部の映画マニアが主だったはずだ。 その映画監督、第一バッターとして登場したのが深作欣二。当時「仁義なき戦い」五部作を撮り終えた直後。このあと「仁義の墓場」や「県警対組織暴力」といった秀作群を次々発表していく狭間に撮られているのが本作である。それまでにも深作はテレビドラマの監督をしていたが、もっとも旬であるときに違いない。萩原は「青春の蹉跌」の監督に当初深作にラブコールを送り、 ぼくが「仁義なき戦い」にでていないのは信じられない、なぜ呼んでくれなかったのかとも深作にいったらしい。そんな状況である。面白くならないわけがない。

 冒頭街並みと走る電車からカメラはパンして、ビルの屋上にある煙突のついた簡易の風呂桶から立ち上がり、フンドシを巻く萩原をとらえるところから始まり、宝石泥棒犯として警察に捕まり移送中に、何者かが運転するトラックの暴走によって横転させられるパトカーから脱出するまでの最初のシークエンスは何度見ても一気に見せられてしまう。
 テーマ音楽と劇伴を巧みに使い分けて、静と動のエピソードを緩急つけながら語っていく演出とカメラワーク。深作は何台ものカメラを回して、ときには自分ででも回すという演出術を持つ。とりわけ、萩原が宝石強盗として警察官に追われる歩道橋でのチェイスは秀逸だ。歩道橋の階段を横からとらえ、警察官が整列するように並んで追いかけていく。おかしさが入り交じった美しさといいたくなる描写は、「太陽」にもなければ、他のテレビドラマでもなかなかお目にかかれないものでまさに映画だった。
 その頃の萩原は、限りない可能性を秘めた子供で、動物的なカンを持っていたと共演の岸田今日子は語っている。そういった頭で考えるよりも体が反応したかのような演技をする萩原に呼応するように、演出も引っ張られるように動物的な勢いで進んでいく。段取りよくひとつずつわかりやすく進んでいくようなスタイルを好む人々には受け入れがたかったのだろう。
 ただ、この頃のテレビの夜10時以降というのは大人の時間帯でもあり、猥雑なお色気と残酷なアクションも珍しくなかったから、「傷だらけの天使」がとりわけ特異で規格からはみだしていたというわけではない。 宝石泥棒から宝石を奪って国外に持ちだす組織にいる運び屋たち。彼らは女の体のなかに宝石を仕込んで運んでいる。仕込まれる役目を負った外人女は、巨額の価値のある宝石をいくつでみ詰め込むことができる部分を直接見せるかわりに、胸がはちきれんばかりの小さなビキニをつけて、なぜか日本人の濡れ場が映る映画を楽しんで見ている。 また番組終了一年半後に、萩本欽一の奥さん役として登場し、すっかりいい奥さんに変身してしまう真屋順子は、バストトップもチラ見せするほどの熱演で課長と団地で真昼の情事を熱演する。
 宝石泥棒の追っかけに、カーアクションにお色気、さらに萩原がバイクで走るといった見せ場も用意されている。たった45分ほどのドラマにこれでもかとばかりあふれている。 深作は「傷だらけの天使」以前に同じ土曜9時より始まる「キイハンター」というアクションドラマに参加した経歴がある。元ジュネーブの諜報員だったという主人公が警察の手に負えない事件を解決するというドラマは無国籍かついい加減なところもあった。深作は、ゆっくり構えていたら嘘がバレバレになってしまうと「キイ」について語っている。深作は「キイ」のことが頭にあっただろう。「キイ」は回を追うごとに荒唐無稽さを増して、再放送で子供たちに支持を受けていく。このときに培われた子供の目が「傷だらけの天使」再放送での人気につながっていく下地にもなったのではないだろうか。「キイハンター」を一方の遺伝子に持つ、今作を製作者や萩原は真っ先に視聴者に見せて、びっくりさせてやりたかったんだろう。
 しかしこの回はその後多くの人に語られていく「傷だらけの天使」とはこれだ! というものではない。ドラマの骨格や展開は他の回の好作と変わらないがドラマの持つ空気感が違う。「傷だらけの天使」といえば、水谷豊の「アニキー」であったりするあの二人のやり取りは、ほとんどでてこない。水谷の芝居はそれまでの彼の手持ちの演技であり「傷だらけの天使」で起きる演劇的化学反応の爆発はまだない。なによりもあの鼻にかかった発声法、みんなが真似した亨はまだいない。 
 一方萩原は滑舌など無視した聞き取りづらいしゃべりと、突然怒鳴ったかと思えばつぶやくようにいう上下の激しい発声がすでに十分ある。しかしバイクに乗ってテーマ曲をでたらめにスキャットする、ある種視聴者へのサービスともいえるカットはこの回限り。萩原はシリーズ中何度も鼻歌を口ずさむが主人公が登場するドラマのテーマ曲を歌うというわかりやすい選曲を一度も取らない。ここにいる萩原はドラマの主人公というより、でラマを楽しんだ中学生が自転車にでも乗りながらいい気になっている姿みたいだ。
 西村晃演じる刑事の登場もレギュラーのように見えて、このあとの登板は七回目と最終回のみだ。さらに同じくときおりでてきてもいいはずの古道具屋で、かつ広島ヤクザであるという金子信夫はこの回限り。「仁義なき戦い」のレギュラーだった金子のほうは深作つながりによるゲストという側面もあったのだろうが、ふつうのドラマとしてお気軽につくって視聴者の馴染み感をあおるなら何度も使えたはずだ。「傷だらけの天使」の後番組として用意された(放送曜日と時間帯は変更になる)「俺たちの勲章」では主役の松田優作と中村雅俊の周辺には刑事であるふたりの立ち寄る飲み屋が配されていて佐藤蛾二郎などが出演していた。「傷だらけの天使」に欠けていたものを補ったのだろう。
 この回はスケジュールも大幅に超過し、当然予算も大幅に増え、予定したキャストにカネが回らなくなったというプロデューサーのひとりだった磯野理の証言もある。この回に限らず予算の超過は最初の八回で十五回分を使い果たし、残りの十八回を十三回分で撮り切る、つまり30分ドラマの予算で一時間ドラマを撮らざるを得ないことになったらしい。
 しかしよけいなサブキャラを配さず、主要なキャストのみでドラマをつくったことは、かえって萩原と水谷の芝居を濃密にし他のドラマにない味わいを生み、このドラマを孤高の位置に押し上げるのに一役買っている。
 この回を「傷だらけの天使」と勘違いしてはいけない。しかしこの回は「傷だらけの天使」を代表する一作であることは間違いない。
 警察から逃走した萩原演じるところの木暮修は、水谷豊演じる乾亨に電話をして、宝石を奪って逃げるときにぶつかってケガをさせた子供の容体を訊く。修は運び屋たちに拉致されるが、再び逃亡して、子供のところに向かう。子供は子役だった頃の坂上忍が演じている。母は真屋順子である。
 修がなぜ子供のことを気にかけたかは、彼も三歳の子を持っているからだった。粗暴でありながら心が優しい。まさに傷だらけの天使である。仕事を依頼した探偵事務所の綾部情報社は子供を誘拐して、運び屋たちの仕業と見せかけ、脱線した修を彼らの描いた絵にもう一度引き戻す。修は亨とともに子供を救うため、宝石の運び屋たちのところに乗り込んでいく。運び屋たちがいる場所は廃墟のボウリング場で、修と亨はバイクに二人乗りをして、ボウリング場の階段を走る……。物語の結末はここでは書かない。これから初めてドラマを見ようとする人のために。そして以前見たまますっかり忘れている人にもう一度見てもらうために。萩原のバイクが最後にどこへ向かうかは見てのお楽しみだ。

 以下ランダムに語れば、萩原はバイクにまたがりテーマ曲を口ずさむが、夏の撮影と思われるこの頃すでにテーマ曲があった。しかしこの場面はアフレコである。放送直前に萩原が入れたのだろう。それとも萩原が元メロを作曲していたのでは? と夢想したくなるほどよくはまっている。あのテーマ曲といえば、あの、トマトやコンビーフを萩原がゴーグルとヘッドフォンをつけて食べるオープニングタイトルが思い浮かぶだろうが、ここのバイク疾走の、でたらめなスキャットを忘れてはいけない。
「生きるか死ぬかの瀬戸際にかっこなんかかまってられるか」 これは萩原がドラマ一発目に吐くセリフ。対する水谷はそれを受けて、シェークスピアのセリフをもじってかっこつけようとするのだがラグビー(アメリカンフットボール?)のボールにつまずいてしまう。
 このくだりは重要な伏線としてラストに活かされるが、すでにこのドラマシリーズの結末を知っているものにとっては、心がじんとならざるを得ないくだりでもある。またシェークスピアからの引用は最終回の冒頭でももう一度行われている。
 この回は芝英三郎が書いている。メインライターで番組立ち上げから関わりドラマの設定をつくった市川森一は、このセリフを覚えていたのだろうか、それともただの偶然だったのだろうか。
 水谷の起用は他の俳優を降板させたため。売れっ子だったその俳優のスケジュールがあまりに過酷であったからだ。水谷は萩原らスタッフの身近でうろうろしていた一人だった。予定していた俳優に較べると、ときおりドラマに顔をだしている若手俳優としか知られてなかった水谷。萩原の相手として半年間起用し続けるのはたいへんな冒険だったらしい。なにしろ降板させた俳優で番組のセールスをスポンサーにしていただけに、失敗すればプロデューサーの首が飛ぶのは必至の状況だった。
 うまくいかなければ殺せばいいと思っていたと市川森一は語っていた。
 おそらくこのセリフのやり取りや設定が最終回の伏線であるともいえるのはただの偶然だ。しかし屋上に置かれた簡易風呂といい揃っている。もうひとつよけいなことをいえば、宝石を隠すための道具として使われるボールもこの回限り。けれど萩原の「青春の蹉跌」において、彼はアメリカンフットボールの選手だった。あのボールはもしかして……などと考えてみたり。


2 悪女にトラック一杯の幸せを
  ーー悪女は萩原と水谷を両脇に抱いてベッドで眠った

 タイトルにある「トラック一杯の幸せ」とは、当時人気DJだった落合恵子の「スプーン一杯の幸せ」。またそこから派生したアグネス・チャンの「ポケット一杯の幸せ」などからつけられたものだろう。「傷だらけの天使」は、萩原であり、水谷豊であり、岸田森であり、岸田今日子であり、これらどの顔ぶれがかけても成立しないものである。しかしそれはドラマが続くなかで生まれてくるアンサンブルにあり、スタートした時点にそれらはまだない。
 この回は夏服を着ていることと、オープニングタイトルを撮った恩地日出夫が監督していたこと、さらに萩原の髪型が前回よりやや短く、まだ散髪仕立てのように整っていることから、最初に撮られたことは間違いない。ゆえに「傷だらけの天使」になっていく原石が無防備に転がっている。
 その原石のひとつは萩原が持つ天性の資質である。
 今回冒頭、このメシを食ったらもう終わりだよという水谷に、だったらおまえ食うな、これはみんなオレが買ったものだからといってメシを食いながら見せる、萩原の壊れかけたスロットマシーンの窓のような目の演技。
 依頼人である緑魔子を襲った連中に車のドアで手を痛めつけられるときに発声する、チンチンに毛が生えている大人がだすとは思えない悲鳴と、なにも知らないくせにあっけなく白状するという情けないのかバカなのかわからない豹変ぶり。
 前者については珍しくないけれど、後者については脇のチンピラならまだしも、主演クラスの二枚目俳優がやる芝居でちゃんとさまになるのは萩原以外いないという独壇場だった。
 そしてとどめは悪女・緑魔子に恋心を持った萩原が、トラック一杯の盗品である銀食器を質屋に二束三文で売ったあと、おまえにはもっといいものを買ってやりたいといって、今度はエナメルの靴を買ってやるからよ、というくだり。なぜ靴なのかは、河原の上を裸足になってまで逃げようとした緑を萩原が車でのろのろと追いかけたシークエンスがあったからなのだが、そこにひとことさらに付け加えられるのは、「(靴なら)みんな持っているからよ」というセリフ。
 萩原以前に好きという告白を好きの言葉を使わずに、しかもはにかみながら、自信ともはったりとも違う、心のぶれとともに演じることができる俳優はいなかったというような演出家・蜷川幸雄の指摘がある。
 まさにここはその萩原だけの萩原の前に萩原なし、萩原の後に萩原なし、の烙印。「みんな持っているからよ」の唐突に付け加えられるこのセリフはアドリブではないだろうか。残された他の回の脚本から推理すれば、萩原はセリフの核を拾い出して、独自のリズムで言葉を並べていくことが多いので、今回も脚本にあったとしても、同様と思われる。
 またこのセリフが吐かれるのは質屋をでたあとの、どこにもであるような道路を歩きながらである点が、非日常的なドラマのなかで行われることでぐっとリアルさを増している。「傷だらけの天使」のほんとうの魅力のひとつとは、こういったところにもある。まず萩原以外にできない芝居と空気感があって、そこに吸い寄せられるように、シナリオライターの市川森一が、監督の深作が、神代辰巳が、音楽の井上堯之バンドが、水谷が、岸田がと集まったのだ。そしてその萩原に対して彼らは触発されて対抗し闘いを挑んだ記録が全26回に収められている。
 原石といえば、井上堯之バンドの曲たちも忘れてはいけない。井上堯之バンドは萩原沢田とともにPYGを組む、GSの盟友である井上と大野克夫らが中心になっている。彼らはソロとなった沢田のバックバンドとして活動することからスタートし、「太陽にほえろ!」のサウンドトラックを萩原の推薦で提供した。「太陽」「傷だらけの天使」のテーマはともにキーボードの大野克夫が作曲していて、バンド名となっているリーダーの井上ではない。ギタリストである井上は作曲をしないのかといえば派手なリードよりも堅実なサイドに持ち味のある演奏と同じく、地味ながら心に迫る曲を書く。あのお馴染みのテーマで語られることが多い「傷だらけの天使」だが、「傷だらけの天使」の忘れられなさは、井上が書いた脇の劇伴に追うところも大きい。
 井上は萩原の演技者としての資質を決定づける「青春の蹉跌」の音楽を全曲担当し、萩原の揺れ動く内面を鮮やかにかつ哀切を伴いながら描くことにも成功している。 大野が陽なら、井上は陰を紡ぎだす。井上だけなら、このドラマは暗く重苦しい物になったかもしれないが、大野の書いたテーマやそのバリエーションの派手さがドラマに活気と軽みを与えることに成功し、かつ井上のメロディがドラマの持つ突飛ともいえる設定と展開を下支えしている。
 前回の冒頭からCMブレイクまでの緩急つけた演出は、監督が違っても今回も健在である。ひとつの要因に用意された音楽の粒が揃っていたことも大きい。派手な曲につづいてミディアム、そしてバラードと続いていく流れは、萩原がどれだけ無茶をやっても、うまくおさめてくれるバラードの存在により、彼のよるべなきやるせない心が伝わってきて、視聴者のシンパシーをつかみ取ることに成功している。 
 今回の物語は依頼人の緑魔子につきまとう、しつこい恋人をガードしてくれというもの。明日からの食料がなくなった萩原はやばい仕事には手をだしたくないといいながらも美女という誘いに引き寄せられて仕事を引き受ける。緑魔子は商社がステンレスの食器として輸入した高価な銀食器を奪っている。つきまとうのはそのときの仲間である。緑は萩原を利用して銀食器をカネにすることを考えていることが次第に明らかになっていく。
 緑魔子は日本人とは思えない美しい顔立ちとスリムな容姿である。しかし同時期テレビにあふれだしたティーンアイドルの歌手しか知らない十代の子供だった筆者にとっては敷居の高い女性であり、その美しさはよくわからなかった。
 緑はすぱっと脱いで、ぼかしが入るほどの惜しげなさで裸体を見せて、萩原と水谷とともにベッドで眠る。最初は萩原とだけベッドイン。隣で水谷はオープニングタイトルで萩原がつけているあの白いヘッドフォンをしてなにも聞いてないよと顔を横に向けている。しかしヘッドフォンは無音であったことがわかり、緑が水谷を同じベッドに招いていく。萩原は水谷をベッドから下ろそうと緑に気づかれないように押したり叩いたりするのだが、緑は萩原と水谷を両脇に抱えて眠るのである。 
 緑の裸は、華奢な肢体ゆえにかスケベさはあまりない。はたしてどれだけ当時の色気目当てで見ていた茶の間のオッサンを喜ばせたのかわからない。
 しかしきっと緑は、萩原のドラマだ、下手なことはできない、全身全霊で役に打ち込むという気概を持って望んだのだろう。少なくともドラマを見ていたものは、緑の持つ妖しく儚い面立ちと立ち姿を忘れられなかったはずだ。
 美しいとえば、岸田今日子の美しさも他にない。憧れの萩原と共演できると岸田は出演依頼に喜んだという談話が残っている。それはたぶん、萩原が「青春の蹉跌」の前にでた、初めての主演映画である「約束」で、彼よりも年上となる岸恵子を相手に印象的なラブシーンを演じたこともあるのだろう。岸田今日子も萩原の恋の相手となるのではないかと期待があったのかも? ところがフタを開けると、前回金子信夫扮する古道具屋に向かって、あのクソババア、なんでもしゃべりやがって、と萩原は岸田に悪態をついている。岸田今日子はショックだったという。なにしろ彼女は子供を宿したときの胎教に、萩原がいたGSグループ、テンプターズを聞いていたほどのファンだったのだ。
 しかし緑同様岸田の美しさを理解するには年輪がいる。筆者は萩原のいう、クソババアにくすりと笑う。
 岸田演じる綾部貴子は綾部情報社を名乗り、社会の暗部にするりと手を入れて、匂い立つような香水の香りとともに、生々しいカネや欲望を奪い取る。優雅で気品あり、瀟洒で悪趣味すれすれのセンスを全身どころか情報社の隅々までを覆い尽くした上に、自分が登場するときには怪しげな音楽を自らプレイヤーにかけて現れる女。
 こんなハードルの高い女はなかなか理解できない。けれどこいつのような女がいるのが世の中のほんとうなのだろうと思わせる。「太陽」で萩原の上司であった石原裕次郎も、往年の青春スターで、瘦せていて、足がさっと長かった頃を知らないものにとっては、太った色黒のオッサンでしかなかったけれど、石原は萩原の刑事としてのれっきとしたボスであり、敵ではない。
 しかし岸田は萩原を愛しながらも利用してカネを得ることを生業としている。 視聴者にとって、そして萩原にとっては、身内であるよりも敵であるような存在だ。それを「クソババア」というひとことで、イヤミなくまたかわいく直截に吐き捨てる萩原のすばらしさ。
 とはいえ、以上のようなことをドラマからすぐに受け取って言語化するのは、のちのちのことであり、ドラマを見ているものは、ただ二人の得体の知れなさに翻弄されるだけだ。
 そこで用意されているのが次のセリフのやりとりだ。時価三億円となる銀食器を奪って転売するために用心棒として雇った萩原にその売りさばきのからくりを緑は話す。萩原は感心したのち、あんた、大学出? と訊く。萩原は中学しかでていない。頭のいいことをいう人はみんな大学出であるという理屈は冗談でなく、当時としてはよくある考えだった。「青春の蹉跌」で大学どころか医学部にいる医者の卵を演じた萩原はどう見たって頭がいいようには見えない。それを神代演出の見事な絡めてで、リアルさに転じたところが演技者萩原の凄かったところだったが、チンピラのほうが板についていることは確かである。
 大学、中卒のやり取りは、水谷をくわえて、銀食器の転売を始めたくだりで、再度登場する。今度は水谷が、アニキは中学卒業だから、とうらやましがる。「あいつも中学だけは卒業させてやりたかったな」と萩原はパシリに向かう水谷の背中につぶやく。
 下には下がいるのだ。
 大卒はまだ珍しくなくても高卒はいくらでもいた世の中で中卒は希有な存在。さらにその下がいて、そいつはまるで悩む様子もなく、腹は減るけれどニカニカ笑って楽しげにしている。
 視聴者の多くは彼らよりは学歴は上だったろう。しかし二人の屈託ない様子に学歴社会の軋轢にいる窮屈な心情を解き放つ楽園性を見たのだろう。
 そして美女か悪女か悪魔か貴族かわからない女たちに対する混乱を、しょせんオレたちは中卒、中学中退という頭のせいに、世の中を渡っていく心の落としどころを学んだはずだ。
 のちにこのドラマは再放送で人気を得ていく。当時の再放送は平日四時が定番で、それらをクラブに入らない文化系帰宅部が急いで学校から帰って見た。彼らは高校生だったり、中学生だったわけだから、萩原や水谷が自分たちとほとんど学歴は変わらないという点でシンパシーを感じたはずだ。受験戦争が盛んだった70年代、高校生は大学になど行かずに、このまま辞めて、中卒を名乗って、萩原のように自由気ままに生きたかった。同じく再放送される青春学園ドラマの多くは学校幻想を持ち、先生をヒーローとして描いていた。しかし「傷だらけの天使」は学校も先生もでてこないのに、彼らの心情にずっとリアルに響いたのだった。 萩原の着る衣装は菊池武男のBIGIが提供している。衣装はまだまだ役者の自前か撮影所の衣装部が用意してる時代にきわめて珍しいことだった。BIGIの季節外れの売れ残りを買い取ったと萩原はいっている。
 革ジャンやコートはもちろん高く、簡単に買えるものではない。萩原はシャツの下に下着を見せる着こなしをしていた。「仁義なき戦い」でも菅原文太や松方弘樹たちもしている。当時下着のシャツは襟ぐりの広いものやランニングシャツが主であった。萩原の真似をしたい日本中の学校にいる傷だらけの天使たちは(筆者も含めて)萩原と同じ下着を学生服のカッターシャツの下に着ようとした。しかしなかなかシャツは見つからず、あきらめた天使たちはTシャツで代用した。そういう時代だったのだ、1970年代半ばは。ポパイもホットドッドプレスも創刊するにはあと数年待たなければならない。

3 ヌードダンサーに愛の炎を
 ーーボカシ入りのストリップが土曜の夜10時に流れた

 今回は第一回「宝石泥棒」と同じ深作欣二による監督作。二作をひとりの監督が同時期に撮るのはテレビドラマ製作の通例である。
 シリーズ撮影初期に撮られたのだろう、前回同様萩原の髪は散髪仕立てのにおいがあり、また番宣として使われたり、翌75年に発売されるサントラのLPレコードでも使われている、ペントハウスでの萩原、水谷、両岸田のスチールはこの回に撮られたもの。ヤクザ事務所に乗り込んだ萩原と岸田森は顔中をケガして血に汚れて、服はずたずたになっている。岸田今日子はシリーズ中最初で最後のペントハウスへの登場であった。
 番組のポスター、テーマ曲シングル盤、そして日本テレビの出版部よりだされた唯一のノベライズ本の写真は、白いスーツに赤いバラを手に持つ萩原である。これは撮影開始前に撮影されたのだろう。「宝石泥棒」同様、今回も萩原は徹底的に痛みつけられて血まみれズタボロとなり、まさに傷だらけ。白スーツに赤いバラの萩原はどちらかというと怪しい天使といった雰囲気を醸しだしている。
 傷だらけとなった萩原はハンパない汚れっぷり。赤い血、かさぶた、破れたシャツ、おまけに「宝石泥棒」ではパトカーでの連行時に鼻にティッシュまで突っ込んでいるみっともなさ。
 深作の「仁義なき戦い」では珍しくもない出で立ちであり、萩原もそれを望んでやったのだろう。深作は、萩原を松田優作とともに「仁義なき戦い」になぜ呼ばなかったのか、そうすれば歴史に残っていたのにということを述べている。
 しかしひどい姿であるのに萩原のかっこいいこと。かっこわるいのにかっこいいという表現。「傷だらけの天使」というタイトルが象徴するように、傷と天使という相反するものをひとつにしてしまう萩原だけにできたマジック。深作は知っていたのだろう、痛めつければ痛めつけるほど萩原が輝きだすことを。
 で、この深作監督作。「宝石泥棒」と同じ監督が撮ったとは思えないほどタッチが違う。「宝石」が動なら、こちらは「静」。しかし落ち着いたタッチかと勘違いしてはいけない。冒頭から髷を結った腰巻き姿のストリップダンサーが乱舞し、次から次へと裸が飛びだしていくのだから、「静」のイメージからは遠い。「宝石泥棒」は井上堯之バンドの曲を矢継ぎ早につないでいくのに対して、こちらはある一瞬の決定的なところまでは井上堯之バンドの曲は一切鳴らず、かかるのは当時のヒット歌謡曲のオンパレード。キャンディーズの「危ない土曜日」に、ぴんから兄弟「女の道」に、リンリンランの「恋のインディアン人形」。それらは文字通りストリップのBGMとして流れていく。 浅草ロック座で撮影された同作は本物のストリップショーを前にして、楽屋、舞台袖、客席といったところで、萩原たちは芝居をする。当時の視聴者はストリップ小屋にいるような臨場感を味わい、土曜の夜の束の間の解放を、目と体で味わっただろう。
 またそのストリッパーとして現れる今回のゲスト中山麻里の裸体は、豊穣で均整の取れたスタイル。そして美しい面立ちとくれば、そんじょそこらのストリップ小屋では見られない極上品だ。
 中山麻里はバレーボールドラマの「サインはV」で知られることになった女優だが、この頃に「週刊プレイボーイ」でヌードを披露しているものの、裸体によるお茶の間登場は衝撃的であった。「サインはV」以降目立った活躍のなかった中山麻里がいきなり裸でしかも当時の日本人があまり見たことなかった立派なプロポーションで踊ってくれるとは! その衝撃たるや、女には興味のない顔をしている、綾部情報社のナンバーツーの岸田森までもが、クールな相貌を変えて、仕事の種に撮った中山麻里のヌード写真をスーツのポケットに隠してしまうほどである。
 おそらく当時の視聴者がよく知らずにつけたテレビで中山のストリップを見た瞬間、こんなことがテレビで起きていいのかと目を疑い、なにかわからぬまま、見続けて、翌々日会社や学校にいって、土曜日の夜にものすごいテレビをやっていたんだけど、おまえ見たかといった人は少なくないはずだ。
 そのひとりが自分だったと筆者はいいたいけれど、この回リアルタイムでは見なかった。悲しいかな中学生だった筆者は、10月の19日あったこの放送を、月末にある中間試験の準備のために見なかった。
 土曜の夜であっても許されぬほどの露出だったのだ。その後の再放送がたいがい夕方四時だったときに放送されるわけがない。今作は常に未放送となり、のちに再放送枠が深夜になった時期に筆者は初めて見ることになる。「傷だらけの天使」がとりわけ熱く語られる要因のひとつに、今作をリアルタイムで見たかどうかや、あの幻の作をついに見たということも含まれていることもあるだろう。録画やソフトやネットが揃ったいまではなかなか起きえない、あの頃のドラマだけができたイベント性のひとつだといえる。
 ではどういうところが「静」かといえば、資産家の家出娘であるストリッパーの中山をヒモである元ヤクザと別れさせるために、萩原と水谷は浅草ロック座に綾部情報社より送り込まれた。
 元ヤクザを演じているのは室田日出男。深作組からの登板。同作出演後である翌年萩原主演の「前略おふくろ様」でおなじく東映の悪役だった川谷拓三とともに、茶の間の人気者になっていく。しかしこのときはまだ、テレビではときどき見かけるヤクザ役のひとりでしかない。
 そんな男に萩原と水谷は心酔していき、果てはいっしょにドスを手にして殴り込みに乗り込んでいくまでとなる。ふたりが乗り込むことを決めたとき、先に書いた井上堯之バンドの曲が初めて流れるのだ。待ってました! といいたくなる瞬間。まさにストリッパーの御開帳がここでも起きたというタイミングだった。
 派手でにぎやかなストリップの裏で繰り広げられていく男の絆と、女との断ち切れぬ愛が、ろうそくの火のようにはかなく揺れながら描かれていく。またそこに笑いの要素がアクセントとなって盛り込まれて、飽きる間もない。やはり映画監督深作欣二の底力か。
 もうひとつ、「静」たるゆえんは、ソフトフォーカスをかけたレンズによる撮影にある。「宝石泥棒」で見られたカメラをぶん回しているかのような動きのあるカメラは、今回は夢でも見ているようなあるいは走馬燈のなかから世界を見つめているような、甘く儚い色合いによる画面をつくっていく。
 ストリップ小屋のなかでちょっと使われるときはやや違和感があるものの、その後に室田と萩原が殴り込みに向かう浅草仲見世の通りから殴り込みをかけるまでの使われ方は、ハードで厳しい現実をストリップのスポットライトやご開帳が見せてくれる観音の灯火のように変えていく。
 そしてラスト近く再びのソフトフォーカスの画面構成が、現実と幻を紙一重にして、この回を土曜の夜の一瞬を永遠にしてくれる。ここと殴り込みの場面だけでソフトフォーカスはよかったかもしれないが、やや違和感ととられるかもしれない最初の使いがあってこそ、くどくなく、これ見よがしでない、本物の幻をつくりだしている。 のちに字の知らない萩原と水谷がみょうちくりんな当て字で調査報告を書くのだが、「傷だらけの天使」初登場となる漢字ネタがでる。萩原は知らないのでなく、よく知っている上に、漢字の本質まで射抜くセリフを吐く。
 ストリップ小屋のやり手ばばあとして登場する都屋かつ江が、努力の努ってどう書くんだいと訊いて、女に又と書いて、力を書いて、しめるんです、と艶小咄のような答を返す。
 しめるんですとちょっと恥ずかしげににやけた調子で萩原はいう。艶小咄にあるイヤらしさや粋さはない。しかししゃれたかっこよさが漲っている。
 萩原は木枯らし紋次郎バリか、萩原が出演した市川崑の「股旅」のような姿となって、中山麻里を手込めにしようとして、ホテルに誘いだすことに成功する。そこでいう「努力の努だよ」というセリフは先のくだりをさらに増幅させる笑いにつながり、また結局失敗してしまい。ホテルで待っているのは、努力の字を訊ねた張本人の都屋かつ江だったというオチになる。
 萩原の顔は笑い、くしゃくしゃとなり、あるいは眉毛をずり下げ、また舌で自分の頬を押すなど、せわしなく変わっていく。
 ジェットコースターに乗ったような高低差に満ちあふれた台詞回しにくわえて、顔の演技があり、しなやかでありながら不格好な動きがある。
 萩原はガキか大人かわからないどころか、都会に紛れ込んだ、けだものであり、またペットのように愛くるしさも持ち合わせている。
 劇団ひまわり出身で芸歴はその時点で萩原とほとんど同じといっていいくらい長かった水谷だが、いつ首が切られるかわからなかったかもしれない危うい身である。レギュラーとして残るため、萩原とどう関わり、自分をアピールしていくかを相当に考えたはずだ。
 水谷は黙っていれば陰性なイメージを醸しだし、影ある不良役や犯罪者を演じていた。水谷が萩原に挑むためにはそういった役柄では太刀打ちできないと早くに気づいたのだろう。水谷は白い歯を見せて、笑い、ころころと表情を変化させる。 ストリッパーたちに、童貞でしょ、とからかわれる彼は違うよといいながら、鼻にかかった甘え声でなついていく。そして今回のラスト近くで、童貞を卒業したという幻想とおぼしき出来事を自慢げに萩原に告げるとき、水谷は鼻声でまた話しだす。我々がよく知るあのアキラがそこにいるけれど、まだまだ遠い。ここまでの水谷は他にいくらでもいる若手無名俳優に首をすげ替えても「傷だらけの天使」の屋台骨は揺るがないくらいしかの力量しか示せていない。
 萩原は殴り込みに勇躍でかけるものの、なにもできず、バケモノ屋敷から飛び出す腰抜けのアンチャンみたいな悲鳴を上げて逃げていく。この芝居も萩原だけの特許品に見える。「動きながら声を出せないといけないし、声を出しながら怖がらないといけないし」と後年深作は「バトル・ロワイアル」でのアクション演出指導で語っている。萩原にも同じようなことがあったのかもしれない。おとなしい俳優だったら、あの勢いにぶっ飛ばされてしまうと萩原の当時の芝居についてもいってる。まさに並の俳優なら太刀打ちできない勢いにあふれていた。
 さて役者としてはずっと先輩である岸田森は白い顔で不適な笑みを浮かべて、萩原にどう対抗していったか? 「宝石泥棒」で萩原が泥棒のときにケガさせてしまった子供のために依頼人を裏切る行動にでたように、岸田森はボスである岸田今日子に下衆で恥ずかしい男の欲情を見破られたことへの反発心と羞恥から岸田今日子を裏切り暴走を始める。
 そのとき岸田森は萩原に、デュポンのライターを進展する。ライターはその後重要な役目としてでてくるわけではない。このあたりは岸田森の萩原への岸田森なりの挑戦だったのではないかというように夢想したくなる。
 岸田森は胃下垂で食事のあとには必ず胃薬を飲む。今回初めてその様子がでてくるけれど、まださりげなく、胃薬であるかどうかは視聴者には伝えられていない。これももしかすると岸田森がオリジナルとして付け加えた、辰巳五郎という男の輪郭だったのかもしれない。
 さっき岸田森の顔を白といったけれど、なぜそういったかは萩原の顔があまりにも黒く日焼けしているからもある。たまたまなのか、いやふたりのことだから、そんなことはない。萩原が天然ともいえる資質で黒くなったとしたとしても、岸田森は思ったはずだ、よし、おまえが黒くなれば、ぼくはどこまでも白くなるよ、と。岸田森の出演した映画「血を吸う薔薇」で演じた吸血鬼を役作りにしたとも本人がのちに語っている。
 もちろん岸田今日子はなにもしなくても透き通るように白い。この黒と白が雇い人と雇われ人として、持ちつ持たれつ、ときに裏切り手を組み合っていく。ここにも傷だらけの天使というタイトルに秘められた相反するもの同士の調和が潜んでいる。
 脚本は市川森一。「怪獣ブースカ」でデビューし「ウルトラセブン」で頭角を現した彼は大人のドラマに軸足を移して、まだまだ売り出し中といえる頃だった。あんたはうまくないけど、ハートはある、と深作にいわれて、ありがとうございましたと直立不動で答えていたとプロデューサーのひとり磯野理はのちに語っている。


4 港町に男涙のブルースを
  ーー軍歌と浪曲子守歌が流れるシュールな一作

 今回の監督は神代辰巳。深作欣二とともに、「傷だらけの天使」の映画監督起用の目玉のひとりであり、また日本映画でも、マニアのあいだで深作とともに人気を二分した日活ロマンポルノの鬼才である。さらに初の日活ロマンポルノ外の仕事が、萩原主演の東宝・文芸作品「青春の蹉跌」だったわけで、そういった事情をよく知るものの期待が高まらないわけがない。
 筆者は再見するまで今作の印象はそれほどよくないものだった。もしこの作品から「傷だらけの天使」に接した人がいたら、暗くてよくわからない、やけに裸と生々しいセックスシーンがでてきて、後味がよくなかったという感想を持ったかもしれない。そしてこのシリーズの広大な魅力に気づかないまま見ることから離れていったとしても仕方ないだろう。それくらい他の作品群と一線を画す出来であることは確かである。
 しかし今回久しぶりに見た筆者は、初見だった十代からも四十年近く経っているせいか、ここにある世界の奥が見据えることができた。作品というのは見るとき、年齢、環境によって、語りかけるものが違うものだとつくづく思った。
 まずこの回は前回同様BGMの井上堯之バンド率が低く、かわりに鳴るのは三味線が奏でる軍歌「戦友」であったり、「海ゆかば」であったり、萩原の鼻歌による、逃げた女房にゃ未練はないがの歌詞で知られる「浪曲子守歌」であったりする。前回の歌謡曲や演歌がストリップでのBGMだったわかりやすさに較べると、たとえ三味線で滑稽味をつけた軍歌であってたとしても、暗く重苦しい。 
 オープニングタイトルにあるスタッフクレジットには選曲というのがあり、同作は鈴木清司が初期八作(予算が十五作分かかったところ)で関わっている。鈴木は日本では珍しかった選曲という作業を独立した形で請け負った第一人者として知られる。ドラマを初期(1-13話)中期(14-22話)後期(23-26話)として分けるとすれば、鈴木がいなくなって以降特に中期からの選曲に疑問を抱くときが何度となくある。「傷だらけの天使」の初期の素晴らしさは鈴木に追うところも大きかったのかもしれない。
 しかしその鈴木の多彩な選曲のセンスを持ってしても、いつもの切れ味が乏しい。いや演出の意図に答えすぎてしまって、お茶の間のセンスを飛び越えてしまっているのかもしれない。 
 今回「浪曲子守歌」を萩原は歌い、竹竿を手にして棒高跳びをする。物語とは直接関係ないカットとして挟み込まれている。萩原の心的状態を描いているのだろうが、テレビ視聴者にとっては難解に映り、気楽な気持ちで見ているものにとってやさしくない。
 萩原による「浪曲子守歌」は「青春の蹉跌」でシラケた医学生である主人公が自身の上昇が常に内的には下降していくありさまを「エンヤトット」という民謡のフレーズを繰り返して表現したところや、同じく同映画で唐突に挟み込まれる「ゼロックス」のCMインサートを想起させる。萩原のコアなファンにはたまらないものであっても、どういうわけかあまり真似したいと思わない空回りがある。同じ萩原の鼻歌である「たまらん節」がドラマを語るときに何度となくいわれるのに対して、「浪曲子守歌」のことをいう人に筆者は会ったことがない。
 また千葉の鴨川グランドホテルとのタイアップでその周辺でロケされたにもかかわらず、日本海を思わせるような荒涼とした寂しさが全体を覆っていて、いちおう若者向けにつくられていたはずのドラマのイメージを裏切っている。
 そしてこれはこの回の責任ではないのだが、深作監督作の仕上がりの遅れがそうなったのだろう、前回ストリッパーに対して、今回ヌードスタジオが舞台と似たものが連続している。ゲストである池部良はヌードモデルのヒモのような存在といった点でも似てしまっている。とはいえ再放送で見ていたものは前回が未放送だったから関係ないといえば関係ないのだけど。
 さらに45分の短い時間にたっぷりと押し込めたせいか、ややあっけなく見えるラストの印象もプラスに働きにくかったとも思われる。
 でも先の「浪曲子守歌」を切るなどして時間に余裕をつくり、ラストに時間を与えたところで、やや説明臭くなるだけなので、これは尻切れトンボではない。
 というようにいえるには長い時間が筆者には必要だった。それはどういった点かといえば、このときまだ三十年前だったあの戦争を引きずり、その落とし前をつけるべく、寡黙に、また饒舌に、池部良が登場することをどれだけ理解できるかにかかっていたからだ。
「昭和残侠伝」にもでた池部の立ち回りは美しい。前回の室田日出男は池部良の次の世代にあたるヤクザを演じている。親分子分など関係ない、やるかやられるかの仁義なきヤクザを生き抜いたひとりである。立ち回りの美しさは嘘であると暴いた張本人である。
 池部良は仁義をきちんと守り、やるなら自分もその前で自らにけじめをつける筋の通った男である。
 バーでミルクをいつも注文する殺し屋たちの横で、池部は酒臭い息を吐きながら、ヘミングウェーを語り、萩原は困った顔で(酒が)臭いんです、としか反応できない。戦前世代と戦後世代が同じバーの止まり木で肩を並べている虚しい瞬間だ。
 そして池部がなぜ自分がここにいて、なにを目指しいるかを雨の海岸で語る。かつて日本兵だったとき池部と仲間を裏切った上官がまた大きな裏切りをしていることを知った、池部はあのときのように黙って見過ごすわけにいかないと憤っている。
 萩原はその間濡れた服を脱ぎ、シャツをしぼり、靴に入った雨水を捨てている。黙って感心して聞くわけでなく、さりとて聞いてないわけでもない。このカットの芝居は萩原の創案だろうか。神代辰巳ことクマさんは、ショーケン、なにかない? とヤニで真っ黒な歯を見せては萩原に聞いたという。きっとここでもクマさんに訊かれて、萩原は天才的な勘で、服を脱いでドボドボと水を滴らせたのだろう。この対比はなかなかわかりにくい。戦後派である萩原に感情移入して見るものには、軍歌も池部も、臭いだけとしか映らない。物語の意図通りであるが、意図が効き過ぎてしまっている。 
 冒頭のセックスシーンから裸で外に逃げだし海に向かう萩原。廃屋でのセックスシーンやちんどん屋の歩く通り。魚を売る露店を歩く萩原。ここにはテレビドラマにはない、映画の空気感が満ちていて、テレビサイズからこぼれ落ちてしまっている。視聴者には鬱陶しいほどかもしれない。
 萩原の天才性をもうひとつ付け加えるとすれば、バーでミルクしか注文しない、当時よく見た悪役だった二見忠男たちを、両脇で羽交い締めして肩を掴み、足をバーのカウンターに載せて、店のなかをいったり来たりする芝居。文章ではうまく伝わらないだろうから、必ず見て欲しい。弱いのだか強いのだかわからないケンカ流儀が炸裂している。
 港に届く冷凍エビを船から持ち出す連中を突き止めるため、港町に滞在することになるのが今回の萩原の仕事。舞台は千葉の田舎町。裏寂れたヌードスタジオ。裸を惜しげなく見せる荒砂ゆき。前回の中山麻里に較べては悪いプロポーションだけれど、これは日本。あの頃温泉街にあったヌードスタジオという名で、客にヌード撮影させる風俗店の雰囲気を伝えてくれる。
 そんなことは一地方に住む、中坊だった筆者には伝わらない。今度の裸はあまりパッとしないなとしか。だから作品への印象はいっこうによくならない。
 けれど時間が経ち、元日本兵だった池部良も故人となったいまでは違う。あの頃の自分は気がつかなかったが、確かに日本には戦争を引きずる人たちがひっそりと隠れて生きていて、昭和元禄と浮き世の享楽に踊る国民の姿を苦々しい思いで見つめていたのだということにようやく気がつく。
 池部が、着流しを着て、女の持つようなかわいい傘を差す、アンバランスな立ち姿に彼の取り残された悲しみがわかる。池部を裏切った上官は萩原たちが追う冷凍エビの盗難に関わっていて、池部は上官に向かっていく……。
 筆者が萩原のいた場所から池部のいた場所に歳とともに移りつつあるからだろうか。  
 池部の気持ちが理解できなければ、池部の女である荒砂ゆきの最後の行動も唐突にしか映らない。
 今作は味わい深い作品であるが、最初に見たり、早いうちに見ないほうがいいかもしれない。もし見るなら六話目の神代作品のあとに見ることをお薦めする。六話目も相当な問題作でもあるが、こちらのほうは子供が主人公なのでまだわかりやすい。そこで神代演出に慣れれば敷居の高さもだいぶ違ったものになるだろう。
 視聴率は初回から回を追うごとに落ち、神代作品でどん底になったというような証言を萩原はのちにしている。六話目であるのかこちらであるのかわからない。しかし一般的にはどちらもあまり受けないように思われる。
 お茶の間レベルのテレビサイズから逸脱した語り口と世界、俳優たちの聞き取りにくいセリフ、暴力と性にあふれた描写、悪ふざけに取られかねないやり取り、そしてアンチ・ハッピーエンドの多さ(「宝石泥棒」だけは珍しくハッピーエンドよりである)。一般の人気を獲得できずにひたすら突っ走っていく。修正しようにももう何話も撮り終えてしまっているから。 
 先行作品であった深作恩地監督作を経て、今回の神代版は萩原たちが何本かドラマの世界を十全に体に染みこませたあとに撮影されている。
 このあと登場するもう一本の神代作品が、今作より先行して撮影されたのかあとだったのかわからない。しかしもう一本の神代作品で爆発した萩原演じる修と、水谷演じる亨の関係にはこれまで見られなかったものが加味されている。
 港町に先乗りしている萩原が水谷に電話をしたとき、水谷は岸田今日子の真似をする。萩原は、オカマか、と罵る。港町にあとからやって来た水谷はじゃれつく犬の一歩手前のような動きを見せて萩原に接する。それまで罵倒されて叩かれるだけだった水谷は海岸で萩原を反対にこづき返し、また萩原は怒るわけでなく、またこづき返して、ふたりはそれを繰り返して砂浜に倒れていく。
 もうただのアニキと子分ではないふたりになりつつある。我々の知っている亨が少しずつ顔を見せ始めている。萩原に対抗していくための武器を見つけつつあるといってもいい。
 萩原は萩原で、水谷の口に指を突っ込み、頬を内側から引っ張りポンと音を鳴らして見せる。自分の口に指を突っ込み、頬をポンと鳴らす遊びをしたことがない子供時代を過ごした人はいないだろう。けれどそれを他人の口で鳴らしてみせる早業をついぞお目にかかったことない。萩原のお茶目でいたずら心あふれる動きも動きなら、それを受けてちゃんと頬を鳴らす水谷の動きのよさ。もうふたりの芝居は横山やすしと西川きよしの漫才級に息が合ってしまっている。
 岸田森は正真正銘のアニキとして、ロケが終われば萩原と水谷を連れて飲みに行き、そこで演技談義をしたらしい。
 クールで計算高くずるがしこい岸田森こと辰巳五郎はじつはスケベであるのは、前回ストリップ劇場で姿を見せていた。むっつりスケベという言葉があるように、これはそれほど驚くことではない。
 しかし今回岸田森はスケベであることを綾部情報社の電話番で秘書のホーン・ユキに指摘されたあと、プールサイドのシャワーの水管のようなものを鉄棒がわりにして懸垂して見せ、ホーン・ユキの腰に後ろから足でぶら下がる姿を見せる。 綾部貴子の前では常にロボットのように冷血な態度を見せる辰巳五郎は今回事務所をでて鴨川グランドホテルにいるため、羽を伸ばしているのだろう。岸田森はそうして萩原に挑みつづける。
 ここでこれまでの回では触れられなかった点を述べておく。萩原は死んだ奥さんの田舎に三歳になる子供を預けていて、名前は健太という、子持ちのチンピラである。 これは「傷だらけの天使」を語るときに亨が中学をでていないことと同様忘れてはいけない設定のひとつだ。
 高倉健の健に、菅原文太の太をもらって健太という名であることの由来は、深作欣二の子供で、その後映画監督になる深作健太にあることはいまでは知られている。
 なぜ萩原を子持ちにしたのかはわからないが、そのことで萩原をただのチンピラでなくしたいとしたからという憶測は簡単にできる。
 自分が子持ちであることは「宝石泥棒」で語られるし、またゆえに彼はケガした子供にパトカーのおもちゃを逃げながら届けるわけだ。そして今回それ以来初めて自分が子持ちであることをこの回で語っている。「宝石泥棒」よりも有効な使われ方はされていない一種のシャレのような扱いである。でも、高倉健の健に、菅原文太の太をもらって健太といいながらはにかみいう萩原のお決まりのセリフは、水谷のいうアニキとともに、このドラマでしか見られない味となり、少しずつボディブローされていくことになる。 原石が次なる形に姿を見せていくさまを見る楽しみもある。

5 殺人者に怒りの雷光を
  ーー水谷豊がレギュラーの座を獲得する瞬間

 この回は「ゴキブリ死ぬ死ぬ」のでてくる回として人気が高い。「ゴキブリ死ぬ死ぬ」とはゴキブリ駆除の簡易箱形殺虫道具「ゴキブリホイホイ」の類似商品として登場する。「ホイホイ」はこの頃に発売されて爆発的に売れていた。ホイホイという言葉のコミカルさが受けて人気となったわけだが、本質は「死ぬ死ぬ」の言い換えといってもいいだろう。脚本の市川森一は「ホイホイ」という言葉の偽善性に噛みついたのだ。
 萩原は探偵の下請けで稼いだ20万円を一晩で使い尽くして、夜明けの町を「浪曲子守歌」を歌いながら帰っていく。途中薬局の前に置かれた「ゴキブリ死ぬ死ぬ」のCMにでているホットパンツにタンクトップのおねーちゃんの人型看板を本物? と勘違いしたみたいに、住まいのペントハウスまでお持ち帰りしてしまう。
 萩原からギャラを一銭もわけてもらえず、ご機嫌斜めな水谷は「ゴキブリ死ぬ死ぬ」のねーちゃんが、タレント稼業の裏で20万円でやらせてくれるというダチからの話をする。萩原はねーちゃんと寝るため20万円を稼ぐべく、ヤバい仕事にまた乗りだすことになる。綾部情報社からの仕事のギャラは「宝石泥棒」は30万円だったが、20万円という額がシリーズ通じて多い。大卒の初任給が7万だった時代である。100万という大台には乗らないが、まあそこそこあるという感じであろうか。 のちに発売される市川森一の作品を集めた「傷だらけの天使」のシナリオ集では市川の二話目として書かれている。「ストリッパー」は先に放送されているが、シナリオ集では次に置かれている。故人となった市川に真意を訊くことはかなわないが、この回は物語上二回目として置かれていい位置として判断したのだろう。その通り、話としの出来もいい。「ゴキブリ死ぬ死ぬ」はただのCMパロディでなく、ゴキブリのように扱われて、無慈悲に殺されていく、綾部情報社の探偵たちであり、また名もなきカネのない若者たちのことでもある。
 CMにでて笑みを浮かべるタンクトップのおーねーちゃんがじつはスケベの顔を隠し持っているように、人は見かけによらない一面を持っている。探偵とはつまりそこに手を入れるものたちであることを市川はちゃんと描こうとしている。
 クールで計算高くてずるがしこい辰巳五郎はあろうことか猫が大の苦手で、猫を前にすると情けなくなるほどの醜態を見せる。それはただ笑いを誘うだけでなく、次の犯罪を誘発因子となっていく。
 修は修で雷に弱く、子供のように雷にヘソが狙われると信じている。このくだりもただのおかしさや視聴者への親しみを誘う媚びとならず、物語の解決へとつながる重要なキーとして働いていく。
 修たちのいる探偵社は怪しげでリアルさに欠けるかもしれないと市川は考えたのだろうか、修たち以外にも様々な若者が同様に働いているということをここで見せる。しかし彼らはゴキブリのように次々と消されていく。はたして誰がそんなことをしているのかとドラマへの興味は高まっていく。
 放送開始から視聴率は悪くなる一方だった。もしこの回がもっと早くに放送されていたら違っていたように筆者は思う。この回はわかりやすく、かつテーマ性を持っていた。大人も子供も楽しめる娯楽がほどよくあった。
 けれどそんな、たらればをしても仕方ない。早くも見切ってしまった視聴者のいないところで、今回を見たものは、やっぱりこのドラマは面白い、こんなドラマはいままで見たことないと土曜の夜が待ち遠しくて仕方なくなったはずだ。
 物語の構造だけが秀れていたわけではない。今回の監督は工藤栄一。深作や神代に較べると派手に語られないが、日本映画が落ち目になっていくこの時代に秀作を連発した東映の監督。光と影で画面を構成していく手腕が有名。今回においてもその持ち味を遺憾なく発揮している。テレビの演出は多く、萩原とは前年にあった主演ドラマ「風の中のあいつ」でもメガホンを取っている。しかし時代劇が多く、現代劇のテレビドラマは初であった。
 萩原と水谷と探偵社の仲間のひとりである松山省二が歩く夜の濡れた道路の美しさ。もちろんその美しさに対比して冒頭の青みがかかった渋谷の街並みがあってのこと。集団立ち回りも得意とした工藤演出は、仲間を殺されたのはヤクザのせいと思い込み、組に乗り込み派手な立ち回りをするなかで炸裂する。殴り込みに向かう彼らがバックに立つ、夜の看板は同じ頃に公開されたロバート・レッドフォードの「華麗なるギャツビー」のワンシーンも思いださせる。
 雷を怖がる萩原と連続殺人犯との対決は窓の向こうで光る雷雨をバックに繰り広げられていく。常に空間に奥行きを与える演出と構図は工藤の力。テレビにねじこまれた映画でなく、映画に犯されたテレビが美しくブラウン管を輝かせる。
 この回は「ゴキブリ死ぬ死ぬ」だけでなく、岸田森がヤクザの親分である加藤嘉に狡猾な取引を申し渡されて全面降伏をするときに、髪をすぽっと取り、坊主頭となって詫びをいれて、涙で陳謝することでも知られている。
 他の映画のために坊主頭となっていた岸田森はカツラでふだんの仕事をこなしていた。岸田森はテレビでそのことを映画の発表より先に披露したくなかったのだが、萩原がここはそうすべきだといったという。
 前回「港」で懸垂する辰巳五郎のキャラクターはますます壊れていくとともに、萩原だけでない、このドラマは岸田森がいるからさらに面白いと膝を打つことになっていく。
 先の夜の濡れた道路で岸田森は再び恐怖にひきつるがまるで歌舞伎役者のような動きではたと止まって事件の真相を導きだす。
 萩原は必殺のあの悲鳴で応じる。水谷は萩原の声も動きも真似しようにもできない。そこで生みだされるのはとことこと歩くぎこちない動き。萩原や水谷より先に役者として活躍している松山省二は化け猫フェイスとなって煩悶の芝居を見せる。松山は死に、残される探偵の下請けは萩原と水谷だけとなる。松山から萩原たちへ、次の芝居の次元に向けてバトンが手渡されるようだという思いを浮かべるのは闇に包まれながら濡れた道路の光りが美しすぎるからだろうか。
 松山と岸田森は円谷プロのウルトラシリーズで怪獣のでない恐怖と戦慄を堪能させてくれた「怪奇大作戦」のレギュラーだったし、市川も参加していた。猫の毒や、雷の恐怖を盛り込んだ市川は「怪奇大作戦」が思いにあったであろう。
 もうひとり探偵の下請けとして現れてサウナで虚しく殺される谷岡行二は同じ日本テレビの看板のひとつだった青春学園ドラマシリーズ「飛び出せ!青春」で生徒役を若者や子供たちに顔は知られている。そういった意味でもこの回はテレビ世代にやさしいつくりとなっていて、早くに放送されていたら「傷だらけの天使」は違ったものになっていたと同じ繰り言をまたしたくなってしまう。それくらいこの回は当時のテレビの標準値を押さえながら弾ける、宝の入ったびっくり箱のような作品なのだ。
 前回姿を見せなかった岸田今日子は足が悪く杖をついているという綾部貴子の得体の知れないところを時に激しい振る舞いと穏やかにやさしい言葉の響きで表現している。これまでも綾部貴子は杖をついて現れるが、ここで初めてその左足が不自由であることが強調されて描かれる。だから杖でテーブルを叩く仕草が生きていく。自由にならない体が怒りで思うように動かないかわりに怒りは杖の先に向かってテーブルを叩きつける。
 岸田今日子はその声でムーミンの声を演じている。アニメの声の持ち主が画面にいるキャラクターと違うのは珍しくなく、その事実を知ったときに誰もが驚く。岸田今日子とムーミンはウルトラマンの着ぐるみのなかに入っていた役者がウルトラセブンではウルトラ警備隊のひとりとしていたことが指摘されなければわからなかったように、永遠の謎になっても不思議のない乖離をしている。しかし岸田今日子はほんとうはやさしい。あの厚い唇は酸いも甘いもかぎわけた大人になってはたまらない色気を宿している。
 岸田森やホーン・ユキは内心でも態度としても探偵の下請けたちをゴキブリのように軽蔑している。しかし岸田今日子こと綾部貴子は彼らのことを自分の子供のように愛していることが、嘘偽りない態度と声色で語られる。だから修はこの稼業から足を洗いたいのに、岸田の前では借りてきた猫のようになり、宝石泥棒だって、今度の死ぬかもしれない謎の薬を飲むことも受け入れる。
 綾部貴子が登場するとき、いつもかけるあの音楽が仮になくても岸田今日子は素晴らしい。岸田今日子の黒いドレスが似合う立ち姿を杖で支えることで、彼女の語られない過去と隠された黒い仕事の数々の毒が垣間見える。(あの音楽「マヅルカ」は毎回流れたように思うが、じつはそれほど流れておらず、中期から後期にかけての頻度は低い。同じく萩原のあの健太命名の話も中期からは子持ちであるというだけで影を潜める。しかししつこいほど聞いたように思えるほど強烈な印象を残したのだろう。)
 ダメなら殺せばいいという危ういポジションであった水谷は、まさに今回他の仲間といっしょに消えていたかもしれない。市川はそのためにこの話の想を得たのかもしれない。しかし健闘する姿を実際の撮影現場で見たのか、噂で聞いたのか、水谷は死なず、これまで初めてといっていいような見せ場をこの回でいくつも与えられることになる。
 殺人者に怯えた水谷は酒に酔いゴミ箱をひっくり返してあげくに通行人を自分を殺しに来たと勘違いしてケンカをふっかける。おかしさと悲しさが入り交じる名場面。 市川脚本では岸田今日子とホーン・ユキが怪しい関係ではないかと疑うところで、当たり前に「レズか」というところを、「ホモか」と間違えて、萩原に「ホモとレズの違いもわからないのか」と突っ込まれる。かくいう萩原もどっちがどっちがわからなくて、ホモか、と最後はいう。このあたりいまとなってはわかりにくいだろうけど、オカマは知られていても、ホモという言葉はまだ一般的でなく、かつレズはさらに知る人ぞ知るものだった。そんなことは知らずともここでふたりの掛け合いがますます冴えていくのがわかる。
 そして同じく脚本では萩原終わりでこの回を締めくくられていたのに、完成作は水谷の場面で終わり、またその内容は脚本にない。「ゴキブリ死ぬ死ぬ」のねーちゃんと屋上の風呂に入る水谷のストップモーションで終わる。
 これまですべての回がストップモーションで終わった「傷だらけの天使」だった。どの回も忘れがたい印象を見るものに焼き付けて余韻をもたらせてくれた。「傷だらけの天使」の魅力はこのラストのストップモーションにもあったといってもよく、番組のラストテーマタイトルともいえるそこを水谷がついに奪うことになる。あいつは面白いと視聴者に印象づけてしまう。これで水谷は番組の途中で死ぬことはもうないだろうという証明に判子がつかれた瞬間といっても過言ではない。

6 草原に黒い十字架を
  ーー貧しいオカマはクラシックをBGMに湖でツレションをする

 問題作である。と同時に「傷だらけの天使」を代表する名作のひとつでもある。 監督は神代辰巳。「港町」に顔をだしたシュールさは控えられている。しかし挑戦的ともいえる作品の要求に応えるための演出の手綱は緩まない。
 そのひとつとして、井上堯之バンドの楽曲はまったく使われていない。すべてクラシック。井上たちのメロディは「傷だらけの天使」のもうひとつの主役であったことは確か。 
 これまでも「ヌードダンサー」で歌謡曲に半分乗っ取られたことはあったが、全編しかもふつうじゃ、あの二人に似合わないと思えるクラシックが流れて、それが見事にはまっている。選曲の鈴木清司が選んだとしても、そうする何かが神代の演出に潜んでいたのだろう。 
 今回物語に登場する「6月のマドンナ」という、母のない子供が盗みだす絵画のイメージと、絵画のある美術館の佇まいに合うBGMとしてまず、クラシックは流れる。ストリップ小屋には歌謡曲や演歌であると同じ使われ方といっていい。
 しかし後半裏寂れた田舎町を背景にしても、ヴィヴァルディの交響曲が流れつづける。美しい田園風景ではない。日本の淋しげな、ちょっと体裁を整えたら時代劇にでも使えそうな、なにもない景色や、寒々しい水をたたえている湖にかぶさっていくのである。
 萩原と水谷、そして絵画を盗んだ女の子は歩く。走る。自転車に乗る。乳母車に乗る。そこに優雅な宮廷音楽が奏でられる。萩原と水谷が湖に向かって立ちションをするときにまで流れている。曲のイメージを裏切るおこないの数々。それがことごとくはまっている。
 今回岸田今日子の登場は声のみ。それはこれまでにもあったからよしとしよう。代わりにあの「マヅルカ」の怪しげな歌は鳴るので、不在を十分に埋めてくれる。 井上堯之バンドの曲、岸田今日子、この大切なふたつを欠いてるのに、見事に「傷だらけの天使」となっている。それは少しずつ顔をだしつつあった萩原・水谷による修と亨のコンビのやり取りが最初の完成を迎えているからだ。「6月のマドンナ」を展示する美術館に守衛のひとりとして入り込んだ亨は、絵画泥棒に狙われる前に偽物にすり替える役をふられた修を夜の美術館に招き入れる。
 修は窓から忍び込む前に、急にもよおしたと、窓縁で外に向かっておしっこをする。泥棒が本職でなくイヤイヤながらの役割であることを笑いとともに押しつけなく見せる萩原のこれはきっとアドリブ?
 ふたりが盗みだす前にこの絵に母の面影を見たナツメという赤いオーバーオールを着た少女は、バカな修たちの裏をかいて、まんまと盗みだすことに成功する。  ナツメが怪しいと見たふたりは、空き地に見窄らしい聖堂のような家を建てたナツメの基地に向かう。 
 新人さんね、とからかわれて、ポマード臭いとこけにされつづける亨は、貧しいオカマと修にいわれてしまう。
 貧しいオカマ! ついにここで亨のキャラクターがわかりやすく完成する。オカマや童貞とさんざん蔑まされていたところに、貧しいがついたとき、水谷の持つ陰性が正の輝きに変わる。萩原に対抗したか、引きつけられたか、なにをいわれてもニカニカと笑い、しかしずるがしこいところは修以上である亨は、貧しいといわれてもまったく動じるところがない。 
 修は絵画泥棒として「宝石泥棒」につづき指名手配の犯人になり、「宝石泥棒」でも使われた指名手配犯人の写真として新聞に載る。手配写真史上最高の顔といってもいい、ひきつってるのか嘆いているのか笑っているのかわからない白い歯を見せる修。亨は自分も犯人として新聞に載ってないと嫉妬する。
 おまえも悪いことしたら仲間に入れてやるといわれた亨は、自転車泥棒をする。水谷は黄色いシャツに赤と白のサスペンダーをしている。そのサスペンダーを自転車に引っかけて、店の前に止まった自転車を奪い去る。オープニングテーマで見せた萩原の超絶技、瓶を加えて紙の蓋を開けるーーに匹敵するチンピラ技が炸裂する。これまでそんな風に自転車を盗む人は見たこともない。水谷のアドリブなのか萩原たちとのミーティングか。それを受けていう萩原のセリフがまたいい。悪いことをするといってやってきたことといえばたかが自転車泥棒かとバカにする。そこまでならただのドラマのセリフ。萩原はいう、同じ盗るなら、オレの乗る自転車と、いっしょに逃げてるナツメちゃんの乗る子供用の自転車と、おまえの乗る婦人用と三台盗んで来い。
 婦人用の自転車!
 萩原とナツメは自転車に乗り、盗んだ絵画を前に乗せて走る。そのあとを水谷が追いかけてついていく。水谷は自転車の後部座席に後ろ座りになんとか乗る。
 多くの「傷だらけの天使」ファンは桃源郷を見た思いがしただろう。自分もそのなかに加わりたいと。
 しかし外野でいるしかない我々は「傷だらけの天使」を追いかけることしかできない。亨のように後ろの座席に座ることさえかなわない。
 貧しいオカマだ、ポマード臭い、ケツめどが小さい、小物だとさんざんバカにされた亨だが、思わぬところで大物であることが証明される。それが先に書いた湖での立ちションツレションで明らかになる。
 その大物はほとんど役に立たないことは確か。さらにポマード臭いに他の臭いを今度はズボンのなかからまき散らすまでに発展する。
 下品だガキっぽいと顔をしかめる人は当時もおそらくいまだってたくさんいるだろう。そこにあのヴィヴァルディである。ほとんどバカにしているように響く。けれど本気なのだ。絵画を持って逃げて逃げて行き着く先に見るのは、貧しさに虐げられたものたちの夢の場所の創出であったことも描かれる。
 先の神代作品での池部良は戦争を引きずっていた。今回はまるで戦争で親を失った子供が大きくならないまま子供でいたために見るユートピアへの夢が描かれている。そこにバロック音楽が鳴るのはふさわしいのかどうかわからない。しかし言葉でも理屈でもなく、心に深く突き刺さってくる。
 音楽はクラシックだが、萩原と水谷は劇中歌う。「おかあさん」。オーママママ、オーママママ、というフレーズ。これは萩原がデビューしたGSの「テンプターズ」のヒット曲。萩原はヴォーカルをとらず、コーラスとハーモニカを吹いた。母を慕うナツメと、母の顔を知らない修の息子、健太への気持ちが、乾いたスキャットで表現されている。さらにそのフレーズを歌いながら、絵画を付け狙う、針が飛びだす不思議な拳銃を持った無国籍なおっさんへの復讐も登場する。
 萩原はテンプターズの楽曲をソロ歌手になって以降コンサートなどで歌うことはほとんどなかった。もちろん懐メロ番組にでることなどない。ちゃんと歌ったというわけではないが、きわめて珍しいことだ。他のGSグループ同様、もとは洋楽のロックカバーをしていたのに、レコードデビューとともに王子様のような制服を着せられて、わかりやすい歌謡曲を歌って、キャーキャーといわれたのがテンプターズだった。
 ほんとうの自分はそんな貴公子面したやつじゃないという反発が萩原のなかには当然あり、その反動がまさに「傷だらけ」としてある。テンプターズの楽曲を口ずさむことに抵抗がないといえば嘘だろう。
 それを軽々と歌ったのは神代作品だからに違いない。作品の面白さと完成度に貢献できるなら、過去は問わない。そして萩原はもうGSから大きく飛躍し、同時にGSでフリフリのレースの服を着ていた過去を笑い飛ばして対象化できる位置にいる。 
 歌の話をつづければ「傷だらけの天使」のサントラがLP、つづいてCDとでたとき、つねに今度こそは収録されるかと期待される曲のひとつ、「たまらん節」がここで初めて披露されている。萩原のつぶやきから生まれた鼻歌のようなもので、歌といってもきちんと歌詞があったりするわけではないので、レコーディングされているわけがなく、今後も正式な意味でのレコーディング作品として登場することはない。でもこの歌を好きだというファンは多い。
「たまらん節」につづけて萩原は、あーる晴れた日に−、ふーたーりはー、とオペラの蝶々夫人の「ある晴れた日に」を歌う。ふたりという歌詞が、萩原とナツメのことで、自分もそこに入れてくれないのかと水谷はすねる。二人のやり取りのおかしさは際限ないレベルに達している。
 今作が問題作で名作であることは間違いない。しかしラスト近くの衝撃的な展開や、やはりバロックと若者ふたりに田舎の町といった違和感は多くの視聴者を喜ばせるには不親切だったのだろう。視聴率はよくなかったはずだ。
 ロケ先はどこだったのだろうか。山間に湖があり、無人駅とおぼしき単線が走っている町。おそらく神代作品である「港町」とともに撮影されているから、同じ千葉ではないか。
 単線の線路の上を萩原と水谷とナツメが歩く。萩原はトレンチコート、水谷は黄シャツにサスペンダー、ナツメは赤のオーバーオール。放映は11月の初めで、そこから逆算しても撮影はまだトレンチコートを着るには早い季節だったはず。ここは自分はトレンチだと考えたのだろう。三人の服と線路の構図は映画のポスターにしてもいいくらいうまくおさまっている。
 当時人気のテレビドラマはいまのように映画になる機会はそれほど多くなかった。あったとすると映画会社の都合で主要キャストが違うこともあった。
 もし「傷だらけの天使」が多くの視聴者を獲得して映画になっていたら、きっとこの回で繰り広げられたキャンピングカー、自転車、乳母車、そして耕耘機! までもといった多彩な逃亡劇のような展開が大スクリーンに映しだされていただろう。

7 自動車泥棒にラブソングを  ーー正真正銘の第一話は悲しい恋の物語を紡いだ

 今作は初放映が11月の半ばであった。視聴率が回を追うごとに低くなっていたため、局内や撮影現場では相当な批判やプレッシャーが起きていたことだろう。しかしこの回は最初に書かれた一本であり、深作作品と同時期に撮られている初期作で、本来ならば第一回を飾る予定だったものだ。
 冒頭ペントハウスから見た東京の街並みを描くことから始まり、水谷と萩原の番組内での立ち位置や、彼らの置かれている状況が手短に語られていく。
 亨は夏に修と出会って、兄弟盃を交わした間柄で、短いつきあいだったが、別れることになる。亨がヤバい仕事に手をだすのをやめて堅実に働こうとべつの仕事に転職することにしたからだ。亨は綾部情報社からの仕事がないときは、自動車修理工として働いていたのでアルバイトであるほうをメインにと考えたことになる。修にも同所で守衛として働いてはどうかと持ちかけるが、けんもほろろに断られる。 萩原はベッドから起きて、すててこを履き、窓から放尿し、歯を磨き、ヤカンの口をくわえて飲んだ水でうがいをする。このあいだの緩急つけた芝居も見所のひとつで、やさしいのか怖いのかチンピラなのか行儀がいいのかおしゃれなのかダサいのか渾然一体と入り交じった萩原健一の魅力があふれかえっている。オープニングタイトルも同じ監督で撮られているので、冒頭はオープニングタイトルの別バージョンともいえる。
 監督したのは「悪女」と同じ恩地日出夫で東宝青春映画の名手。オープニングタイトルにセックスの意図があったと語る作り手たちに、そんなことあとづけだよと語る萩原は、起きて放尿、やかんから直接水を飲んでうがいまでさらりとやってのけるのだから、食べることがセックスであるなら、彼が生きて動いていること自体がセックスであるといってもいい。けれど萩原はセックスアピールを漲らせた俳優ではない。セックスの持つ生々しさを無効にする乾いた叙情が彼にはある。
 オープニングタイトルには15枚の白黒写真が短くインサートされている。そのなかで見せる萩原の泣く笑う傷つく照れる顔の多彩で愛くるしいこと。ただ食べて飲むだけで萩原とはどういう生き物か十分過ぎるくらいわかる上に、このカットの連なりはこの男の生き様を図鑑のように見せてくれている。「太陽にほえろ!」を終えた萩原は同じ日本テレビの土曜九時のドラマ「くるくるり」で人力車夫をやるアンチャンとして主演し高視聴率を得た。この勢いが「傷だらけの天使」の実現に弾みがつき、企画は動きだした。大藪春彦でハードボイルドをという局側の意向に市川森一は異議を唱えて、インチキ探偵社という設定を持ちだし、彼らの根城となるペントハウスを探して、ビルの谷間を見上げて毎日歩いたという。
 市川や萩原は夜ごと集まり、ドラマの設定やテーマを語り合った。萩原はヨーロッパ旅行にでかけて、ロンドンで見た若者たちのロックンロールリバイバルにおけるリーゼントヘアに刺激を受けて、長髪にパンタロンはもう古い、といい、自身も髪を切り、オールバックの髪型となり、革ジャンを着る。
 同時期矢沢永吉、ジョニー大倉の「キャロル」も同様な恰好で、若者たちに人気があった。しかし萩原のような視聴率20パーセント以上という勢いはない。萩原はお茶の間レベルではアンダーグランドな人気の風俗を「傷だらけの天使」で描くことで、若者たちのほんとうの姿をとらえようとしたのだろう。
 物語は亨が堅気になるため入った仕事は裏では自動車泥棒をして解体していた。修は綾部からの依頼で自動車泥棒を追っていて亨を追いかける羽目になるのだが、途中現れた女に邪魔をされて、挙げ句に拉致される。起点を利かした亨が修を救いだして、女と三人で自動車泥棒の雇い主のカネを奪って逃げることになる。修を拉致した男は蟹江敬三。まだ無名の頃。亨の起点でやって来た田舎の巡査は奥村公延。伊丹十三の「お葬式」で死んだ祖父を演じたといえばわかるだろう。ふたりともに登場場面がワンポイントなのに印象を残し、このドラマのリアリティを底上げしてくれている。
 この回は、先の放映となった「悪女」と似たパターンを踏んでいる。「傷だらけの天使」のストーリーにはいくつかのパターンがある。これは女による脱線パターンのひとつ。脱線ものは他に男によるもの「ヌードダンサー」「港町」、子供によるもの「宝石泥棒」「草原」がこれまでにはあった。「悪女」と同じ監督のせいもあり今回はテイストが似ている。しかしこちらのほうが印象を残すように筆者が思うのは、悲しいラストと、ヒロインとして登場する川口晶が「悪女」の緑魔子よりも子供目線でいって親しみを持たせるキャラクターのせいもあったからだろうか。 緑魔子の美しさは時代を超えて支持されるだろう。でも川口晶はその後テレビの世界から消えたこともあり、当時の見え方といまの見え方はだいぶ違うはずだ。川口晶はなんとなくお手伝いさん役が似合うような気のいいねーちゃんといった感じがする。当時はテレビドラマによくでている元気でボーイッシュなところのある役柄が多かった。
 その川口晶は赤いアルファロメオに乗り水着のヒモ跡が残るほどの不必要なまでの日焼けをして、黒人気取りのカツラを被って白いぴちぴちドレスで現れる。
 いま見たって相当おかしいけれど、当時だって不似合いで、だからこそ後半の銭湯に入ってでてきて、お下げ髪になったTシャツ姿にぐっとくる落差を生みだしている。 そこにはちゃんと理由があって川口晶は都会に夢を見てでてきたが、きっといろいろあったのだろう、インテリやくざのような男を演じる高橋昌也の何人ものいる女の一人として使われている。
 修は彼女に惚れて、もし子供ができたら生めよ、と一度だったかもしれないセックスの責任を口にする。それも車の窓から別れ際に。好きを好きといわずに告げることのできる最初の俳優だった萩原の萩原たる真骨頂。受けて立つ川口晶の顔。それをアップで二度とらえた恩地のわかった演出。それに応えた川口晶の顔は時代を超えて支持されるに値する輝きを放っている。
 カネを持ち逃げした萩原、水谷、川口は、行き着く先をなくす。結局川口は自分の田舎に帰っていくことにする。そのとき家まで送ろうかという修に女はいう、バスで帰りたいの、でてきたときと同じようにバスで。 このセリフにくわえて彼女のラストカットで走る車に告げる言葉もいい。
 このドラマは青春ドラマと呼ぶにはやや抵抗があるけれど、なぜなら当時の青春ドラマはもう少し健全でかつ型にはまったところが見受けられたので、しかしこの瞬間は青春ドラマ、青春映画の名作に匹敵する。
 そう思わせるのはここに至る三人の逃避行での彼らの姿をとらえたカットの構図がことごとく決まり、映画のように収まっていることもある。
 女ともども奪ったアルファロメオで眠る女と、その横で薪をする萩原と水谷。アルファロメオと萩原と水谷と川口晶が話すカット。テレビにしておくにはもったいない横の構図が決まっている。「傷だらけの天使」にあるのはリーゼントや革ジャンといった当時の早い流行り物だけでなく、昔からあるけれど特別な意味合いを持って語られることになる言葉の登場もあった。領収書という言葉。仕事を請け負ったとき、必要経費を計上するためや、税務署への申告の際必須となるのが領収書である。いまではなにかを買えば当たり前にもらえる、レシートという名に変わった領収書は当時それほど頻繁に交わされるものでなかったし、領収書の必要性が世間にそれほど知れ渡ってなかった。
 萩原は事細かく、その領収書を、自分の楽しみでしかない煙草を買う際にも取っていく。領収書をもらってこいという探偵社からの指示があるためなのだが、そのことをさりげなくルーティンにして、かつ非日常的ともいえるドラマ内の事件を現実なものに押し込める重しとなって作用させて、笑いにもしている。ETCなど夢のような時代だから、高速道路で料金所でお金を払ったあと、思いだしたように、領収書をください、といったあと、あ、ついてるか、と気づく場面もある。
 逃げる三人の行き着く先として名乗りを上げた亨は、漁師町に住む親戚を訪ねるために手土産を買ってくる。領収書をもらってきたかと萩原はいい、もらわなかっことに、アホーっと怒鳴る。 
 もらう必要などないのがほんとうで、どっちがアホーっかわからない。萩原はそこまでわかって、アホーっと水谷の頭を叩く。
 バカ、バカヤロ、バカタレ、そしてアホーっ(ときにはツバまで吐く)萩原の繰りだす罵声は多彩だ。聞く人が聞けばただの下品、悪質、下劣ということになろうが、萩原の罵倒はなぜか汚く響いてこない。それは萩原自身にも向けられているからか、それとも萩原の天才性が生みだすアンバランスな美学が内包しているからか。 
 修は瞬間湯沸かし器のように怒り、瞬間冷却装置のように静まりかえる。こんな男の横にいてはたまったものでなく、亨が彼から離れて生きようとするのもさもありなん。いつ飛んでくるかわからないビンタやげんこつが怖くてびくびくしている。しかし水谷はそんなアニキがほんとうは好きでたまらんようで、殴られて蹴飛ばされても、飛び跳ねながらついていく。
 萩原だけでも十分魅力的で、それだけでももう他のドラマが真似しようとしてもできないというのに、水谷の陰性の石に突如咲く花のような笑顔が、ここにしかない楽園的時間を生みだしていく。
 今作はまだ原石であるはずなのに、ここまでドラマを見てきたものにとっては十分に鍛えられてしまっていて、見えないものまで見る力を養っているようだ。
 冒頭去った水谷のいない寂しさをまぎらわす修の点描。萩原は屋上の柵に佇み、街でラーメンをすすり、パチンコをし、映画館でフランス映画で涙して、歩道で歩く見知らぬ男を通り魔のごとく、いや、いたずらで殴って通り過ぎる。
 まだラストもなにも決まってなかった頃に書かれた第一回のドラマのなかに、最終回以後の修の姿があるように見える。「鳩が、糞を垂れて、飛び立つ」は市川脚本の一行目に書かれたト書き。後年市川は「傷だらけの天使」とはこの鳩、平和の象徴が垂れた糞だったと書いている。
 戦後豊かになった社会。繁栄の中心である東京のビルのてっぺんにいるカネのない目だけギラギラさせた青年。彼は平和が生んだ必要悪だったということなのだろうか。
 でも、萩原なら、そんなことはあとづけだといって笑うだろう。


8 偽札造りに愛のメロディーを  ーーたった一枚しか買えない予算で買ったレコードは浪曲だった

 市川森一の書いた「ヌードダンサー」は最初「御開帳」というタイトルであった。「……に××を」として知られる定型タイトルは、初めから決まっていたわけではないようだ。脚本が集まるなか次第にこの形になっていったのだろう。やはりこのタイトル付けのわかりやすさもあって「傷だらけの天使」は愛されていくことになる。このドラマで起きる事件や登場人物がタイトルを見ただけで予想できる。それはその後だらだらと長くなり、ほとんどあらすじのようになってしまう二時間ドラマのタイトル群とは違うスマートさだ。
 ということで今回は偽札造りが登場する。
 愛のメロディーというのは元名だたる腕のある印刷工でいまや時代の流れに押されてビルの掃除人となった偽札造りにプラトニックな愛を傾けられる女がヨーロッパ留学を目指す若きクラシックピアニストであることに由来する。「愛の」というのはシリーズ26話中3話あり、前部に「愛の」をつけたものも含めると4話ある。愛という単語はどうにでも使える万能の言葉であり、人々を引きつけるものであるから多用される。しかし、もしこのタイトルを他との差異あるいは作品への切り込みを明確にするために変更するなら「浪花節」になるだろうか。
「偽札造りに浪花節のメロディーを」。 冒頭レコードに針を落とす修は浪曲を聞く。たった一枚しかレコードを買うカネがないのにもっと他のがなかったのかと嘆く亨。たしかに70年代初めは若者はロックを聞いた。それも洋楽。萩原はウッドストックを生で見た数少ない日本人の一人でもある。ふだんはローリング・ストーンズやボブ・ディランを聞いていたかもしれない。あまりのギャップ。では嘆く亨が欲しがったのはクラシック。さらなるギャップではないか。その通り亨はその作曲家の名前をちゃんと発音さえできない門外漢ぶり。ふたりの実情と本音が交錯する。
 彼らの住むペントハウスには高倉健や菅原文太のポスターにくわえて、ロートレックの絵もある。部屋には火鉢もあり、和洋折衷めちゃくゃである。
 レコードは当時もいまもそれほど値段は変わらない。その他の物価が変わっているということは、いかに高級な代物だったか。それをもう一枚買うため(クラシックを買うため)学芸費としてカネをくれと修が綾部情報社に向かうことになる。 そこで偽札を使った女を調べて、そのカネの出所を探すことになるのが今回のストーリー。
 女はクラシックのピアニストで、奏でるメロディは、これまで何度となく奏でられてきたテーマ曲に対する裏テーマ曲ともいえる「天使の情景M2」。この曲とこの曲のアレンジ違いの二曲の哀切あふれる響きが、どれだけこのドラマをふくよかにしてきたかわからない。ときにはドラマの心情を増幅し、また足りないドラマの説明を一気に情緒的に補い完成させたか。
 けれど、ここではそれほどの力を見せない。クラシックのピアニストが弾くには浪花節っぽく響いたせいか。しかしこの女がヨーロッパ留学のためなら平気で体を許す女であったとわかったとき、超絶技巧なピアノの腕がないこととのつながりに了解してしまう。
 ただ、この女を愛する偽札造りの名手である有島一郎が心のなかに浪花節を流していて、ストーリーの進行で、女のために命を賭けるとき、その浪花節が鳴るなか、殴り込みをする。浪花節はこのドラマを支えるもうひとつの主役となっている。
 有島一郎は名優である。この回のパターンをいえば、「港町」の池部良に惚れ込むのと同じ男に入れ込み依頼された件から脱線していく系統になる。有島一郎対萩原健一。機械化のなかで印刷の仕事を失い、掃除夫となった男に、修はシンパシーを抱くという設定なのだが、名優の芝居が萩原とからまない場所で発揮されていくため、萩原が巻き起こす対役者との化学反応が起きない。
 クラシックのピアニスト志望の女を演じた田辺節子は、下着姿も有島といっしょに風呂に入るのも厭わない熱演ぶりなのだが、萩原が惚れる要素というか、からまりあいがドラマの構成上つくられてなかったため、女に入れ込んでいく見せ場も用意されていない。
 それでも萩原はこの回で今後印象的に繰り返される、もうこんな仕事やめてやる、と辰巳五郎に向けて発せられる言葉を吐く点で、忘れられない見せ場をつくってくれている。修は当然好きこのんで危険な仕事をしているわけでなく、何よりもいいギャラと、女の存在にひかれて、なかなかやめられない。しかしいちばんの理由はもっと他にある。綾部貴子に対してどうしても頭が上がらない。萩原は年上の女性に引かれる、母性本能をくすぐるアイドル・キャラクターを担っていた。綾部への忠誠にも愛のようなものが介在している。それはそれでいいだろう。しかし木暮修として考えたとき、修の過去の秘密がそこにあるのだろうか。 
 今回の監督は工藤栄一。「殺人者」で見せた光と影を使い分ける派手な演出は控えられて、ていねいな物語づくりがされている。田辺節子と萩原が歩く歩道橋のショット、同じく歩道橋の枠を巧みに切ってふたりを並べた構図。忘れがたい絵はある。
 しかしちょっとわかりやすいというか、この時代にいくらでもつくられていた刑事ドラマや時代劇の演出を彷彿させる。それがきっと求められていたのだろう。なにしろ視聴率は低い。もう破れかぶれなことは控えたほうがいい。時代に合わせることで視聴者には指示される。しかし時代を生き残るためには異質であるほうがいい。
 クラシックも広沢虎三の浪曲も若者向けにつくられたドラマのなかで響き合うのは十分に異質だ。しかしここまで見ていた「傷だらけの天使」の異質ぶりに慣れた目にはちょっと物足りない。
 辰巳五郎は電話番の京子に突然キスして、電話の受話器を持ち、話しかけるように番号をいって、京子にダイヤルさせる。岸田森は綾部貴子の目の届かないところではしたい放題をますますエスカレートさせていく。
 初めてこの回で修たちが住むあのペントハウスが代々木駅の西口にあり、エンジェルビルということが判明する。先に書いたあの番号は実際使われている番号で、もちろんそこにかけてもドラマの世界にアクセスできない。いまなら番号をいったら最後回線は破裂するだろう。ビデオもインターネットもなかった時代のおおらかな世界。 
 偽札造りのアジトから有島を奪還した萩原のいるペントハウスで不穏な響きを浮かべて鳴るのは、グレン・グールド。ピアニストに偽札造り。若くスタイルのいい女としょぼくれたじいさん。孤高のピアニストと昭和を代表する浪曲の名手広沢虎三。光と影は画面構成だけではない。
 正直にいえば、筆者は浪曲についてはまるでわからない。もしここで鳴る浪曲についての知識がもう少しあれば、この物語に潜む妙味をもっと味わえたかもしれない。ということはまだまだ味わうための旨味は残っているということだ。この回はこれまでの回のなかではやや分が悪いといってしまうのは筆者のは不勉強のほうに問題があるのかもしれない。


9 ピエロに結婚行進曲を  ーーたまらん節を歌うとき、萩原は雨のアムステルダムにいたのかもしれない

 筆者が本書を書こうと至った理由のひとつに、「傷だらけの天使」という伝説のテレビドラマをひとつ見てやろうかと思った若い世代や未体験者に、間違ったところから見てしまわれては、ほんとうのドラマの魅力に気がつかないままとなるかもしれないと思ったことはプロローグでも述べた。
 いまなら連続ドラマは、たいがい三ヶ月単位のワンクールが主なのだが、当時のドラマはツークールが基本であったため、「傷だらけの天使」の26本を全部見るのはなかなか骨のいる作業だろう。アメリカのドラマのようにたとえ一話完結であったとしても、なんらかの連続性が意図的に与えられていないこともある。最初から順番に見ていってくれればいいけれど、そういうわけにもいかなくて、適当なところから見てしまって大失敗してしまうこともあるだろう。筆者はそれだけは何とか避けたいという願いで、これを書いている。
 たとえば前回、そして今回はその地雷のひとつにあたる。
 いや、決してよくないわけではない。ただ、他と較べると精彩を欠いていたり、らしくなかったりするだけで、退屈するところは微塵もない。
 今回「ピエロ」は市川森一が書いている。彼はメインライターとして他のどの作家より多く提供している。
 そのなかにあって「地雷」と呼ぶのは大変失礼だけど、数あればそういうこともあるだろうという理由からではない。「地雷」になった敗因は萩原の出番が少ないことに負うところが大きい。同様にこの作品の児玉進の監督作でのちに放送される「非常の街に狼の歌を」でも萩原の出番は他と較べて少ない。両作は同時期に撮影されているわけだから、なぜ萩原がこれらであまりでてこないのか。
 これは推測だが、萩原が他の仕事のためスケジュールに支障ができていたからではないか。その仕事とは「傷だらけの天使」放映終了の頃に封切られた映画「雨のアムステルダム」の撮影のためオランダにでかけていたからではないか。「約束」につづいて岸恵子と共演している映画だ。ポスターやスチール、そして本編のなかにいる萩原はこの頃を思わせる。冬のヨーロッパを舞台にし、ラストは雪のシーンで終わる。ちょうど「傷だらけの天使」の放映時期と重なっている。
 仮にそうでなかったとしても、代わりに動き回る水谷が立派に成長してなければできないこと。萩原不在を埋めるに十分な見せ場を水谷は見せてくれる。
 もちろん萩原の出番が少なくてもちゃんと見せ場はある。脚本ではただの競馬の実況中継だったラジオの放送では、萩原はショーケンオーという自分の愛称を彷彿させる馬に賭けなかったかわりに大損を食らうという、視聴者へのサービスがある。
 熱をだした水谷は萩原の巧みな言葉に乗せられてケツに体温計を素直に入れる。その体温計が水谷の肛門にあったことも忘れて、口に入れて今度は苦い顔になる萩原。その上さらに水谷はその体温計を口にするという、コントのようなやり取りで笑わされる。
 タイトルにあるピエロ=結婚詐欺師にまんまと騙されてしまうのは綾部貴子。岸田今日子はこの回では別人のようにふくよかでやさしい女の顔を見せて、豊満な胸の谷間まで見せる。怪しげな「マヅルカ」は封印されたのか一音も針音を震わさない。
 プライドを傷つけられた綾部貴子は修に秘めた怒りを告げる。萩原と岸田今日子の一騎打ちが見られる。岸田今日子が最後に乾杯のグラスをあげるところは意味深である。
 筆者のような、ただの外野がぶしつけに「地雷」と呼んだことをことごとく笑うかのような名場面は盛り込まれている。
 綾部貴子の父が海軍大将で、おそらく彼女はファザコンともいうほどその父をいまでも強く愛していることが、一枚の絵の存在によって明かされる。謎の女綾部がいったいどういう過去を持ってここにいるかを解く重要な鍵だ。それができたのはメインライターの市川森一だったからだ。市川自身の父は海軍の航空隊の教官であったから自身が投影されているのかもしれない。
 水谷はピエロに騙されたもう一人の女子大生とベッドをともにするチャンスを得る。「ヌードダンサー」で筆おろしをしてもらったと自分では豪語しているが、幻想ともとれる語りが亨の童貞喪失にはてながつけられている。「ヌードダンサー」の脚本ではしっかりセックスしていると書かれているが、水谷や萩原たちが、これは違うと考えたのだろう。水谷は女子大生とベッドに入るも、なにもできない。 今回も裸は惜しげなくでてくる。こんなセックスシーンがブラウン管に登場したことはあっただろうかという貧しくて情けない、そしてかわいい亨がベッドにいる。「たまらん節」を歌いながら生卵を次々と割って、4個も飲んだというのに、どうしたらできるのか結局わからない。 
 決してもう萩原の代役は水谷に重くない。その証拠にいえば、もう一本の代役主演作である「非常の街」は名作といって過言ではない出来に着地している。 岸田森も結婚するという綾部貴子に嫉妬している抑えた芝居で存在をちゃんとアピールしている。
 さらにあの「たまらん節」がラストにフルで歌われている。脚本集では「結婚行進曲」ではなく「たまらん節を」となっている。元はこちらであったのだろう。「たまらん節」の面白いところは、意味があるのか意味がないのかよくわからない点。
 たまらん、たまらん、たまらんぜ、たまらんこけたら、みなこけた、たまたまらん。
 その歌詞に元?歌手の萩原は音符をそのまま歌い込んでもいる。男ふたりが肩寄せ合って歌うと、なんともしれない高揚感と寂しさが入り交じるのだろう。修と亨になる気分を味わえる歌うコスプレ的楽曲。愛される意味がわかる。
 それでもおまえはまだ「地雷」というかと、いまはいない「傷だらけの天使」のメンバーたちキャストもスタッフもいうかもしれない。
 萩原は滝田祐介演じるピエロに惚れなきゃならない。滝谷に翻弄された女子大生に惚れなきゃならない。萩原は、ばばあと呼んでも岸田今日子に内心は惚れている。だから岸田の仇を取ろうと、シリーズ初といえる本物の拳銃を手に殺しを決行する。相手はもちろんピエロである。
 前回「偽札造り」のピアニスト的位置にいる今回の女子大生に修は惚れるのが難しいだろう。かわりに亨が惚れるけれど、セックスもきちんとできなかった彼の振る舞いに視聴者は笑いはしても感情移入まではできない。
 いったいどうしたらこの回はもっとよくなったのだろうか。おそらく滝田や有島のようなタイプ、紳士や好々爺はこのドラマには似合わない。女のキャラクターはもう少し輪郭をつけて薄幸か世間知らずかもっと気高いものにしなければならない。そういったことは今後の展開に大いに反映されていくことになる。
 前回「偽札造り」今回「ピエロ」とつづいた不調はまだつづくのか、視聴率の低下とともに。もちろん答はノーである。ここからしばらく「傷だらけの天使」の「傷だらけ天使」たる傑作が連発されていくことになる。だからここでやめてはいけない。もちろんテレビの視聴者たちは修と亨にもうぞっこんで、なにがどうなろうが毎週つきあう仲になっていたが。

10 金庫破りに赤いバラを
  ーー情けない金庫破りの小松政夫とオカマの殺し屋加納典明は続編に登場するか? 

 名作のひとつである。萩原主演ドラマとして始まったシリーズはここにきて、ただの脇役に過ぎなかった水谷豊をもうひとりの主役に押し上げるほどのドラマ世界を築く。しかしそこには忘れられないゲストのひとりとなる小松政夫がいたことも大きい。さらに付け加えるなら監督の鈴木英夫の演出に追うところも忘れてはならない。 
 今回も前回につづき萩原の出番は少ない。しかし映画に出るためのスケジュールの都合かと思わさない設定がドラマ上の必然として機能し、不在を不在と思わさない。
 今回金庫破りをまかされたふたりは、例によってやっぱり脱線してしまう。番号を合わせて開錠する鍵を前にふたりが悪戦苦闘する様子は見所のひとつ。
 番号を忘れたふたりは何度やってもうまくいかない。萩原に番号を合わせるのを代われといわれた水谷は、もう何十回も回しているのにと回数をぼやく。回数じゃないんだ、内容だろと叱る様子がおかしいし、懐中電灯を口でくわえて、番号を照らしながら回す萩原の芝居は彼らの四苦八苦を一瞬で伝えてくれる。
 そこに、偶然なのか、仕組まれていたのか、金庫破りが押し込んできて、書類を奪うだけだったのが、一千万円の大金までも萩原たちの手に転がり込んでしまうことになる。一方の金庫破りのひとりが小松政夫が演じる一平だ。
 思いがけず大金を手に入れることになった萩原と水谷は愛すべき浅はかさを練り、一千万円をいただこうとする。
 萩原は水谷に金庫破りの現場に様子を見させるために戻らせたあと小松と話す。萩原は唐突に歌謡曲が好きかと聞き、小松はアグネス・チャンが好きという。萩原は、美空ひばりが好きで、今年の紅白にでられるだろうかと心配する。美空はかつて毎年紅白の常連だったが、その頃事情があって、出場から遠ざかり、古くからのファンは年の瀬が近づくと話題にしたものだった。
 金庫破りが自分たちの置かれている状況とはまるで関係ないことを話す。こんな斬新な光景をスクリーンで見て我々は後年驚くことになる。そう、タランティーノである。「レザボアドッグス」「パルプフィクション」のダーティたちはマドンナやマクドナルドの話をして銀行や人殺しに向かった。
 そして唐突であった話からでた小松政夫が似つかわしくないアグネス・チャンが好きといったことが、小松のキャラを一気に形作っていく。
 情けない金庫破りはさらしをだらしなく太った腹に巻きえらそうにするが、ほんとうは女の尻に敷かれている。小松が見栄を張る横で、アニキ、あいつほんとはスケベだよ、という水谷。こういうセリフの間合いと言いぐさは萩原といるうちに水谷が習得していったに違いない。
 脱線は当然次なる危機に向かっていく。綾部貴子から自首しなさいといわれて反論できなかった萩原は他のふたりを向かわせようと考える。狭いアパートの小さなテーブルに大金を並べて話し合う萩原、水谷、小松。その向こうに小松の女である川崎あかねがいる構図。話し合いは最終的にトランプでいちばん数の小さいものが引いたものがいくことになる。オチはどうなるかだいたい読める展開。そこへ向かってひたすら三人の芝居がつづいていく。小松が「電線音頭」で一気に人気者となるのは「傷だらけの天使」が最終回を迎えたあとになる。まだコメディアン系の三枚目として知られるだけ。歳は彼らよりも上だが、どこか頼りない様子があって、亨の下にもうひとりバカがいる構図が出来上がっている。
 最初に小松が大きい数字を引いて万事休す。つづく亨がやはりツボを踏む。辰巳五郎に、(アキラの)第二のふるさともといわれた刑務所に向かうことになる。しかし靴を履くところで、まだアニキが引いてなかったことを思いだし、もちろん展開は……。 
 このあたりは「男はつらいよ」の柴又での寅さんととらやの人々のやりとり級の展開である。この回限りであったから、ドラマは名作となった小松政夫。もう一度でてくれてもいい三人目の傷だらけの天使。しかしそうならなかった潔さがいいところであったのかもしれない。
 萩原不在となったところで、水谷と小松はバカの二人連れを新宿の街でつづける。元鍵屋の一平はヘアピンでコインロッカーを巧みに開ける。萩原を裏切ってカネを奪い取ろうとする小松。しかし水谷はすんでのところでできない。
 途方に暮れつつ目指すのは次の悪知恵。小松を金庫破りに向かわせた黒幕に駆け引きを申し込む。取引場所は西新宿。まだまだ少なかった高層ビルを背景にふたりは当時人気だったブルース・リー起源の空手アクションを初めて退屈をしのぎする。小松は履いていた地下足袋を破いてしまう。水谷はすかさず裁縫道具を取りだして、中学の家庭科で習って得意だからいつでも持っているんだと、地下足袋を縫ってやる。「天使の情景バリエーション」の楽曲が後ろに流れるこのシーンは先の自首トランプとは趣が違うけれど、鈴木英夫の演出とキャストのイキがあってこそ可能だった。「傷だらけの天使」に魅せられて何十年経っても口にしているものは、もちろん筆者も含めて、このシーンにやられてしまったはず。バカ同士の友情と悲しみが都会のビルの狭間でひっそりと咲いている。子供のじゃれあいみたいなブルース・リーごっこはそのとき世界につながるスクリーンに届いている、彼らの脳内と、見ているものの心に。
 萩原が小松に惚れることはない。しかし水谷は小松に惚れる。ほんとうは萩原だって小松に惚れてもいいくらい自分もダメであることは知っている。しかし萩原のスター性が邪魔をしている。萩原はアニキなのである。アニキは好きな女にさえ、好きだ愛してると素直にいえないところがあるから、アニキなのである。
 水谷は小松のために命を落としてもいい覚悟を持つ。
 小松をヤバイ仕事である金庫破りに誘った男はバラを胸にアパートの押し入れで殺されていた。金庫破りの黒幕の殺し屋の仕業である。ヨシオカというその殺し屋を演じるのは加納典明。写真家。オープニングタイトルで萩原のモノクロカットを撮った彼である。加納は後年タレント活動をやり、多くの人に知られることになるが、このときは映画に出た経験はあるものの、ほとんど誰も知らない存在。亨と同じオールバックのリーゼントに白いドーランに赤い口紅をつけて低いボイスの生硬な語りで、あなたも赤いバラが好きなようね、と迫って殺しをする。あいつきっとこっちだよ、と口元に手をあててオカマだと笑った亨は加納に股間を触られて生死を彷徨うことになる。これまでにミルクを飲むヤクザや、針が飛び出すピストルを持った殺し屋がでてきた。個性的な悪役群に、ここでついに忘れがたい究極の悪役が登場する。俳優でなく芸術家だったことが功を奏し、テレビサイズを突き破る不穏さが横溢している。たった一度の登場でしかなかったことが惜しまれる。
 小松は女とともにカネを持ち逃げして、女の田舎にいってやり直そうとする。ここでも田舎がでてくる。「傷だらけの天使」は都会と田舎が対比的に常に登場し、都会に対してのユートピアを田舎に見る。「ディスカバージャパン」という標語で国鉄が都会よりも地方へとうたった頃。田舎=原点だったのだろう、都会で傷ついた心を癒やしてくれる、あるいは再出発のできる場所、いまならヒーリングスポットみたいな場所としてあった。
 小松は女にバカにされて、しくじれば長らくでてこられないムショ暮らしを覚悟して、亨を救うことを選ぶ。
 得意のヘアピンで、カネを隠したコインロッカーを小松は開ける。最初に小松がコインロッカーを開けたとき、小松は自分の耳の後ろからヘアピンを手品のように取りだす。つづく二度目のコインロッカーでは、耳の後ろにヘアピンはなく、いっしょにいた女の髪から取りだして開ける。小さなことだけれど、小松が最初と同様にヘアピンを取りださないところに、小松の心の揺れと、女との関係がわかる。小松はもう足を洗おうと思っていたからいつも持っているヘアピンを持ってなかった。女のために。しかし心変わりの果て、女の髪から取ったヘアピンで鍵を開けるのだ。 亨の裁縫道具。ヘアピンと同様ほんとうは女の持ち物。男が裁縫道具を持ち歩いているなどいまも昔も会ったことがない。萩原は持つだろうか。持っても面白いかもしれないが、水谷のあのポマードの油を針につけて滑りをよくする芝居があってさらにリアルさが加わるし、水谷は不器用そうに見えて、じつは手が達者というのはすごく納得できる。ヘアピンと裁縫道具が水谷と小松を兄弟分の盃のように結びつけている。そこに同じオカマと見える加納演じる殺し屋がぽつんと手に持つ赤いバラという不協和音。ほんとうの恐怖、悪は美しさのなかに毒を秘めさせている。
 ここまでの回で水谷は、アニキと何度もいってきた。そしてここに来て萩原は、アニキと水谷が叫ぶように、アキラと名前を連呼するようになっていく。アニキとアキラは言葉は違うけれどまるで同じように響き合う。ふたりの関係が徐々に対等ともいえるようになってきたからか。
 後年アニキという水谷の口真似は「傷だらけの天使」の物まねとして多用されるようになる。しかし萩原のオープニングタイトルの真似をするものがいても萩原のしゃべりを真似するものはほぼいない。「傷だらけの天使」の終了半年後に始まる次の主演作「前略おふくろ様」で演じたサブちゃんの口真似は真似して真似してさんざんやられ尽くされるのに。 
 萩原の真似、この「傷だらけの天使」の修の口真似はなかなか難しく、物まね芸人でも、影響を受ける俳優でも、恰好や髪型はできても、声色には届かない。
 萩原の変声期中かと思える破裂音を含んだ高音は萩原だけのもの。いや、のちの萩原ももうできなかった。まるでマイケル・ジャクソンがジャクソンファイブにいたときの声のように一瞬のきらめき。 その声はいったい何なのか筆者はずっと考えてきた。あれはブルース・リーの快鳥音と呼ばれる雄叫びとほとんど同じではないか。ブルース・リーのあとを追って多くのアクション俳優がカンフーを繰り広げたが、肉体や所作は真似できても、あの声だけは追いつけなかった。萩原はもちろんブルース・リーの真似をしたわけではないだろう。しかしまるでカラスが悲鳴をあげたようなあの高い声や、その高い声を口のなかだけで爆発させて、音をこぼれ落とすつぶやきは、俳優のメソッドに乗っていないどころか、他の映画俳優も辿り着いたものがないヴォイシング。ただひとり、それに似たこことをやっていたのはブルース・リーではないか。
 水谷と小松が新宿高層ビルをバックにやるブルース・リーごっこ。そこに萩原がいたらきっと証明されたはず。しかしそのとき萩原はトランプで2を引き、ブタ箱のなかにいた。 
 小松政夫と加納典明。ふたりの登場人物は、もし続編があるなら、もう一度会いたいと真っ先に思わせるゲストである。小松や加納はこの頃の熱演をまた見せてくれるだろうか。

11 シンデレラの死に母の歌を  ーー萩原と水谷は対等になり、名作が生まれる

 これまた名作である。 ペントハウスに帰り、冷えたご飯にお湯をかけて冷えた焼き魚? を食べる修は一仕事を終えてトルコ? にでもいっしょにいく約束を亨にしていたのだろうか。急な心変わりで、健太のためにプラモデルを買い、子供に会いにいくことにしたと亨に告げる。もちろんごねる亨。女の前ではビビってなにもできないくせに、亨は健太のプラモデルを投げ捨ててしまうくらい機嫌を損ねる。 萩原と水谷のやり取りは脚本のト書きやとセリフを超えてどんどんと世界を豊かにしていく。
 カセットテープに吹き込まれた健太の声に返事をする萩原の芝居。そのカセットテープをエロテープと勘違いする水谷の動き。
 冒頭からふたりはペントハウスにいる彼らの世界に視聴者を引きずり込んで離さない。
 水谷は前回「金庫破り」でも帰宅するOLのパンツを階段の下から覗き、今回は道行く女のスカートをわざとめくって喜ぶという傍若無人ぶりを発揮する。 水谷は完全に亨という、中学中退のブタ箱を故郷にする、貧しいオカマのキャラクターを血肉化してしまっている。
 作り手たちもそのことをよくわかっていたのだろう。萩原が挑む相手はあっという間に育ってきた水谷という身内であり、視聴者はその対決を見たがっているだろうと。そのためにこの回は用意されたような話の構造である。
 ふたりに舞い込む仕事はふたりの女と付き合い、どちらが資産家の孫娘であるかを調べること。孫娘は幼少の頃誘拐されて行方不明となっていたが、資産家である山林王の余命がないと知り、名乗りを上げてきた。本物ならば孫娘に巨額の遺産が渡されることになる。 水谷はアニキを差し置き美人を選び、萩原は彼には不釣り合いともいえる、おぼこっぼくて垢抜けない「ブス」を選ばされる。
 対決であると喜ぶ水谷に、こんな汚いショーバイに勝ちも負けもあるか、と吐き捨てる萩原の負け惜しみは正鵠を得ている。
 水を得た魚のように弾けまくる水谷に対して、萩原は後部座席から運転席に話しかけるのに、バックシートからでなく、窓を乗りだして運転席にいる岸田森に向かう。カメラの構図が動きを選んだのだろうが、萩原の芝居は修の焦りや怒りを見事に表現しているし、動きに無駄がない。萩原の動きはほんとうに無駄がない。前回「金庫破り」でも小松政夫に挑むとき、小さなテーブルを座った姿勢からひょいと乗り越えて相手の横に立つ。動物のような跳躍と姿勢の崩れない着地。そしてただ動きが軽いだけでなく、動きが鈍いのもちゃんと演技してしまう。それも前回「金庫破り」で亨を助けるくだりで塀を乗り越える芝居で見せてくれる。
 こんな役者になかなか立ち向かえるものでない。そこに現れたのが水谷である。水谷は徐々に萩原の魅力を食い破る勢いを持ち始めている。
 サロンに勤めるホステスの美人を選んだ水谷は赤の蝶ネクタイ姿でどこのアホボンかというありさまで現れる。悪者臭ぷんぷんの女は水谷をまんまと連れだしてベッドイン。どうせビビってできないくせに気持ちだけはやる気満々である亨を、水谷は蝶ネクタイひとつを小道具にぴしっと決めて笑いにする。 亨は蝶ネクタイだけをつけてベッドで横になっている。「服をお脱ぎになれば」と女にいわれて、布団をめくれば、全裸に蝶ネクタイだけしている水谷が現れる。「ブス」を選んでしまった萩原はイヤイヤながらでありながら、徐々に女にひかれていく。けっして彼女は美人じゃないが、親しみの持てる顔で、この頃芸能界にあふれだすアイドルたちはこちらの風貌だ。見ているものはこの子にシンパシーを抱く。中小企業で働くOという彼女、初枝はかつての吉永小百合的なイメージが垣間見える。
 勝ち負けなどあるかといってのけた萩原だが、亨に負けることはプライドが許さない。先行逃げ切りの体勢に入った亨に修は黙ってられない。またまた水谷は図に乗る亨を焼き鳥屋の屋台で踊るように喋って、演じきる。
 水谷の人気は放映時に回を追うごとに上がっていったという。しかしこれはまだ放映は12月の初めだが、撮影は11月か10月の終わりで、巷の人気はまだ来てないはず。けれど萩原は水谷の人気がそのうち押し寄せてくることくらい百も承知であったはず。
 修は調子に乗る亨を理不尽なまでに殴り、焼き鳥屋の屋台をぶっつぶして、バケツをぶちまけて、おまえとはもうこれっきりだ、ひとりでやっていけと三行半を叩きつける。
 これは役柄でのこと。筋書きにあることとわかりながら、その鬼気迫る芝居にフィルムに焼き付けられたドラマを見るものたちは、もうひとつのドラマを重ねてみたりする。
 みどころはさらにあり、岸田森の演じる修が登場する。革ジャンに腹巻き。その腹巻きに女性週刊誌「ヤングレディ」が入っているのは「殺人者」で修がやくざに殴り込みにいく際、突っ込んだことから来ている。亨が読んだ週刊誌の星占いを聞いて、お守りがわりか腹巻きに突っ込みでかけていった。
 岸田森は修のしゃべりを真似し、ドアの外に立っているときはだらしなく革ジャンを着ているところまでやり(修はそんなことはしないが、バカなのだから、こんなことをするだろうという辰巳の過剰な演技)、まったく芸がいちいち細かい。 修になりきり、女と寝ることに成功し、秘密を聞きだす手前で嘘はバレる。岸田森は思い切り殴られても微動だにせず、飲みさしのブランデーをグラスごと、暴漢に投げつけて立ち回りを繰り広げる。
 もし劇場でこの様子が繰り広げられたら観客は手を叩いて喜んだであろう場面の誕生である。水谷の成長とともに岸田森も弾け出す。「殺人者」で坊主頭を見せたことで大きく振り切れたのだろうか。いや、演劇界を代表する賞、岸田賞の名にある劇作家の岸田國士を叔父に持ち(ということは岸田今日子の父)、森という名を岸田國士に名付けてもらった岸田森。彼は「傷だらけの天使」にでるまえから、十分規格外れの俳優と知られていたわけで、柔らかくて堅い、天才少年だと評した水谷豊のCMをのちに数多く演出もしているほどの才能を持っていた。「傷だらけの天使」は井上堯之バンドのサントラだけでなく、音楽がじつに多彩でうまく使われていると回を追うごとに感心する。
 時代を彩る歌謡曲は常に流れる。「女の道」がこれまで何度か流れたのはこの曲が歌謡史上に残る名曲でありミリオンセラーであったからだろうが、回を重ねて時が経つにつれて、新しいヒット曲が聞こえ始める。ここでは梓みち代の「ふたりでお茶を」に、同年のレコード大賞となる森新一の「襟裳岬」も流れている。
 今回登場するのは「オーマイダーリン、オーマイダーリン」と歌われる「いとしのクレメンタイン」。「雪山賛歌」として知られる、ジョン・フォードの「荒野の決闘」に使われた曲である。のどかで、やさしい響きを持つこの歌の由来はまるでこの物語の最後を暗示するような秘めたる話を含んでいる。その歌をレコードでかけながら萩原を待つ「ブス」と呼ばれた初枝。しかし初枝はもう気落ちするような容姿ではない。萩原が彼女の心に惚れ、ミスユニバース並にきれいにしてと美容師に頼み、社員割引きを店員に無理矢理頼み込んで買ったスカートとブラウスで別人のようになっている。 水谷の芝居に牙城を犯されつつある萩原は、初枝を連れて美容院に連れ込むところや、女物の服を買うといった芝居を見せて、いくらなんでもおまえにはこんな芝居は無理だろう、といってるようだ。
 ところが女はもう一方のホステスサイドの暴漢たちに殺されてしまう。病院に駆けこむ萩原を待つのは岸田森。ふたりの病院での廊下でのやり取りも目が離せない。またおまえの仕業かと怒る修は、自分の真似をして目に黒いあざをつけた辰巳五郎に、もう片方の目もやってやろうかと拳を握る。修の真似をしたときはあれほど強かった辰巳は情けないほど弱く、しかし病院の看板にある、お静かに、を盾にしたり、火災報知器に手をやり、ほんとうに押すぞ、と脅す。
 水谷が萩原を食い破るなら、わたしだってもう黙ってられないよという岸田森がいる。 あっけなく命を落とした女の田舎に遺骨を届けにいく修と亨。前回「金庫破り」の小松政夫の女が目指そうとした田舎のなかをふたりは歩く。手には遺骨とトランクを持ち。亡くなった女をひとりで育てた祖母は浦辺粂子である。後年片岡鶴太郎に物真似されることでも有名となる黒澤や小津映画にもでていた名脇役のひとりである。 萩原は浦辺に孫娘が死んだことを告げることができない。キンタマが小さいと罵るのはいままでは役柄が反対だったともいえる水谷のほうだ。
 ふたりは五右衛門風呂にともに入り、萩原はおまえの三本目の足があたったと狭い風呂のなかで文句をいう。
 亨は修に、死んだ初枝は健太のおふくろさんになってくれたらよかったのにね、という。そういう亨は田舎で堅実な暮らしがしたいと憧れている。「オーマイダーリン、オーマイダーリン」といって萩原の帰りを待ちわびたように、今度は風呂のなかで亨は歌う。まだ見ぬ幸せを願うように。 そしてまたその夢は簡単に潰える。翌日外から戻ってきた修のまえにズタボロ傷だらけになった亨が泣き叫ぶ。水谷は笑うように泣き苦しみ、のた打つ。ああ、こんな芝居ができるのは水谷だけ。まったくこのドラマはタイトル通り主人公たちは、これでもかとばかりに血まみれになり、傷を負っている。それはただの化粧でも血糊ではない。施された傷の向こうから彼らの魂が響きだす。
 こんな芝居を見せられたのでは、萩原はまた黙ってられない。追ってきた暴漢に棍棒片手で挑んでいく。井上堯之バンドのメロディがかぶさる。待ってましたのアクションに流れる音より陰りを帯びた旋律が響く。弾みつつ、ためが効いたサントラ。流麗にサックスが鳴り、確かなカッティングをギターが刻んでいく。この楽曲は最初にでたサントラLPには収録されていない。LPは「太陽にほえろ!」とのカップリング盤であった。「天使の……」というタイトルは作曲者たちによるものでなく、発売レコード会社が勝手につけたものが多かったという。そのため「天使の太陽」と名乗る曲は、「傷だらけの天使」サイドにあたるレコードB面に収められているが、「太陽」の楽曲である。この曲の代わりに入れて欲しかった曲は多いが、ここで流れる曲もそのひとつ。のちに発売されたテレビ使用曲をそのまま収録したミュージックファイルシリーズにて初めて商品化された。 萩原は暴漢を次々と倒していく。たったひとりでそれはないだろうという疑問を差し挟む寸前に場面は無音となり、そこに強い雨が降り出して、畑から鶏小屋まで逃げ込んでいく場面につながっていく。ここはもう黒澤の「七人の侍」をひとりでやっているような名場面だ。このドラマの主役はやはり萩原だ。水谷に立ち回りは似合わない。萩原のほうが水谷より身長は高いが、それほどの差があるわけでない。人には向き不向きがあるということなのだろうか。工藤栄一は「風の中のあいつ」で萩原を演出したときに、こういうときにこうやればこう映るんだと実際にカメラを覗かせて、スタートしての思い上がりもあった彼を指導したと語っている。天性の勘を持った萩原は固さをすぐになくしていったという。
 そして場面はペントハウスとなり、すべての事件が解決したあとになる。萩原たちのところに岸田森は約束のギャラを届けに来る。カネを一枚くすねとったと疑われる岸田森は修を怖れつつも、ちゃっかり手に入れている。ちょっとだけよと最後にいうのはドリフターズの加藤茶のギャグ。この頃の流行語のひとつ。
 三人の軽いやり取りのあとラストになる。「オーマイダーリン、オーマイダーリン」と歌いながら手には死んだ女による「オーマイダーリン、オーマイダーリン」が入ったポケットタイプのカセットテープレコーダー(もちろんウオークマンなどまだない)。その手にはかつて骨箱があった。女は死んだが生きている。「いとしのクレメンタイン」が水死によってあとに残された恋人を愛しむ様子を歌ったのが原詩である。そんなことなどなにも知らなくても「オーマイダーリン、オーマイダーリン」は忘れがたい響きとなって二人の姿とともに目に焼き付く。
 監督はこの頃青春ドラマなどをたくさん撮った土屋統吾郎。筆者は彼の名前を再放送ドラマに見つけるたび胸をわくわくするようになった。

12 非常の街に狼の歌を
  ーー岸田森の魂は射撃屋のオヤジの片足を抱き、いまも丸の内を歩いているか

 今回は「ピエロ」と同じ児玉進作品。「ピエロ」の回でも言及したが、萩原不在を埋めるため、彼の出番を抑えて構成されている。「ピエロ」はやや物足りないところもあったが、今回は萩原不在でも萩原にちゃんと見せ場もあり、また埋めるのは水谷だけでなく、岸田森も加わっているためか、「傷だらけの天使」の新たな魅力として完成している。
 今回は「港町」鴨川グランドホテルにつづくタイアップロケもの第二弾。場所は熱海。水葉亭がタイアップ先。熱海といえばかつては新婚旅行に向かう先と賑わっていたが、放映当時ももうその頃の面影はなくなりつつあり、そのことは新婚カップルの新郎役として登場する水谷にタクシー運転手が、あなたたちのような人はいまどきここには珍しいといっている。
 亨がなぜ新婚カップルを装い熱海にやって来たかは、相手の新婦役を務めるほんとうの旦那が会社のカネを持ち逃げして、この地に潜伏して高飛びを狙っているのを見つけて阻止するため。
 亨は新婚カップルとしてホテルに滞在して、カネを持って高飛びを狙っている男の噂を巻いて、高飛びを援助する男を捕らえようとしている。その男なら逃げた旦那の行方を知っているかもしれないと綾部情報社は見て取った。
 高飛びを狙う男として繰り込まれたはずの修は熱海駅であっけなく事故に遭い入院となり、代わりに辰巳五郎の出番となる。
 岸田森、今度は前回と違い、正式な修の代役である。そんな危ない橋など渡りたくないのだが、岸田今日子にいわれたら楯突けない。
 なにも知らない亨は新婚カップルを偽装しているのに人妻である新婦をなんとか寝取ることに余念なく、自分が何のためにここに来ているかなど二の次三の次の脱線ぶり。
 夫婦ともにストリップを鑑賞して、隣室にいる岸田扮する高飛びを狙う男の噂をまき散らしながらも、御開帳もしてないストリッパーに頭に血が上り、鼻から血をだす。このときの水谷の顔は彼の子役時代の初主演作だった手塚治虫原作「バンパイア」のトッペイを彷彿させる。トッペイは狼男である。狼に化けた男が同じ顔をして今度は鼻血をだすとはおかしすぎないか。まさか、血の飲み過ぎ? とツッコミを入れたくなる。 
 高飛び屋がまんまと食いつき、支度金を海に投げることになり、ボートで監視をすることになった亨がちゃんと仕事できるわけがない。
 同様に別荘から望遠鏡を手に車椅子から投げた札束を奪いにやって来る高飛び屋を探す修は岸田今日子に仕事などしないでいいと取り上げられる。
 人に食べるところを見られるのが嫌いだといった綾部貴子は修の食べる様子を見るのが好きらしい。「金庫破り」の回で岸田今日子は、これまで見せなかったやさしい笑みを浮かべて修の指名手配写真を見ていた。「ピエロ」で自分の思わぬ醜態を見せてしまったせいか、それとも以前からいった「かわいい子供」というように言葉面でなく、本気で思っているのか、綾部貴子は修をやさしく見守る母のような眼差しをたたえるようになってきている。
 その修は亨同様ちゃんと仕事などしてなく、ホテルでよろしくやっているカップルを覗いて楽しんでいたのだけど。
 亨も同様。ごめんなさーい、と水谷にしかできない甘えたバカな声をだして、女に押しかかろうとしてボートから落とされて気がついたときにはカネはもうなくなっている始末。 ところが高飛び屋は彼らの企みを知り、カネを返して、辰巳五郎の足をすんでのところで轢き潰すお礼をする。
 高飛び屋が町の射的屋だとわかった亨、辰巳、依頼主の新婦役の女は見せに向かう。そこに現れるのは射的屋を狙うもう一組の怪しいふたり。「金庫破り」のバラを手にするオカマの殺し屋に匹敵する、奇妙な笑いをあげる、コートと白い手袋のギョロ目と、角刈りの大男。鈴木和夫と佐藤京一。東宝と東映で活躍した一度見たら忘れられない悪役ふたり。射的屋のコルクのライフルが的を撃っていたのどかな景色が一転本物の拳銃で射的屋を演じる土屋嘉男の足に打ち込まれていく。ただただ笑って隣でコルクをライフルに詰め込んでいた鈴木和夫の笑いはひたすら怖い。子供ならこの場面を見たら夢に見たかもしれない。
 ふたりの登場は他にもあるが、この射撃屋の場面は萩原なしがもったいないほどの名場面で、萩原がいたらさらなる伝説がひとつ加わっただろう。
 すでに寂れかけた温泉街の射的屋にならこんな殺し屋が現れて人をおもちゃのようにして殺してしまうなど簡単だろうと思わせるのに十分な迫力である。
 裏の部屋に逃げ込んだ亨は当然怯えて手も足も出ない。炬燵に逃げ込む亨はあまりの恐怖に炬燵のなかを逃げすぎて外にでてしまう。水谷の体の動きが萩原に迫っていくような瞬間が現れる。
 クールを心情とする辰巳五郎の内実は見せかけだけであることは胃の薬を飲まなければやっていけないところで十分にバレている。高飛び犯に会うため待っているとき亨に、胃の薬を飲む時間じゃないの、といわれてしまうくだりが今回あって、亨がバカなのか正直なのかわからない一面を見せてくれる。
 意外でもなくほんとうは小心者同士のふたりを差し置き、土屋が撃たれるさまを目を輝かせて見るのは新婦役の女の水原麻記。美人である。「傷だらけの天使」にふさわしい悪女。この頃の女優は美しいか、そうでないかとはっきりしている。男優だって二枚目か三枚目かであったのだが、萩原や水谷の登場などで徐々にその垣根は壊れていく。そのあとに女優にも変化がやって来て、このあとの回にも登場する桃井かおりはその垣根を壊していった一人だろう。
 水原麻記は高飛び屋が全部吐くまで見守る気満々だったが、ついに亨がたまらず、拡声器を手にして警察の声をだして殺し屋たちを追い払う。 血だらけになりいつ死んでもおかしくない土屋嘉男は岸田今日子と萩原のいる別荘に運び込まれて、病院へ連れていってもらえない。
 土屋が知るカネを持ち逃げした男の行方を土屋が口を割れば助かる。けれど土屋は死を覚悟して黙っている。男との約束、契約を守るためだ。
 土屋嘉夫は「七人の侍」で妻を野武士に奪われた百姓を演じ、また東宝の特撮映画の数々にでた名優のひとり。たった一場面に近い萩原とのからみは対決にふさわしい印象を心に刻む。
 命を賭けてまで守ることなどする意味がどこにあると聞く萩原に、おまえはその足をどうしたんだ、と土屋は蒼白な顔で聞き返す。萩原は子供を助けようとして気がついたら車に飛びだして足をケガしていた。そのお礼に熱海警察から表彰されて金一封、たった500円をもらっている。
 おまえだって、そうじゃないかといわれた萩原は、ただ黙るしかない。そうなればもう車椅子に乗って、男が死んでいくのをみすみす見ていくわけにはいかない。 萩原は水谷を連れて、止める岸田森を振り払う。当然味方すると思った岸田今日子は、連れていけといい、この場所にはこの人は似合わない、といいのける。 
 助けてやれではなく、この場所に血まみれの男はふさわしくないという綾部貴子の矜持と優しさの入り交じった言葉。
 土屋嘉男は高飛びを約束した男であり、萩原たちが追っている男にニセのパスボートを渡すつもりだった。しかし男は来ない。
 ことは意外な展開を見せて、すべてなにもなかったように男は会社の机に座ることになる。
 萩原と岸田森はそのことを熱海の夕日をバックに話す。萩原と岸田森はこれから何度となくぶつかる。ただいいようにやられていただけの修は、徐々に辰巳五郎に無骨で不細工で無粋で不格好な振る舞いの数々を見せつけていくことで、辰巳五郎のガラスの心にヒビを入れていく。その最初の一撃がここに記されている。
 仕事のためなら、カネのためなら、綾部貴子社長のいいつけなら、辰巳五郎は命も惜しまない。しかし萩原がその心を変えていく。
 事件が終幕を迎えて凪となったとき、辰巳五郎は亨を従えて、自分の矜持を守るためにカネを持ち逃げした男の勤める会社に乗り込んでいく。
 これだけはいってやらないと気が済まないと何度も繰り返すのは、犬やゴキブリでも集団のルールを守って生活してるんだよという言葉のつらなり。
 辰巳は男の前で見得を切ることはできるのか。つきあう亨は手にバイオリンのバッグを手にしている。はたしてどうなるかはまだ見ぬ幸せな人のために。
 そしてラストカットは会社に向かう烏合の衆のように歩くラッシュの群れ。そのなかを反対の方向から歩いて抜けていく辰巳五郎と亨。
 岸田森は番組終了からおよそ7年後に癌四十三歳の若さでこの世を去る。 社畜とまでいわれた日本のサラリーマンたちの会社への忠誠心はこの頃の時代よりはもうだいぶ薄れている。しかし企業や国家は平気で自分たちの不利益を隠すために嘘をつく。それはあの頃よりもずっと巧妙に狡猾に。
 いまもあの頃と変わらず見られるサラリーマンの人混みを見たら、あのなかに岸田森とポマードを塗った水谷豊が反対向きに歩いて通り過ぎていくのを夢想して欲しい。そして岸田森が繰り返したあのセリフをつぶやいて欲しい。
「あなたの行為がどれだけの人を苦しめたか、胸に手をあててよく考えてみたまえ。犬やゴキブリでも集団のルールを守って生活してるんだよ。会社が許してくれればそれで済むってもんじゃない」と。


13 可愛いい女に愛の別れを
  ーー煙突付きの風呂は陰の脇役のひとりでもある

「金庫破り」から始まる「傷だらけの天使」の好調はさらにつづく。
 今作の「可愛いい女」とは吉田日出子。変わった雰囲気の、いまでいう不思議ちゃん的個性派女優として、テレビや映画にでていたが、代表作となる「上海バンスキング」はまだ生まれていない。知る人ぞ知る存在だった頃のことだ。
 じつにいいキャスティングといえる。彼女が加わったことで、修の乱暴さにくるまれたやさしさ、亨の貧しさからくる傍若無人と気の良さといったものが、改めてクローズアップされている。
 萩原は革ジャンかノーネクタイのスーツファッションでいつもキメている。対する水谷はいかにもチンピラといった派手な色に刺繍のついたジャンパーをよく着ている。その刺繍が水谷の亨成りきりの度合いに比例してか、今作では背中にウサギとキノコ、表は独楽とサイコロ。東洋なのか西洋なのかわからない奇妙奇天烈で、亨のバカのくせにたまらない愛くるしさが表現されたユニフォームとなっている。しかしいったいどういう発想、意味が込められると、西洋風のウサギに、独楽とサイコロが同じ服に描くデザインになるのだろうか。
 水谷はそのとき喫煙者だったのかどうかわからない。しかし萩原や岸田森が吸っていても水谷は吸わなかった。喫煙しないのかと思って見ていると、「シンデレラ」で初めて煙草を吸い、今回は二度目。「シンデレラ」も今回も必然的な使い方であえて喫煙しなかったことがわかる。
 過去のドラマや映画は喫煙シーンがやたらとでてくる。いまの感覚から見ると、のべつまくなし吸っているように見えるが、よく見ると必然的な小道具として使われていることがわかる。
 亨の喫煙は「シンデレラ」の回で、修から三行半をいいわたされる場面で吸っている。互角になったと勘違いする亨に煙草は必要だろう。
 今回は会社に乗り込んで情報を得ようとするとき、洋雑誌「TIME」を原文で読む重役の部屋から煙草をくすねたときに吸う。このときの水谷はどこをどう切ってものチンピラ。それも頭の悪いただの使い走りでしかない。しかしそう見えないようにと必死に頑張りながらも、馬脚をボロボロ見せてしまう演技をさらりと見せてくれる。
 亨がなぜ会社に乗り込んだかというと、元はといえば、修たちが計画倒産を企てようとしている社長の令嬢である吉田日出子を、ペントハウスで預かったからだった。 この吉田日出子、世間知らずで、食いしん坊で、かつ立派に女といっていい歳なのに子供のように性に対しては無垢でもある。 メンチカツは嫌いで、肉とコロッケをバカバカ食べて、修たちの報酬分まで食べきる勢いで、クラシックを好む。
 そう、またクラシックである。貧しい彼らの対極にある象徴として使われるわけだが、まだ権威が教養が敢然と生きていた時代だったのだと見ながら思う。
 修たちは吉田日出子といっしょにステーキを食べるのに、フォークナイフが一組しかないペントハウスの住人である。包丁と一本の箸で肉を食べる修たちに、面白いものでお食べになるのね、と笑われる。
 計画倒産はその名の通り、奥にからくりがある。法の網をすり抜けて、マイナスを巧みに利用し、私腹を肥やしていく。そんな富あるものへの憤りや怒りを「傷だらけの天使」は笑いに包んだ不細工なまでの無器用な行動に変えて物語を進めていく。
 吉田日出子は彼らの生活の自由さに憧れていき、初めて見た「金曜10時うわさのチャンネル」にでてくるデストロイヤーがせんだみつおや、あのねのねをぶっ飛ばすコントを見て、あのお面が欲しいという。和田アキ子がゴッド姐ちゃんとしてでたバラエティ「うわさ」は「傷だらけの天使」の24時間前に放送されて、金曜と土曜の違いだけでない、こちらは段違いの高視聴率を得ていた。ゴッド姐ちゃんに叩かれているひとりだった歌手の湯原昌幸は、降板された俳優のあと水谷が決まる前に候補のひとりでもあったという話を市川が筆者に語ったことがある。
 お嬢さんのご所望に応えて買いにでたあと、デストロイヤーの白地に目と口と鼻を赤の縁取りで開けたマスクを三人はつける。屋上で「静かな湖畔の森の陰からもう起きちゃいかがとカッコが鳴く」をマスク姿で輪唱する。
 吉田日出子は学校で毎日この歌を朝に歌ったからで、あなたの学校では歌わなかったのと修に聞く。歌わなかった修は学校はどこかと聞かれて、赤羽少年院とを答える。
 修は吉田日出子が好みでない様子なのだが、屋上の風呂に入る彼女をのぞき見だけはしたい。もちろん亨も。 屋上のタイル張りの床に無造作に置かれた煙突付きの風呂。この風呂はこの回に限らず、このドラマで要所ごとに忘れられないシーンを用意してくれる。ペントハウスとともにこの風呂の存在は大きい。いったい誰がここに置こうと提案したのか。
 ふたりはペントハウスの窓から争うようにのぞき見をしようとしていると、シャンプーがないと吉田がいう。
 水谷はシャンプーを手に風呂に近づき、吉田の無垢な芝居に翻弄されて、いつの間にか同じパンツいっちょうで釜のなかに入って、背中を流してやることになる。吉田の背中を流すタオルをよく見れば、亨の履いていたパンツである。亨はいつの間にか全裸になっていたわけだ。吉田は湯船に落ちた石鹸を拾おうとして、亨の「大物」をつかみ、お父さまと同じものがあるという。吉田は毎日父親と風呂に入っていたらしい。
 萩原も見せ場は多いものの、水谷ほどのわかりやすいオチやバカぶりができず、印象を残しにくい状況に次第になってきている。
 さらに水谷はここでギターを弾き、哀愁あふれる低音で、英語歌詞のまま「赤い河の谷間」を歌う。自由な生活を楽しむ吉田だが、やさしい父のいる家を思う。萩原は千葉にいるひとり息子の健太を思ってか小さな靴を見ている。水谷は親の顔を知らない子供である。あまり語られることはないがこの場面も「傷だらけの天使」が残した印象的な名場面のひとつだろう。
 その「赤い河の谷間」を萩原がひとりでギターで鳴らす場面もある。西部開拓時代のこの曲から連想するのは「シンデレラ」での「オーマイダーリン」。あちらも日本では「雪山賛歌」として知られていて、学校の音楽の授業で輪唱した人は多いはずだ。「シンデレラ」と同作は土屋統吾郎が監督。これは監督の趣味なのだろうか。演歌やクラシックとともに、こういう唱歌までも入っていたことが「傷だらけの天使」の世界を豊かにしている。
 大人たちの勝手な事情で吉田日出子といることが、修たちの立場をだんだん悪くしていく。修は吉田日出子といることを拒否する。亨は逆らい、吉田日出子とペントハウスをでていく。
 亨はそれなりにがんばるものの、ウナギ屋の前で腹を空かせる吉田を黙って見るしかなく、結局雨に濡れてペントハウスに帰っていく。
 吉田日出子は最初は清楚な服だったのに、自由な生活に憧れたせいか、いつの間にやら萩原の着ていた黒のだぼシャツにらくだ色の腹巻き、ズボンのベルトはヒモというスタイルになっていく。おかっぱ頭で年齢不詳な吉田日出子の姿はとても可愛いい。
 萩原は彼らのためにコロッケをたくさん買って待っている。しかしそんな態度をあからさまに見せない。眠ったふりをしてベッドで背を向けている。風呂にいくとき、コロッケをひとつふたつと持っていこうとする吉田に、まとめて持っていけ、まとめてという萩原は、これまでのやや印象薄い芝居に萩原印を付け加えて、視聴者の心をわしづかみにする。
 西村晃とともに刑事役をする船戸順がこの回でている。「自動車泥棒」「草原」以来三度目となる。西村の部下である設定。「草原」では触れられなかったが、綾部情報社に現れたとき、だされたコーヒーの砂糖壺を開けると、白ネズミがいるというちょっといま見てもゾッとなるようないたずらをされる。権力の犬ならぬ、身なりは白くて美しいがネズミはネズミということ。慇懃無礼に振る舞いながら彼を疎ましく思う綾部情報社、なかでも岸田森の意趣返しだろう。今回は砂糖壺に仕組みはしないが、岸田森と岸田今日子が話すところで、なぜか白ネズミがカゴのなかにいて、会話の流れを切って、白ネズミの目はなぜ赤いのでしょうか、と岸田森は問う。そして船戸が現れる。もちろん船戸あっての、白ネズミであるわけだが、「草原」を見てないものにはわからない。それとも尺の都合で切られた、あるいは撮影しなかったくだりでもあったのだろうか。
 物語は吉田日出子の叔父である男により、思わぬ方向に向かい、吉田日出子は天涯孤独の身となってしまう。 叔父役の田口計は悪役として顔を知られ、また父の恋人としてでてくる悪女は元宝塚のトップ娘役だった加茂さくら。ふたりとも味のある芝居を見せているが、吉田日出子の前ではかなわない。
 なにしろ水谷と泡まみれで風呂に入り、デストロイヤーのお面をかぶり、だぼシャツに腹巻きで歩かれては。 萩原、水谷、そしてだぼシャツ姿の吉田日出子は物語の終わりで、数寄屋橋の阪急に入り、買い物をする。
 これまでだったら欲しいものがあればなんだって買えた吉田日出子は、指をくわえてみていることしかできない。
 亨なら、吉田のためにちょっとくすねることもしてやるかもしれない。吉田の叔父のところで、一本いただけますかとお行儀良く煙草をもらったくせに、帰り際にはその目を盗んで、ごそりと持って帰った男である。亨は悪事に手を染めていつ落ちても不思議でない危うさを持っている。そうならないのは修の存在であることは間違いない。 だから高級品が並ぶ店内でつい手をだしてしまうのは亨ではない。三十にもなる歳で、ももひきみたいなパンツを履いていた、いや、履かされていた吉田日出子が盗ってしまう。それは高級品の並ぶフロアでなく、亨が喜ぶ下着売り場でのこと。
 店の外でちょっとと声をかける店員は、吉田日出子の腹巻きから盗まれたパンティを見つける。店のなかに連れていかれる吉田を見送る萩原と水谷。助けようとする水谷に、オレたちに人を助ける力を持っているか、といって止める萩原。こういったセリフは刑事ドラマで刑事役の主役や時代劇での正義の味方が訳知り顔にさんざんいったかもしれない。しかし萩原の言葉は、間合い、表情、声の高低が重なり合い、ドラマを百億光年先の星から届く光のように輝かせる。
 この回はもう一方の個性派女優ともいえる緑魔子がでた「悪女」と同じ、ヒロインを見送る修と亨の構図があった。「悪女」も良質な回だった。しかしこの回を見てしまっては「悪女」が過去に思え、またその結末さえこの回と同様な展開だったかと記憶してしまうほど強烈な印象を残して終わる。

14 母のない子に浜千鳥を  ーー傷だらけの天使的お年玉スペシャル編はわびしい正月を迎える

 放映は年が明けた75年の1月4日のこと。土曜日だから三が日を過ぎてもまだ正月真っ最中である。スペシャルプログラムといってもいい。お正月特別豪華お年玉号とも。
 ゲストは桃井かおり。いまなら十分豪華ゲストであるけど、当時人気が少しずつでてきているとはいえ、まだまだの頃。萩原との共演作「青春の蹉跌」のあと、病気でしばらく休んでいて復帰第一作ではあったが、一般の視聴者にどれだけ浸透していたか。
 それに豪華十大付録とかいって正月になればてんこ盛りのおまけをつける雑誌のようにするなら、ゲストをずらりと並べねばならない。それどころかいつものレギュラーの顔さえない。岸田今日子の不在はあっても、岸田森に、ホーン・ユキの姿さえない。岸田森は全26回中この回だけ欠席。市川の脚本には岸田森とホーン・ユキの出番は冒頭にある。しかしドラマはそこをきれいになくして、萩原が派手な正月飾りを持ち、暮れの街を歩く、少し長めのシーンに置き換えられている。
 実際の撮影は12月に入ったか入らなかった頃で、暮れの賑わいはそこにまだないはずだ。しかしこのシーンを見ると毎年繰り返される年の瀬の街の様子が伝わってくる。萩原の持つ正月飾りは、もうほとんど見られないものだし、あの頃だって少し時代遅れであっただろう。それを無造作に肩に乗せて歩く萩原がかっこいい。 スターは不在でも、今回は暮れの街、大晦日の夜、紅白歌合戦、除夜の鐘、雑煮、お年玉、たこ上げ、かんしゃく玉の遊び、そして獅子舞! までもでてくる。日本の年末年始の景色がずらりと並ぶ物語が語られている。
 千葉の実家に預けた健太のところに帰省することにした修は、正月をいっしょに過ごそうと酒やかまぼこを買ってきた亨を残して、ペントハウスをでる。
 しかし千葉の実家にいると思っていたのは修だけで、健太は死んだ女房の姉にいつの間にか引き取られていた。いろいろ文句もあるが、いつものようにキレることができない萩原である。身勝手なのは向こうよりも自分のほうだ。正月だからといって、日頃の無礼をなかったことに帰って来たことが恥ずかしい。
 正月の夢は怪しいものになっていく。
 つまり今回は豪華さに捨てられたものたちの話であるといっていい。
 雲行きの怪しくなった萩原は、黒いマフラーを忘れたからと水谷を呼び寄せる。健太を引き取り高級料亭「浜千鳥」をやっているという桃井の店に向かうことになる。亨は十五歳以来欠かしたことのない「紅白歌合戦」を浜千鳥で見ようとするが、テレビは壊れている。自動車の修理工だからと直す亨。
 テレビはつかず、除夜の鐘が鳴り響く。今年はいっこもいいことなかったよ、と水谷はドライバーを投げてすねる。あの頃は富めるものであれ貧しきものであれ、一年の終わりにはテレビの前で「紅白」を見て、ひとつになったのだった。亨はそんなささやかな儀式からもこぼれ落ちてしまう。
 桃井の店「浜千鳥」は最初なかなか見つからなかった。萩原たちは車で何度も明かりの消えかかる大晦日の町を走ることになる。なぜならそこは高級料亭でもなんでもない、カウンターがあるだけの小さな店だったからだ。
 桃井のかつての男は東京で美容師として成功して帰ってきたとやって来るが、じつのところはそれも嘘であることがバレる。
 みんな故郷に錦を飾ったような口ぶりでいて、じつは違う。正月の華やかさの向こうにある実像がここでも描かれている。
 かくいう萩原も、オレの本職はゆすり屋だと告げて、借金で困り果てた桃井のために一肌脱ぐことになる。
 風呂に浸かっていい気分の人気美容師面した男を、萩原は服を着たまま風呂に突入して襲いかかる。脚本では服のまま風呂に入る指定はなく、足を入れているだけだ。美容師男は服を着たまま風呂にどかどか入ってくる萩原に怯える。萩原がそう演じたいといったのだろう。
 萩原は風呂桶を片手に男を足で羽交い締めにして、男に桃井の借金のためにカネを払ってやれと迫る。男がふらふらになるばかりか、萩原ものぼせて鼻血がでるまでになっているのにつづく。
 また動きでいえば、萩原の走る姿も独特だ。ここでも千葉の実家をあとにするときに走る。手足がまっすぐでず、横に乱れているように見える。あんな走りでは遅くなるのではないかと思わないではないが、とても映像的で躍動感あふれる姿だ。「太陽にほえろ!」では新人刑事が必ず走るカットがオープニングタイトルで使われていた。萩原の走りはその後につづく新人刑事役の誰とも違う。見せてくれる。 萩原はアクション俳優ではない。しかし何度もいうように体の動きに見せ場を宿している。彼よりもずっとキレのいい身のこなしをするものはいただろう。でも萩原のような不格好さを宿した動きは彼だけのものだ。
 桃井かおりはどてらに和服に紺のセーターで現れる。小料理屋の衣装としての和服だが、大晦日は銭湯帰りでどてら、正月は和服、そして最後はセーター。時間の経過が見て取れるばかりか、日本の正月に咲いた隠れた花のように香ってくるような佇まいだ。 桃井と萩原はのちに「前略おふくろ様」でレギュラーとして共演し、桃井の人気はもうひとりの共演者川谷拓三とともに広く浸透していく。
 萩原と桃井は「青春の蹉跌」で家庭教師と不良娘として初共演した。勉強を教えに来た萩原の前で下着姿でいる桃井。萩原に、さあやろうかといわれて、なにを? と問い返すと、萩原はちょっと困ったように、勉強、と答えて顔をくしゃくしゃにする。萩原と桃井のやり取りは忘れがたい。「青春の蹉跌」を見たものは今回ふたりが並ぶとつい重ねて見てしまう。
 しかし病み上がりであったせいではないのだろうが、ふたりの共演はやや薄味である。これまでの「傷だらけの天使」を見た人が、桃井の名前を期待して見たときに、ヌードもなければ恋もない今回に物足りない思いを抱くかもしれない。
 けれど萩原は桃井との芝居に忘れがたいセリフを付け加えてくれる。自分の考えた悪事が萩原にバレた桃井は言葉も少なく顔も暗い。萩原は、なんとかいったらどうなんだ、とせっかちに詰めよっていく。そしてすべてがわかり自分がなんとかしようと決めたあと、笑えよ、笑えよ、あんた、笑ったほうがかわいいから、という。 字面だけでは魅力はほとんど伝わらないかもしれない。でも、この「笑えよ」や、「悪女」で緑魔子に向かって「(昨日の夜からずっと逃げていたから)おしっこまだ一度もしてないんだろ」というセリフとともに、萩原らしいセリフのひとつだ。「笑えよ」はよそで聞いたことがあるかもしれない。けれど萩原が広めたはずだ。ここのセリフは口説き文句ではないけれど、萩原のいうセリフで女とのしゃべりかたを学んだ男は多いはずだ。テンプターズで女性向けアイドルとして登場した萩原が、この頃には男性に指示されていくのはそういった側面も多分にあっただろう。「浜千鳥」は桃井の店の名であるだけでなく、童謡の「浜千鳥」から来ている。作曲は「春よこい」や「鯉のぼり」に「雀の学校」という大メジャーな作がある広田龍太郎。しかし「浜千鳥」はそれほど知られていない。いや、筆者の世代よりも前の人たちには愛唱されていたのだろうか。その歌詞は「親を探して鳴く鳥が」と、母を恋う子の気持ちが綴られている。
 作の市川森一は幼い頃に母を亡くしている。萩原に健太という母のない子をあて、そして健太のいる先に「浜千鳥」と名付けた心の奥に彼の気持ちがそっと込められているのだろう。
 故郷を母なるものといいかえれば、故郷に帰りたくても帰り着けない萩原はもうひとりの母を亡くしたもので、それはその頃の日本人の心情でもあったのだろう。 健太は「皇太子」と呼ばれて結局萩原が引き取り、水谷とともに町をあとにする。今回のラストはこれまで一度もなかった遠景カットで終わる。
 正月ならば派手でにぎやかなものをと期待するのを笑うように牧歌的だ。 放映も半分が過ぎた。低かった視聴率を受け、てこ入れ後のドラマが始まっている。子連れ探偵による人情喜劇に路線変更といったような記事を、当時の新聞で見た記憶が筆者にある。複雑な気持ちがした。視聴率と関係なく十分面白いと思っていた筆者は子連れと子持ちは大いに意味が違い、ひょっとするとぬかみそ臭いホームドラマっぽくなるのではないかと。予想はだいたいにおいてあたる。これ以降先の好調とは別人のような顔を見せ始める。もし高視聴率だったら、ますます弾けたことになっていただろうが……。 てこ入れは成功したのか。
 今回は他のレギュラーも不在だから、明確にはわからない。双六でいえば一回休みといった感じもしないではない。
 監督は恩地日出夫。恩地はロケ先での水谷豊の人気ぶりについて語っている。恩地はドラマ開始以前に監督して以来の登板である。そのときは萩原に野次馬は注目しても、水谷を見る人はいなかっただろう。しかしこの回のロケ地である湯河原では違っていたらしい。萩原は田舎だけのことだといって笑っていたという。しかしテンプターズで日本全国を巡った萩原自身がいちばんよく知っているはずだ、地方でそうならば、都会ではもっと凄いことになっていることを。

15 つよがり女に涙酒を  ーーこのドラマは探偵モノであるが、なぜか探偵らしくなると途端に面白くなくなる

 年が明けて第二弾。ゲストは松尾和子。「港町」でヌードスタジオのモデルをやった荒砂ゆきに、あんた松尾和子に似てるね、と萩原はいってる。
 松尾和子は萩原よりも十五歳年上。松尾はその頃40歳近く、人気は60年代初めにあった。当時の言葉でいうとムード歌謡の女王だった。レコード大賞を受賞するほどの人気を誇ったが、誰しも人気はずっとつづかない。しかしこのドラマの放映の頃、母であるのに性的な魅力を宿す熟女として大学生のあいだで受けて人気が再燃した。
 松尾を選んだのは、若者と大人を両方ドラマに引き寄せようということと、彼女に子守歌が似合うと見て、子連れ探偵である萩原の子を思う気持ちをクローズアップしようとしたのだろう。
 監督は前回につづいての恩地日出夫。同じ監督の「悪女」で緑魔子が靴をのかかとを壊して逃げたのと同様、今度も松尾は靴がらみで萩原と印象的な場面を演じている。同じ「悪女」がらみでもうひとついえば、終盤近くにでてくるプレハブの建った空き地に、「悪女」で使われていたフォーク・ナイフセットの入った段ボールが乱闘の小道具として使われているのが見える。
 今回は誘拐された子供を捜すため、萩原と水谷は駆りだされる。子供といっても思春期の男の子なのだが、ララバイ・ミツコという芸名を名乗る松尾和子とデートしていたのを級友たちに目撃されていることがわかる。ララバイ・ミツコが秘密の鍵を持っていると見た修たちは彼女が専属で歌うクラブに従業員として入って近づいていく。
 探偵といえばシーク・アンド・ファインド。これまでになかった明確な筋立ては路線変更の結果によるものだろう。 「傷だらけの天使」の本編は三つのパートに分かれている。最初に約20分、つづいて約10分、そしてまた約10分。タイトルを入れておよそ45分になる。
 三つのパートは物語の定型でいうところの序破急の形にすべておさまっている。簡単に述べると序は始まり、破はそこからの展開、急は結末となる。もちろん序の終わりは次のパートへの興味をつづけるものでなければならず、破に至ってもそうだ。
 序の最初の10分で物語がどのような話なのかや登場人物のキャラクターを巧みに描き、残りの10分で物語が転がりだして、序盤では思いもつかなかった形を見せて、さてどうなるかと破に向かっていく。
 推理小説でいえば最初に犯人だと思ったものがじつは違っていたとわかり、新たな謎がでてくるのが序の結末になるだろうか。「傷だらけの天使」のシリーズの前半はどの回もめまぐるしいスピードで序を描いていた。たぶんそんなところも当時の視聴者を置き去りにした理由だろうか。今回はララバイ・ミツコと萩原が話をするところで序が終わる。ララバイ・ミツコが怪しいことは見ているとわかる。さてどうなるかの期待よりも、ララバイ・ミツコと萩原の人情に傾いている。そのせいか、シーク・アンド・ファインドでいながら、のんびりとしている。
 ララバイ・ミツコに会うまでは、萩原が誘拐された信彦という名の少年を捜して同級生たちに声をかけるシーンがあって、次に水谷は信彦の同級生たちを連れてレストランに行き重要な秘密を聞きだす。
 シリーズの前半では修がつねに事件を引っ張っていき、あくまで亨は助手であった。水谷の人気を無視することができなくなり、彼も主役のひとりとしての扱いになってきている。そのためふたりの見せ場を用意しなければならず、物語はストーリーを描くよりも、キャラクターに寄り添い始める。スピードダウンの原因はそのへんにもあるのだろう。
 今回松尾和子と萩原はいいセリフのやりとりをする。しかしどこか上滑りであったり、親を持つ子供の愛が紋切り型であったりするように感じられる。子持ちといっても萩原は実生活ではまだ結婚していない。子を持つという設定はあくまで味付け程度である。その証拠のひとつとして前回最後で引き取ったかに見えた健太は再び千葉に戻されて登場しない。これまで同様写真や声だけの出演であれば、味付け程度の扱いが生きるけど、生身の動く健太を見せられてしまうと違う。
 亨は誘拐された信彦と気持ちを通じ合う関係になる。信彦が亨と同じ孤児だったとわかったからだ。亨は孤児であった過去を健太のようにまだあらわにしていないため視聴者に想像の、のりしろを与えてくれている。ふたりの関係に松尾と萩原のような違和感を感じない。
 この回は人情モノと探偵を組み合わせて、どっちつかずになっている。忘れがたいものにするならば、萩原はまず松尾和子ことララバイ・ミツコに歌を通じて惚れていて、彼女の歌う子守歌を自分にもそして母のない健太にも聞かせたいという一方通行の思いがあって、ララバイ・ミツコに事件の重要なキーとして会い、彼女の実像に触れていき、その夢が虚しく潰える展開なのではないか。
 そうすることができなかったのは水谷の見せ場も用意しなければならない尺の事情もあったのだろうか。 萩原が靴を壊した松尾和子をおぶるといういいシーンがあり、また本職の歌手である松尾和子が精魂込めて歌うララバイがあったのに……。
 しかし「傷だらけの天使」の魅力を修と亨の漫才ぎりぎりの軽妙なやりとりとして楽しむなら、今回も十分過ぎるほど楽しめることは確か。
 けれどそれだけではもうないことを、ここまで見て来たものはよく知っている。ただ、当時評判を聞きつけて見た初めての視聴者にとっては、これくらいがいい口当たりだったのかもしれない。視聴率は年明けより徐々に回復していったのだから。 

16 愛の情熱に別れの接吻を
  ーー萩原のように女を口説き、そして棄てたかった、テレビの前の若者たち

  ゲストは高橋洋子。桃井かおりがまだ知名度の点で物足りないものがあったとしても、高橋洋子は別だった。NHK朝の連続テレビ小説「北の家族」の主演であったからだ。当時のテレビ小説は一年間あった上に視聴率も高く、お茶の間での認知度はいまよりも格段に高い。高橋洋子は「傷だらけの天使」放映の前年にあたる73年の春から74年の春まで毎日テレビに登場していた。
 連続テレビ小説のヒロインは明るく清楚が一応の決まり。高橋洋子も同様のキャラとして登場したわけだが、いまの主演女優にもときどきいるように、番組出演後にもうひとつの別の顔、ひょっとするとそちらのほうがほんとうかもしれない顔を見せた。
 高橋洋子は熊井啓監督の「サンダカン八番娼館」で戦地の娼婦を演じて実力を示し、神代辰巳が「傷だらけの天使」のあとに撮影した映画「宵待草」でも好演した。「宵待草」は脚本が長谷川和彦で、音楽はまだ知られていない細野晴臣が担当している。同時上映は萩原のライバルといえる沢田研二の主演映画「炎の肖像」だった。この回は「宵待草」が公開を終えた頃にちょうど放映されたことになる。 高橋洋子は演技派というよりも雰囲気を持った女優だった。おおざっぱにいうと、この頃に現れたちょっとなにを考えているのかわからない現代的な少女で、もう一方の代表は秋吉久美子だったろう。ふたりはともに斉藤耕一が監督し、吉田拓郎の「今日までそして明日から」が印象的に使われた「旅の重さ」でデビューしている。斉藤耕一はといえば、萩原の実質的な映画デビューといえる「約束」の監督でもある。
 70年代は演技派であることよりも、感覚的、フィリーングといったもので称される芝居のほうが受ける時代でもあった。斉藤はフィーリングに傾いた俳優たちを使うことに長けていた。
 高橋洋子はそのフィーリングを大いに買われての今回の登板だったのだろう。ディスコでひとりぼんやりとしているやや場違いな女として現れて、萩原の一夜限りの相手になる。朝のホテル街でいつもやってるように女と別れたはずだったのだが、この女はいつものような女ではなかったというのが物語の展開である。
 萩原たちの仕事である探偵は高橋とは別にある。ホストクラブに通っていた女が行方不明になったことから、そのホストクラブに潜入することになる。萩原と水谷は前回につづいて夜の仕事に入り込む。萩原の相手をした女が殺されてしまう。殺したのは最初に行方不明になった女と同一の犯人か? という流れに先の高橋がからんできて……。
 テレビはいまとは格違いに大きな、情報発信基地であったと今回を見ていて筆者は思った。たとえば、もっと早い回で触れてもいいのに、なかなか触れぬままここまで来てしまったが、ペントハウスにある電話の下にある留守番電話の存在。こんなものを見たことは最近の若者はもうないだろう。これが留守番電話なのだと聞くと、手のひらにおさまるほどのスマートフォンのCPUが、かつては体育館いっぱいの広さを必要とするようなコンピューターに迫ると聞くのと同じくらいの驚きかもしれない。
 留守番電話に載った電話はプッシュ式で、綾部情報社も、会社の社長室も、すべてダイアル式。プッシュ式の電話はまだ夢のようなものであったのだから、留守番電話はもう夢の海外旅行というくらいの庶民にとっての高嶺の花である。このドラマで初めて見た人は数知れずいたはずだ。
 今回茶の間に登場した情報はホストクラブであったり、ディスコ、そして朝のラブホテル街である。どれも「傷だらけの天使」が初お目見えではないだろうが、お色気ドラマでも、刑事ドラマでもない、青春よりのドラマのなかでは珍しいものだ。
 ディスコはセットでなくロケだろう。最初に流れるキャロルの「ヘイ、タクシー」はキャロルの演奏でなく、プレイヤーは見えないが、ディスコの専属、ハコバンと呼ばれた人たちのものだ。楽曲が使えなくての処置かと思って見ていたが、キャロルの「ファンキー・モンキー・ベイビー」がオリジナルで流れるシーンもある。
 ホストクラブでは中条きよしの「うそ」がピアノアレンジでジャズ風味で演奏されていて、ジャズはペントハウスのラジカセからも流れている。
 萩原同様、ディスコから女をお持ち帰りする水谷だが、案の定やっぱりうまくいかない。水谷は萩原にその顛末をジャズの流れるラジカセを手に踊りながら話しだす。萩原もいっしょになって踊り、このコンビのデコボコぶりが冴え渡る。
 情報といえばもうひとつある。いや、こちらのほうがこのドラマのほんとうの情報だったといってもいいだろう。萩原の女の口説きと、別れのセリフと、自分勝手な振る舞いを女に詫びる態度だ。若者たちは得難い情報としてありがたく受け取ったに違いない。「傷だらけの天使」の魅力は萩原が正真正銘の憧れのアニキであったことにもある。どうしようもないスケベであるのに、いざとなればなにもできない亨は、視聴者の若者の姿だろう。視聴者はアニキのように女を口説き、別れ、また謝りたいと憧れた。
 亨は貧しいオカマであったのに、ここに来てかわいい亨に変貌していく。萩原の代わりにホストクラブに潜入することになった岸田森は子分として連れ込んだ水谷に、きみはいろんな姿が似合うね、とホスト姿をバカにする。岸田森はがちがちでマジメな芝居を辰巳五郎に演じさせる。水谷はバカを飛び越えてしまってかわいらしいおもちゃとなった亨を演じて年上マダムになついていく。
 修は子供を持つ親という大人の世界に足を突っ込んでいるのにいまだに女遊びをやめられずにいる。亨はアニキの擁護の元で好き放題を生きる子供である。若い視聴者は修と亨のあいだに挟まれて「傷だらけの天使」という夢を楽しんだのだ。
 高橋洋子は萩原との一夜限りの思い出を忘れられず、乱暴で狂気に満ちた行為を繰り返していく。ホストで萩原の相手をした女を殺したのは高橋だった。
 今回のテーマとキャストが前半のテイストとテンションに包まれていたら、この回も名作の殿堂入りに近づいていたかもしれない。
 脱ぐことを厭わないはずの高橋洋子は長い髪のあいだからコアラみたいな白い顔をだすだけで、どんな風に萩原に抱かれたかを見せてくれない。高橋が拒否したと思えないので、プロデューサーサイドの要請だったのだろうか。神代監督作の「港町」ではいきなりのセックスシーンがあった。それがお茶の間に拒否されたという指摘もあり、避けたのだろう。 監督の鈴木英夫は「金庫破り」で冴えた腕を見せてくれたので残念だ。彼の得意とするセミ・ドキュメンタリータッチはディスコと朝帰りの様子にうかがえるだけ、よけいに……。
 高橋と萩原がどんな夜を過ごしたか、少しだれでもあればまた違っていただろう。そこがすっぽりないから、世の中にはこういうヘンな女もいるんだなという勘違いを視聴者にされてしまう終わりになってしまっている。あるいは萩原はもう少し真剣に女を愛すべきだという感想に。
 情報発信でいえば、岸田森が水谷とともに、鍵を偽造する際に見せる秘密兵器は、こういうものがあるんだとまるでスパイ映画を見るようでもあった。
 萩原と水谷のイキのあった芝居がなければしんどいところのある回だ。しかしそれを番組との別れにしないのは、ジャズで踊る修と亨の振る舞いがあまりにおかしいからだ。このやり取りは番組終了後の夏に萩原の実質的なソロデビューシングルとして発売された「お前に惚れた」のB面「兄貴のブギ」で聞かせてくれるふたりを彷彿させる。
 年が明けてから視聴率が良くなっていったのは番組の路線変更もあったのだろう。それに加えて、年明早々に発表された萩原の「キネマ旬報」の主演男優賞受賞もあったのではないか。あのGS上がりで、感覚的な芝居をする若者が、日本でいちばん権威ある映画雑誌で主演男優賞を得たというニュースは、いまならアカデミー賞に選ばれるくらいの衝撃だったからだ。

17 回転木馬に熱いさよならを  ーーおまえの好きなビジネスとはこれか、と天使は静かにいう 

 この文章を書くに至った動機のひとつに「傷だらけの天使」が中盤から表情を変えていくその顔をよく見たいのもあった。また「偽札造り」の回でもいった、もしこの回から見てしまったら魅力に気がつかぬまま、あるいは誤解したままとなり、見るのをやめにしてしまって欲しくないための、手引きを書かねばという使命感もあった。
 今回は「地雷」のひとつにあたるかもしれない。しかしこの回は全体の出来が悪いのに、いやそれだから萩原たちががんばったのか、「傷だらけの天使」を語る上で見逃せないシーンや、やりとりがあって、単純にスルーするわけにはいかないのである。 遊園地が舞台で、ロケ地は「多摩川園」。経営不振がドラマ内で語られるように放映数年後に閉園していまはない。 萩原と水谷は遊園地の従業員として潜入し、園を運営する社員たちを煽って騒動を起こそうとしている首謀者を突き止めることになる。
 探偵らしいといえば探偵らしい。いくつかあるパターンでいえば潜入ものとなる。しかし前回もそうであったようにうまくいかないことが多い。成功する例は、萩原が犯罪者ぎりぎりの体で渦中に突っ込み傷だらけになって逃げまどう場合だ。 今回は遊園地なので、やはり傷だらけになる要素は少ない。
 事件の首謀者は今回もすぐにわかる。視聴者は萩原に推理を求めるわけではない。修や亨には似合わない。けれど犯人が誰なのかということが、驚きや悲しみで視聴者に届けられていたら、全体の印象はかなり違ったものになっていただろう。 事件の中心にあるのは、会社内での恋のさや当てである。よくあるものだ。しかしそれはまだいいとしても、結末自体が親と娘の話におさまり、ホームドラマ的になるので、全然「傷だらけの天使」っぽくないのだ。
 前回に引き続いて監督は鈴木英夫。井上堯之バンドの楽曲は二カ所で流れるだけ。またその一カ所は名シーン三十選があれば入るかもしれない出来であるのに、あろうことか同じ曲を修と亨がいないところでもまた使ってしまうので、ちょっとうまくない。たとえていえば「傷だらけの天使」のあのテーマ曲を縁もゆかりもないCMやバラエティのBGMとして聞いたような違和感を残すのだ。
 鈴木英夫の問題でなく、脚本やスケジュールのせいもあるのだろう。なにしろ鈴木英夫はあの「金庫破り」を撮ったわけだし。スケジュールはだいぶ押し、また予算もかなり逼迫していたのだろう。 萩原と水谷はまるで現場で時間待ちをしているときに交わしている会話のようにふたりを演じている。
 サボタージュという言葉がでてきて、中学中退の亨はよくわからない。この言葉の他にカタカナ語は彼らにとっては馴染みのない世界だ。「ヌードダンサー」で岸田森がいう、アンニュイを修は知らず、「ピエロ」ででてくるジェラシーを亨はうまく発音することができなかった。
 そのくせ萩原は前回今回とナイーブを使う。これはなぜかというと、萩原の主演男優を取った演技は現代の若者を代表するナイーブな演技と評されたからだろう。ナイーブは日本語に置き換えがたい意味をもっている。いまではたいていの人は知っているけれど、当時はサボタージュやジェラシーと同じかそれ以上に意味深そうでありがたい感じのするインテリ臭のある外来語だった。前回でのナイーブはドラマ上の必然で、一夜限りの女と夜をともにした自分を語るための、わかったようなわからないようないいわけだった。今回はほとんど遊びの域での使われ方をしている。
 前回で言及した「兄貴のブギ」のなかで萩原と水谷が曲の合間に兄貴と亨を演じてみせるやり取りである漢字の元ネタが今回でてくる。
 わけあって初めて報告書を書かされることになった水谷は、先導という字が書けず、萩原に訊くと、センドウとカタカナで書いてごまかし、漢字はおまえのほうがよく知ってるでしょ、といわれる。先生の先だね、という水谷に、戦車の戦でもいいんだよという萩原。
 同じ「兄貴のブギ」にでてくるゲイバーのポンタは「母のない子」にて水谷の会話ででてくる。いっしょにお正月を迎えたいという水谷に、おまえの女友達と迎えろ、と萩原がいい、その女友達が、女装した女友達で、女装したまま田舎に帰るというオチになっていく。
 報告書を届ける水谷は、岸田森が児童公園の階段の手すりを滑り台にして無邪気な顔で遊んでいるのを目撃する。また水谷は岸田森以上の無邪気さで遊ぶ様子を見せてくれる。
 裸がなくても傷だらけになってしまう状況がなくても、十分に面白いのは面白い。
 さらに報告書を偽造した岸田森を萩原と水谷が追い詰める場面があり、ここが先に触れた名場面のひとつ。こんな事務所はもうやめてやるといい、おまえの好きなビジネスというのはこれか、とカネさえ入るなら何だってやる岸田森を冷ややかに罵倒する。
 このあと、あっさり岸田森が翻意するのは物足りないが、事実をぶちまけたことは気持ちよかったでしょという水谷に、カネをもらえばもっと気持ちがいいよ、とあっさり感を補う捨て台詞を吐いて巻き返してくれる。
 いつも血まみれになったり、女に惚れては女を最後に殺してしまっていたりでは、いずれ刺激はなくなりパターン化していくことだろう。今回のような子供の楽園を夢見る理想を持った遊園地職員と社長が、敷地を売却して金儲けに走ろうとする社員の悪巧みを暴く物語もあっていいだろう。でもちょっとよくある話で淋しい。「傷だらけの天使」はこんなものではないのだ。 遊園地の社長を演じるのは中原早苗で、深作欣二の夫人。ということは本物の健太の親である。健太という名を持つ萩原が子供の話を中原としながら回転木馬に乗るのは面白いといえば面白い。
 どうでもいい小ネタをいえばヒロインとして登場する江夏夕子は後年目黒裕樹の妻になる。目黒裕樹は松方弘樹の弟で、松方の元夫人は仁科亜希子(明子)。今回見ていて気がついたのだが、江夏夕子は仁科にどことなく似ていて兄弟ともに似たような顔立ちの女性が好きだったんだなと思った。
 また悪巧みする専務役の福田豊士は、りんごをかじると血がでませんかのフレーズで知られたデンターライオンのCMの俳優である。
 タイトルにある「回転木馬」はいいとして「熱いさよなら」はよくわからない。社長がラストでやめてしまうからだろうか? ちょっとこじつけっぽくもない気がしないではない。「回転木馬にりんごの血を」では、冗談にしか響かないか。つまらないときは冗談しかでないのは萩原と水谷、岸田森といっしょかもしれない。

18 リングサイドに花一輪を  ーー当時のドラマのアベレージでは修たちの世界級のKO負けか?

 今回は「港町」や「ヌードダンサー」系譜の、男に惚れて脱線パターンのひとつにあたる。ボクシングジムの立ち退きを狙うものたちの手で修たちはジムに送り込まれて、ジムの評判を落とす使命を負う。そこで出会った熱血トレーナーの中谷一郎に萩原は惚れ込み敵方に乗り込んでいく。
 久しぶりに乱闘して傷を負う修が登場する。しかし傷の具合は驚くほど軽い。規正でも入ったみたいに萩原の生傷が減ってしまっている。
 自分の夢をボクサーに託すトレーナーである中谷一郎は胆石の痛みをこらえてインチキ医者から買ったモルヒネを打ち、かわいがるボクサーのタイトルマッチに賭けている。
 村田秀雄の「人生劇場」が流れて、義理と人情を描いているわけだが、心に迫ってこない。「港町」や「ヌードダンサー」もかなり無茶のある展開で物語としては破綻しているのに面白くなかったという印象は残さなかった。
 今回も「地雷」かもしれない。
 水戸黄門の風車弥七を演じた中谷一郎に池部や室田の迫力が備わってなかったのだろうか。ボクシングトレーナーという役柄がうまく合わなかったのだろうか。ボクシングジムはバンタム級王座でお茶の間でも知られたファイティング原田が経営するジムで撮影されているから本物である。
 中谷に萩原がスパーリングででもズタボロにされて反抗心を宿らしながらも、その腕に惚れ込んでいくというくだりでもあれば違ったのだろうか。
 かわりにあるのは亨が通りで打ったケンカに巻き込まれた萩原を中谷一郎が注意する場面。
 そして修と亨がジムで牛乳とあんパンを食べて叱られる場面。オープニングタイトルにある牛乳シーンがいよいよ本編で登場するからファンにはたまらないシチュエーションだが。萩原はあの特徴的な瓶をくわえて蓋を開ける技を見せるが、オープニングタイトルのようにはうまくいかない。オープニングタイトルは成功したのか、それとも開けやすいように仕込んであったのかどちらか。そんなつまらないともいえる小ネタに心を奪われてしまう。
 他にも内輪ネタはあって、筋がいいと見込まれた亨はドラゴン亨となってボクサーになろうかとバカな夢を見て、新御三家よりも人気者になると吹くところで、どれだけ人気者になってジュリーさえ追い越してもオレは無理だろうと萩原は笑う。 前回にも内輪ネタはあった。渡哲也の曲を聞く萩原に、アニキもまた歌えば、と水谷が薦める場面だ。 出来がよくないときは内輪ネタが増えてしまう。
 岸田森と萩原の軽いぶつかり合いもある。このあとの回で「また浪花節かね」と辰巳五郎が修にいう背景はこの回から来ていて見逃せないといえば見逃せないが。 他にも、水谷が乱闘を起こしてジムの評判を落とそうと企てたとき、ケンカに巻き込まれてカバンで殴られる萩原は、カバンが痛いといって叫ぶ。威勢の良かった萩原との落差がいい。
 中谷一郎の横で酔った挙げ句におしっこをもらしてしまうなんて萩原以外に誰がやってくれるだろう。
 水谷が再び乱闘をするのは渋谷の歩道橋で、警察が追いかけてくるところは、「自動車泥棒」での萩原と警察との逃走シーンを軽く思いださせるし、あの事件で初めて新聞に指名手配写真として載る萩原同様、水谷もついに新聞に載る。しかしそれはケンカを売った相手がスリの犯人であったことからのお手柄記事であり、コアなファンにはくすりとなるオチかもしれない。
 早朝の迎賓館や代々木公園でランニングをする萩原と水谷の姿も見られてほんとうに見逃すには惜しい。
 初放映のときに見ていた筆者はそれなりに楽しんだ覚えがある。ただガツンと来るような衝撃はなく、次に期待してテレビのスイッチを切ったはず。こういう回があったからこそ、やがてやって来る衝撃は深いものになったのだろう。
 70年代当時、そしてその後のドラマの多くは、だいたいこれくらいのアベレージであったのだ。
しかし次回いよいよ息を吹き返すことになる。

19 街の灯に桜貝の夢を
  ーー人気者になっていく水谷への贈り物的名作の登場

 メインライターの市川森一が書いた回である。
 放映終了からおよそ8年後に市川が書いた「傷だらけの天使」の脚本をまとめた本が発売された。
 市川が第一回の向田邦子賞を受賞したこと、先輩世代である倉本聰や山田太一の脚本集が書籍として成功したことなどを受けての刊行だったのだろう。
 市川が書いたのは8本で、シナリオ集では今作はシリーズ七話目に位置して置かれている。しかし実際の放映では今回のあとに「渡辺綱に小指の思い出を」がある。どういう理由なのかわからない。脚本集として物語を楽しめるように配慮されたのだろうか。
 このシナリオ集は表紙を大橋歩が担当している。ふたりの若者が大橋らしいタッチで描かれている。大橋歩といえば「平凡パンチ」の表紙を創刊の1964年から1971年まで担当していた。若者風俗という点での起用だったのだろうが、テレビを見たものにとってはイメージが違う。ちなみに番組内では「少年サンデー」が何度か登場している。
 今回の主役は水谷といっていい。水谷が中心となる回は萩原が不在だったからと思わせる回であった。しかし今回は水谷が正真正銘の主役である。最後まで持つかどうかわからない不安材料だった水谷が立派に成長したばかりか、萩原をも凌ぐ人気を獲得しつつあることへの市川からの贈り物的一作だ。シナリオ集の位置もそのことと関係があるのかもしれない。
 ゲストは関根恵子(高橋恵子)。「太陽にほえろ!」で萩原とも共演し、萩原殉職後に登板した松田優作のGパン刑事と恋に落ちる役を演じた。映画では豊満なヌードを惜しげもなく披露し、当時の若者たちを魅了した。しかし今作では肌の露出がない。桃井と同じといえばそうだ。しかし十分に視聴者を引きつけて放さない。 まず、関根が自分のヒモ役を演じる水谷と交わすやり取りがいい。関根は物語が進むにつれて衣装や化粧が変わっていく。彼女の心情をうまく現していて、飽きさせないのだ。
 関根は、精神的なホモ、と市川にいわれている亨に対してぞっこんである。岸田森は、油臭いヤングに惚れるような女はひどい顔だろうと笑う。それが美人なんです、と萩原も素直にいう。それくらい驚きは大きい。
 亨は、川崎のうす汚い工場にいた彼女を見つけて、亨の馴染みの風俗店に彼女を紹介して、店でのトラブルに一役買いながら、彼女を立派な風俗嬢に育て上げていったらしい。「兄貴のブギ」でのセリフにでてくる「ゴールデンボール」という店の名前も登場する。
 亨にとっては女がどういう境遇であれ、自分が世に笑われるヒモという身分であれ、大出世である。
 物語はそのヒモ道を説くヒモ仲間が登場するところから始まる。阿藤海(快)に、大口ひろし(広司)が寿司屋にいる。亨も彼らと同様、女の仕事が終わるのを待っている。阿藤が誰かを知る人は当時ほとんどなく、また大口ひろしは萩原とともにPYGに参加し、初期井上堯之バンドのメンバーであり、後年園子温の「愛のむきだし」で主人公に盗撮の技を教える怪しげな男を演じた。
 ヒモ仲間の前でヒモの極意を吐き捨てる水谷はとても彼らしい芝居だ。次の場面での関根とのやり取りで見せるほんとうは情けない姿も水谷らしい。しかしこれは萩原が健太のことを話す芝居の間合いにも通じるところがあり、水谷がいなければこういう役柄も萩原が魅力的に演じただろう。そこを水谷が奪い始めたのかと深読みしたくなる。
 ホステス勤めではたいして実入りがなく、店の一軒でも持っていっしょになりたいとふたりはいい、最近現れた絨毯バーと呼ばれるものに手をだすことにする。絨毯バーはマンションの部屋を店に見立てて客に特別なサービスをする店である。
 亨は修のいないところで、オレにはアニキというやっかいな荷物が背中にのしかかっていると調子に乗っている。そんなことなど露知らない修はペントハウスを絨毯バーにしてやり、亨とともに客引きを始める。
 ペントハウスは女子大生の部屋として模様替えされて、パンダの親戚じゃないのと水谷がいうスヌーピーのぬいぐるみに、ディズニーの目覚まし時計が並び、カーテンも壁紙もかわいいものに一新されてしまう。
 ここまでの展開では、綾部情報社の仕事や事件の匂いはない。街の雑踏や駅の地下道で客を引いて次々とペントハウスに連れ込んでいく様子が語られていく。夜間撮影がいまよりずっと困難だった技術に映された夜の街やゲリラで撮られたと思われる新宿の地下道のシーンはドキュメントのようで生々しい。七階以上あるペントハウスのビルはエレベーターがないようで階段を何度も上がる。客を連れて階段を歩く場面が繰り返してでできて、ペントハウスに見ているものも案内されている気持ちになる。 裸も謎もないのに見ているものを飽きさせない。
 店は繁盛して昼も夜もの営業となり、最近ではふたりでひとつのベッドで寝ている修と亨は寝る場所をなくして綾部情報社のソファーで眠ることになる。
 綾部貴子はソモア諸島に旅行中で、現地の男たちの原始的なもてなしが気に入ったと絵はがきを送ってきていて不在。綾部が持ち主できみたちにタダで貸している部屋を又貸しするとはどういうことだと辰巳五郎は怒り、彼らにある悪巧みを持ちかける。
 火遊びめいた出来事は徐々に別の様相を帯び始める。
 これまでたいがいギャラは20万。今回は破格ともいえる100万。これは綾部貴子を通さなければ、この価格になるということかと勘ぐりたくもなる。
 修と亨はペントハウスの窓の外にカメラを置いて、客の盗撮を準備する。ペントハウスの外の様子と、ビルの外の景色が見える。あの頃の代々木西口周辺にはまだまだ民家があり、ビルは少ない。近くを走るが、それほど聞こえるはずのない電車の音はペントハウスのシーンには必ず流れている。あとからかぶせた音だろう。その音はオープニングタイトルの冒頭でテーマが始まるときにも聞こえている。もうひとつの「傷だらけの天使」のテーマともいえる。
 カメラ設営で見せる萩原の水谷をからかう様子はたぶんアドリブで、こういうことをいわせてもほんとうに萩原はうまい。マジメな顔をして冗談をいい、眉を八の字にして照れてみせる。
 もちろん彼らの企みは思いがけない方向に向かっていく。今回の萩原は脇に徹しながら、抑えるところは抑えた芝居をキメてくれる。
 弟分の幸福を願うアニキである。特攻隊上がりの空手の名手にコテンパンにされた水谷に湿布を貼ってやる。ねぎらう言葉もなく、仕事の話をする岸田森に、そんなことよりありがとうといってやればどうなんだと修がいう。水谷を叩き、罵倒しても、ほんとうはやさしい。
 やがて冒頭からあった亨が女にモテるはずがないという疑りと驚きは予想通りの場所へと向かっていく。
 関根と水谷のやり取りは最初の小料理屋と、ペントハウスで荷造りをするの二カ所。後者でのふたりは数ある名シーンのひとつとなってもおかしくない。
 関根が他の相手に心変わりをし、イヤがる水谷に、あなたにはアニキがいるじゃないといわれる。水谷は、男同士でどうするのよとベッドの横で顔を埋める。これこそが我々が見たい亨の姿である。
 けれどここで流れる井上堯之バンドの楽曲が、だだ漏れのように使われてしまって、せっかくの芝居に屋上屋を重ねるごとくの押しつけがましさとなっているのが惜しまれる。
 さらに音の選曲ミスはラストでもある。最後の最後に流れた音がまた違えば、この回の印象は大きく変わったのにともったいない。選曲の鈴木清司がいないことが大きく響いたのだろうか。
 リミックスでもできる機会があればなんとかしてもらいたいといいたくなる。 前回でも思ったが、サスペンスやスリルを主としたテレビドラマシリーズはここで悪いことが起きますよ、怪しい雰囲気ですよという場面では必ずそういう音楽が流れて、ときにそれらがしつこく多用されて、また来たかと辟易することがある。映画と違って、ながら見されるテレビだから仕方なく、テレビはセリフで語り、映画は映像で語るという文法の違いがある。
 毎度違う楽曲を用意したりできないのがテレビであるのは仕方ないけど、必ずしも音楽がその場面に合わないこともある。まあこんなもんだろうとアバウトに使われていたりすることもある。そんなうるさいことをいうなといわれるだろう。ビデオ化されて何度も視聴されることなどまったく考えになかった時代の産物だ。それゆえときにはソフト化された画面にぼかしが入るようなことが起きていたり、肌の露出を隠すために着た肉襦袢が見えていたり、ときにはスタッフが映っていたりもしている。それはそれで別の味でもあるのだが。
 楽曲の位置と選曲をくだくだいってしまうのは、関根恵子がかわいく美しかったからかもしれない。もっと多くの人を有無をいわさぬ完成度でうならせて欲しかったと思うのか。
 タイトルにある「桜貝」とは倍賞智恵子の歌った「さくら貝のうた」から来ているのか。
 市川の脚本集のなかの修と亨のセリフのやり取りは、萩原と水谷の演技よりも説明的でいかにもチンピラといった口ぶりをしている。発売当時に驚きと喜びのなかで手に入れてページを繰った筆者は自分の知っている「傷だらけの天使」とは違うように思った。いまならまた別の思いを持つのだが、セリフとト書きが並ぶ脚本だから、間違い探しの絵を見るように見てしまうのは仕方ない。
 脚本ではセリフが説明的になる部分も必要で、役者の肉体を通すとその説明がいらなくなることもある。 萩原は常にセリフを肉体化して自分のリズムと語法に置き換えていっている。
 放映がつづくにつれてそのあたりの生理を理解した市川は、回を重ねるごとに、おそらく彼らならこういうシャレをいうだろうというセリフを付け加えている。 たとえば今回特攻帰りの男が空手の名手だったので、あのブルース・リーが、という蔑称が書かれている。「金庫破り」で小松政夫を、あのアグネス・チャンめ、と萩原が呼んだことからの連想だろうか。しかし萩原は使わない。小松政夫をアグネス・チャンと呼ぶことの面白さに較べて劣ると見たのだろう。天性の勘はダダ漏れを起こさないのだ。
 また萩原が水谷に最後にいうセリフは脚本にない。ただ慟哭にむせぶ亨に修は抱いてやるだけだ。あえてそのセリフはここに書かない。
 音楽の使い方にまでぐだぐたいってしまう筆者がいるのは萩原のそのセリフとも呼応する。「傷だらけの天使」に教えられたのだ、亨が修にいろんなことを教わったように我々も。

20 兄妹に十日町小唄を  ーー1975年は2012年と同様不況にあえぐご時世だった

 復調の兆しを見せた前回だったが、今回はどうだろうか。結論を先に述べると、調子はつづかなかった。
 修と亨が調査員として足で稼いで情報を得るパターンは、このドラマにはほんとうに似合わないのだろう。今回はペントハウスのまえに捨てられた赤ん坊の親を探すため、綾部情報社を巻き込み、探偵稼業が始まっていく。
 チンドン屋をアルバイトでしているというふたりは、不況でカネがないからだが、綾部情報社もたいしてカネにもなりそうにない、また恩を売る汚いビジネスが潜んでいるわけでもない、捨て子の身元調査をやるくらいだから、だいぶ羽振りがよくないようだ。
 ゲストは渡辺篤史である。建物紹介番組やテレビのナレーションで知られるが、当時はテレビドラマで活躍する、なくてはならない存在のひとりだった。坊主頭という、いまと変わらない風貌で、新潟から妹とふたりででてきた苦労人の兄として寿司屋の板前をしている。
 萩原とのからみの場面は大きくわけて二カ所ある。特に後半のやり取りは萩原印のついた名演で、いいたくないけどいわせてもらうけどな、のセリフが耳に残る。「傷だらけの天使」が忘れがたいドラマとして多くの人に残ったのは、萩原のセリフにもある。その好例がここで聞ける。しかし名場面というには頼りなくなっている。渡辺篤史にやや迫力がないというか、脚本での彫り込みが足りなかったからか、もっといいシーンになっていたはずなのに惜しい。
 萩原と渡辺そして、妹役の伊藤めぐみは、ずいぶんと親しい間柄だったという設定である。
 渡辺が伊藤とともに上京することを回想するくだりで蒸気機関車が雪のなかを走る、おそらく他で使われた撮影部分からの転用である。ここで予算が潤沢なら兄妹が列車内で肩を寄せ合うシーンがあっただろう。それほどリアリティのないただの点描ならあってもなくてもいいけれど、ここで安易に過去の兄妹を出さなかったからか、萩原が伊藤の高校卒業のお祝いに頬にキスしたという回想にプレイバックがないのも、この回はそういう造りとなっていますのでと納得できる。しかしラストに再びよそからの転用と思える雪の新潟のカットもあるので、できうることなら回想を入れたかったのかもしれない。
 そういう代わりとしてではないだろうが、冒頭いきなり時代劇で始まる。チンドン屋をしていることから来る夢オチなのだが、萩原、水谷、岸田森が、白塗り、バカ殿、岡っ引きといった姿で時代劇のセットを走り回る。レアといえばレア。しかしこういうシーンもあるのですよ、というくらいの珍品で、あの「傷だらけの天使」としては相当に物足りない。
 監督児玉進は「リングサイド」「非常の街」「ピエロ」と撮り、「非常の街」は心に残り、またこのあと二本を監督するが、どれも不調が嘘のような快作として仕上げてくれている。うち一本は今回と同じ篠崎好なので、脚本のせいともいえないし、回想をうまく使った回も登場する。
 伊藤めぐみは、いまは忘れられた女優であるけれど、当時のドラマを見ていた人ならば、一度は見たことのある魅力ある女優のひとりだ。同じ俳優の夏夕介と結婚を機に引退し、娘は宝塚で愛花ちさきとして活躍してて、美しさは母ゆずりである。
 捨て子の親は誰かというのはすぐにわかり、またその理由もあまり驚きがなく、悲しみもない。十日町小唄や浪曲子守歌が流れるけれど、とってつけたような使い方で、今回も井上堯之バンドの曲はやや押しつけがましい使われ方をされていてかわいそうだ。
 二十六回もドラマがあると最初に撮った曲だけでは苦しくなってくるのだろう。かといって新しく撮る予算も時間もないから仕方ないのだが。
 そのなかで萩原が「憧れのハワイ航路」を歌いながら赤ん坊にミルクをやるシーンはいい。水谷もやりそうなことだが、萩原がやるとかっこ悪さがかっこよく見える、彼だけの芝居になる。水谷がやるとかっこ良さはなく、おかしくてかわいいが勝つ。ふたりの個性の違いだ。
 あっけなく女が死んでしまうことの多い「傷だらけの天使」であるが、今回もそうなっていく。男の勝手な振る舞いで泣きを見るのはいつも女ということか。いまなら、男の幼児性を慰撫するために女をだしにして涙を誘う構造といってフェミニズム筋からは批判も来るかもしれない。
 前回関根は女子大生であることを売りに男を誘った。今回伊藤めぐみは兄の仕送りで女子大生として勉強に励んでいるはずだったのが道をはずしてしまったという設定だ。女子大生であることがいい意味でも悪い意味でもとても重要な記号だった時代である。
 筆者は男で、また思春期にこのドラマを見たため、ドラマの世界観に違和感は持っても批判の視点は持ちにくかった。女の人が見るとこのドラマはまた違った風に見えることだろうなと思う。
 今回も「地雷」かもしれない。しかしこの回にあるいくつかの要素がのちの回に大輪の花を咲かせる布石となる意味で見落とせない。
 最後に転用つながりでいえば「リングサイド」ででてくる店と今回の渡辺篤史の店の寿司屋は同じ店構えである。今回に限らず、アパート、マンションは同じセットを利用していることが多い。あまり細かいことを気にしない時代であったことも理由のひとつだろう。


21 欲ぼけおやじにネムの木を  ーーバランスを欠いた天使はゼロ戦となり現代の空も撃つ

 久しぶりの工藤栄一監督の登板で、ここから残り六作となるうち四作でメガホンを取っていく。
 今作は「仁義なき戦い」やたくさんのドラマで悪役を演じた内田朝雄がゲストである。
 工藤と内田という武器は揃い、ベストエピソードに名を連ねてもおかしくない。しかしそうならなかった。
 内田はラバウル航空隊の生き残り上等兵で戦後に巨額の財を築いたが、いまではすっかりボケてしまった老人を演じている。認知症もアルツハイマーもこの時代にないので恍惚と呼ばれている。それは有吉佐和子が書いた小説「恍惚の人」が由来で、森繁久弥により映画化されて小説ともどもヒットして流行語ともなった。
 戦争の生き残りといえば「港町」の池部良が思いだされる。もし今作が前半のテンションで撮られて、萩原か水谷よりのどちらかに焦点を絞って、岸田森のコミカルさを控えてクールに徹していけば、同じテーマと結末でもずいぶんと違った印象となり、ラストの「ラバウル小唄」が胸に迫り、視聴者の心に深く残ったと思える。
 ボケてしまって内田が持っていた隠し財産のありかを探ることになるのがストーリー。やや唐突に萩原が戦線を離脱するように見えて、結局は萩原も加わることになり、対内田がふたりに分散してしまう。萩原か水谷一本で、対内田を描いていれば、内田のほんとうの悲しみはより深く伝わっただろう。亨のキャラでは荷が重いから、修が引き受けたほうがいいだろう。
 内田の家のお手伝いさん役としてでてくる千うららは「コアンドル洋菓子店」の蒼井優をまるまると太らせたみたいなしゃべりで、ペントハウスの風呂に入るシーンまである。どう見たって美しくないけど、萩原はお約束的に千うららの入浴を覗こうと必死になる。
 内田の隠し財産をいっきに手に入れて、そのカネを持ち逃げする夢が膨らむところの脱線はいかにもな感じの「傷だらけの天使」。
 あろうことか岸田森までも抑制のないコミカル演技に加わり、自己パロディを起こし始めているように見える。岸田森が亡くなったとき、勝新太郎が弔辞を読んだ。そこにはこういう言葉がある。「つまらない 本当につまらない役を研究した結果もっとつまらない役にしてしまったり……」と。
 内田は掃除機のホースを高射砲に見立てたり、掃除機のヘッドを回してゼロ戦のプロペラを模したり、芸が細かい。でもどこかすべってしまっている。
 結末で明かされる展開に対して萩原たちがとる行動は、えっ? これが我々の見て来た「傷だらけの天使」かといいたくなるほどの意外さで、陳腐にも見える。しかしそう思ってしまうのは、あるいはミスリードさせられてしまうのは、それまでの演出の悪ふざけのせいではないか。萩原たちは内田のまわりをゼロ戦の真似をしながら射撃する。おまえのような男は戦争中に死んでいればよかったんだという暗喩かもしれない。先の演出や芝居、そして音楽の選曲がうまくいってれば、名シーンになっていたかもしれない。
 そしてその次に内田が子供たちと撮った写真を見る場面になる。そこで彼の、そして作り手たちの秘めたメッセージが現されているように思える。カネばかり欲しがる自分たちの息子や娘を持った戦争世代の親の悲しみが滲んでいる。
 ラストでは、新宿西口の高層ビルを背景に千うららが去るのを見送ったあと、萩原と水谷は「ラバウル小唄」を歌いながら手で飛行機の真似をしながら歩く。内田の思いは萩原たち戦後世代に届かぬままである。せめて萩原、修にだけは届いてくれればとも思うし、きっと届けるつもりで「ラバウル小唄」を歌わせたのだろう。 タイトルにある「ねむの木」は俳優で歌手だった宮城まり子が肢体不自由児のために始めた「ねむの木学園」にあり、「ねむの木の詩」というドキュメント映画がこの頃ヒットしていた。社会からこぼれた人という意味合いで、老人の話につけたのだろう。 老人問題がずっと深刻になりつつある現代の目で見ると、ただ笑うにはすませられないところもある。それは戦争の影よりもずっと深いものだ。 内田の芝居はやり過ぎのようにも見えるが、おそらく本物のボケた老人をたくさん見ているのだろう、いまの目で見ていても的確に映る。それだけにもっと掘り下げた造りがあればよかったのにと……。
 冒頭水谷と千うららはバスで順番を守らない男に因縁をつけられて、水谷は傷だらけになる。バスで順番を守らない人はいまも、たぶん昔だっていただろうけど、おそらく戦後世代の無責任な子供と大人の姿として組み込まれている。それが内田が見る写真と響き合っている。
 内田の子供として登場する亀渕友香はニッポン放送で「オールナイトニッポン」のDJを勤め、社長にもなった、ポップスに造詣の深い亀渕昭伸の妹。リッキー&860ポンドの一員としてデビューした巨漢でゴスペル歌手として現在も活躍している。千うららとともに、なぜか巨漢の女性がふたりもでてくる。亀渕友香は目黒のホテルエンペラーで下着姿を披露までしている。
 そのホテルエンペラーの遠景カットを、冒頭に配さず、途中で唐突にインサートしたり、萩原が調査にいくトルコ風呂でのエレベーターシーンの構図に工藤演出が刻み込まれている。 
 内田が崇める「天照大神」の掛け軸を、テンテルオオカミと読む水谷の芝居は亨を語る上で欠かせない瞬間のひとつだ。「港町」でも感じたことだが、戦争を扱った回は、全体に暗い。 BIGIの衣装や井上堯之バンドの曲のせいもあって「傷だらけの天使」は当時のなかではおしゃれなドラマというように思われているかもしれない。しかし「傷だらけの天使」はスタイリッシュというには少し野暮ったい。最新の若者の風俗を描いたというよりも、若者たちと消えゆくものがぶつかり合うドラマといったほうがいいかもしれない。
 千うららは田舎に帰っていく。都会にいる人たちは心が汚く、田舎は心が純粋できれいであり、だからこそ田舎は消えつつあるもののひとつというメッセージ。 21世紀を生きる我々はそんな単純なことではないとよく知っている。故郷回帰やバックトゥ自然で丸く収まる世界ではないことを。
 それでもどこかにそんな楽園のような心安まる清らかな場所があるという思いを抱いてしまうのは、人間のどうしようもない性なのだろうか。
 内田はボケて車のなかを飛行機のコックピットと勘違いして、戦争を始める。悲惨な状況にもかかわらずひたすら滑稽で楽しげだ。内田にとってラバウルの戦争は楽園だったのかもしれない。そう思って見ると、ラストの萩原たちの歩きはまた違って見える。
 今作はまとまってないからこそ、見るたびにいろんな顔を見せてくれるように思う。


22 くちなしの花に別れのバラードを
  ーーオクラホマミキサーが鳴った恋愛ドラマの名品誕生

 名作である。前回の不調や、児玉進が監督した「リングサイド」に「兄妹」とはまるで様子が違う。脚本は「兄妹」と同じ篠崎好。同一のスタッフで撮ったとは思えぬ完成度になっている。
 監督と脚本に追うところは無視できないだろう、しかし萩原と水谷と岸田森の演技がこれ以上ないほどのバランスでうまく収まり、またゲストである篠ひろ子の容姿と演技が加わったところも大きい。「兄妹」でさんざんケチをつけた音楽のタイミングと選曲はどこもはずれがない。
 また「いとしのクレメンタイン」や「静かな湖畔」の系譜に加わるのが「オクラホマミキサー」である。体育大会のフォークダンスでお馴染みのこの曲が華道藤宮流の家元役である、修たちにとっては超高嶺の花として登場する篠ひろ子をもてなすために流れる。いつもならクラシックであるはずが、なぜ亨が流し始めたのか、単なるおふざけなのかと心配にならないでもないが、ちゃんと理由があり、家元の境遇と修たちの心の虚しさを埋める曲として見事に着地する過不足ない使われ方をする。
 萩原は花嫁である篠ひろ子を結婚式場から奪い去り、藤宮流の隠された秘密を暴くために使われる。
 結婚式場で萩原と岸田森のやり取りもよい。記帳の字を書くのに窮した萩原の手を岸田森は持ち書いてやり、手が不自由なんですという。萩原はそのシーンをさらに面白くするためか、カットの終わりでつまずいて見せて、ただのふざけにしないフォローを加味する。
 清楚で知的かつ秘密めいたところのある篠ひろ子は辰巳五郎の恋心をも刺激してしまう。フランスパンやホテル製のビーフシチュー、それに芥川受賞作の本と、当時ヒットしていた女性用ポルノの「エマニエル夫人」の本を買って、匿われているペントハウスにいる篠のところに持っていく。 水谷は芥川賞を知らず、また訊かれた萩原も、屋上であるショーみたいなもんだろうと答える。
 ふだんはワインなど飲まない水谷は酔っ払い、だいじょーぶだよ、おまえ、と繰り返して踊りだす。水谷の芝居が冴え渡る。
 萩原は篠といっしょに乗馬を見学し、あんパンを食べ、石蹴りをし、ビー玉を拾う。このくだりは萩原の真骨頂ともいえる見せ場の連続である。受けて立つ篠の抑制された芝居もいい。
 最初は萩原たちを下品で卑しい人たちのように見ていた篠は次第に心を開いていく。萩原が買ってきたあんパンを手で千切って食べる。萩原は、あんパンってのはこうやってがっついて食べるのと教える。また足が悪くて車椅子に乗る篠に向き合う萩原の座り方が彼の気取らない、そのくせ照れ屋な一面を現している。
 篠の誘拐は意外な展開にやはりなっていき、調査は打ち切りとなる。篠はまだ行方不明である。萩原は当然篠の行方を捜したい。しかしビジネスに生きる岸田森は冷酷に終わりを告げる。やめてやるの萩原のひとことがあり、口癖だなという岸田森は問い返し、浪花節がうなれるきみが羨ましいという。このふたりを代表する対決が生まれる。
 いつもの辰巳五郎なら胃が痛みをこらえる方向にいくか、あるいはカネを得る策を練るかのどちらかだろう。惚れてしまってはいつものようにならない。
 岸田森はトイレに隠れて、怪しい男の回したダイアルの音を聞き、番号を読み取り、篠の行方を突き止める。ダイアル電話が過去の遺物になったいまでは辰巳五郎の凄技が伝わりにくいのがもどかしいけれど、このあたりに辰巳五郎の怖さが潜んでいる。
 萩原は篠に熱を入れて、一生この車椅子をオレが押してやるよ、という。このふたりがうまくいくわけがなく、萩原は誰にだってそんな風にして惚れてしまうわけで、篠が本気にすることはないとドラマを見ているものはわかる。
 萩原が公園でビー玉を拾い篠が貸してというと、このあたりは犬がおしっこをするから触ったらダメだという。そのビー玉が効果的に使われている。
 書きたいところはたくさんありいちいち述べてみたいけれど、見ていない人のために取っておく。見たことがある人はもう一度味わって欲しい。
 かわりにこれまで何度か書こうと思いながら、触れずにいたことをいくつかのべる。
 ペントハウスにあるドアの横にある赤の壁。これはずっと謎だった。あの赤は部屋のアクセントになっているが、見ていると、ときどきたわんでいたり、つぎはぎの位置が変わっていたりした。
 今回ずっと見てようやくわかった。あの壁は元から室内にあったのでなく、撮影のためにつくられた取り外しの利く壁なのである。スタート当初は壁の後ろに「上」という字もあり、取り外したときのために書かれていたのだろう。
 ペントハウスの入り口に扉が二枚あるのもよく考えれば変である。建物自体の壁についている最初の一枚がほんとうの扉で、なかの一枚は赤の壁と同様につくられたものだろう。またステレオやロートレックの版画の横は、よく見るとドアになっている。たぶんペントハウスを抜けて外に並んだタンクなどに通じていたのだろう。ペントハウスはたぶん倉庫みたいなものとして利用されていたのを、部屋として改造したのだろう。また赤い壁をわざとつくり、扉を一枚用意したのは、カメラを置くスペースを確保するためであることは間違いない。というのは今回のラスト。ペントハウスはいつもよりも明らかに広く、壁をはずさなければそのようにならない。
 さらにもうひとつ、綾部情報社は外観はロケだが、内部はセットである。残されたスチール写真でもそれは確認できる。上部にマイクが見える。綾部情報社で喋る岸田森や岸田今日子は白い息を吐いている。特に岸田森の白い息が目立つ。岸田今日子は抑えたしゃべり方をしているからそれほど目立たなかったのだろう。当時のセットはずいぶん寒かったのだろうか。「十日町」で登場する捨て子をもらい受けたい小児科医を演じるクレージーキャッツの犬塚弘も小児科の応接室で白い息を吐いていた。セットは天井が高くて広いから温暖ではないのだろう。しかしいまならたとえ寒くても室内で白い息を吐くようなことはさせないだろうし、場合によってはCGで処理もできるか。
 いい加減な造りともいう人もいるだろう。また萩原は「傷だらけの天使」を若さと勢いでつくっためちゃくちゃなものとしてあまりよくいわないこともある。完成された作品、特に萩原がディテールをきちんとつくる黒澤明の現場をのちに体験しているだけに、粗の多さが気になるのだろう。
 しかしそういった瑕疵など関係なしに「傷だらけの天使」はこれまでもこれからもファンを増やしつづけるに違いない。今作のラストに見られる悲しくておかしいシーンは名作と呼ばれる映画にひけをとらない出来映えだ。赤い壁が取り外されて広くなったペントハウスにオクラホマミキサーが流れる。
 岸田森が亡くなったとき、続編をやろうという思いがあったけど、もうできないと萩原はいっていた。岸田森の存在がどれほど大きかったかは、この作のラストを見れば誰もが肯くはずだ。

23 母の胸に悲しみの眠りを
  ーー手に書いた裸の女にキスする水谷はいいのだが……
  
 せっかくの復調もつづかず。
 今作はシリーズ中もっともできのよくない回にあたると明言しても異論を唱える人はないだろう。放映は3月1日でいよいよシリーズ最終月となる最初の作品。監督は工藤栄一で「欲ぼけおやじ」とセットで撮られたのだろうか。工藤はこのあとさらに二本を監督するが、ここでの不調が嘘のような作品を作り上げる。
 これまでも何度か書いてきたが、けっして悪いわけではない。しかし「傷だらけの天使」としてどうかという点での判断である。その「傷だらけの天使」もどこを「傷だらけの天使」というかで評価軸は分かれるかもしれない。しかし中盤以降の単純な探偵劇ドラマが「傷だらけの天使」と思う人はいないだろうし、また修と亨のやり取りに評価基準を持つとしても、ふたりのやり取りはアベレージを保っているが、前回のような作品を見たあとだと、注文した定食がなぜかハーフサイズだったみたいにがっかりする腹の具合である。
 脚本によるものだろうが、最初の萩原のお腹が減って何日も食べてないという設定は、少し前に見た回の時代劇のコスプレみたいで、コントを見ているようだ。
 岸田今日子登場に「マヅルカ」が流れる。この曲は岸田今日子のテーマといってもいいが、全体を通して見ると、出演していれば毎度必ず鳴ったわけではない。特にてこ入れ後は減っている。またこの頃は岸田今日子不在の場合もあって流れていないことも多い。岸田今日子が不在でも、これは社長からの命令であるというときは、岸田森のいる社長室で流れることはあった。で、今回久しぶりに何度か流れるが、どうも最初の頃のような迫力がない。また岸田今日子がこの頃どんどんやさしくなってきている。
 事件の内容が結婚をまえに水死を遂げて自殺とされた女性のほんとうの死因と背景を探るというもの。結婚を望んだものが自殺などするだろうかと岸田今日子はいい、かつて自分も結婚詐欺師に騙されたことを匂わせる。
 われわれの知っていた綾部貴子とだいぶ違う。途中ハードな綾部貴子が戻ってくるが、以前足が悪いことを強調した演出をそのままなぞっただけで、あまりハートが感じられない。
 スケジュールがたいへんで、脚本も遅れがちで、白紙みたいな状態で撮ったこともあると工藤栄一は語っている。そういったことも原因なのだろうか。
 しかしそういったことよりも、造りが「傷だらけの天使」らしくないことが最大の原因だろう。
 先に書いた依頼の要件に大きな謎や金儲けの罠があまり潜んでないし、萩原と水谷はスカートのなかを覗いたり、女を押し倒したりして、めちゃくちゃな聞き込みをしているけど、刑事ドラマの亜流にしか見えない。
 ゲストのひとりは下條アトム。「世界ウルルン滞在記」のナレーターとしていまでは知られているが、当時は青春スターのひとりとして売り出し中で、萩原とは彼が「太陽にほえろ!」のあとにでた30分の連続ドラマで、沢田研二がテーマを歌った時代劇「風の中のあいつ」で共演している。
 下條は大学をでて二年も仕事につかずふらふらしている厄介者という役柄。女にはよくモテて、もうひとりのゲスト、お色気アクションドラマとして伝説の「プレイガール」に「悪女」の緑魔子とともにでていたひとりの西尾美枝子を最近ハラませている。死んだ女も妊娠中で下條は犯人と疑われる。
 萩原と水谷は下條に襲われる。その場面は工藤監督作だった「殺人者」ででてくる、化け猫とまったく同じ構図とライティング。濡れた道路が光っているアレだ。同じ構図でもこれほど違うのかという印象を受ける。まるで工藤の光と影のプリクラのまえで撮られたアクションシーンみたいだ。
 致命的なのは下條と萩原がうまくからまず、ただ殴り合ったり、追いかけ合ったりするだけ。萩原が下條の気持ちに反発しながらも、心を通わせていたら、萩原が虚偽の報告書を書くことも、そのあともうひとりのゲストで、1950年代にアメリカ映画にも出演していて、「帰ってきたウルトラマン」で隊長役を演じた根上淳とのシーンは名シーンになっていたかもしれない。
 水谷が手に妙な落書きをしてでてくる。手の甲に女の裸の体、親指と人差し指に足が描いてある。親指と人差し指のあいだは女の股になる。水谷は電話をしながら、そこにキスをして嬉しそうにしている。いったいあんなしょーもないことを誰が考えたのか。タランティーノにでも真似してもらいたい。
 また水谷は下條アトムにコテンパンにやられて、胸を赤チン(マキューロクロム)で日の丸みたいに赤くしている。根上淳をゆする場面では服をまくり、白地に赤くと日の丸の歌を歌い始める。
 見せ場はそれなりにある。 萩原は「マヅルカ」同様久々に、健太の名前をいう。子持ちであるはいっても、名前をいうことはてこ入れ以降ぐっと少なくなっている。妊娠した女と語り合う場面なので無理から感はないけれど、最後の「いっしょうになろうよ」と口説く場面も含めて、ちょっとやり過ぎであるようにも思えなくない。それゆえラストもしまらない。萩原と水谷のやり取りはこのふたりにしかできない間合いと内容でファンには嬉しいのだけれど。
 先の長くないやつにこんなことをいいたくないけどな、という萩原が危篤の下條にいうセリフはザッツ修の必殺セリフ回しだ。……なのにいいたくないけどと、萩原は声を落として、眉を下げて、苦い顔つきでいう。そうやって真似をして、萩原気取りになったものは多いはず。筆者もそのひとりだったことを認めよう。
 だからこれはよくないといいながら、いや、これに限らず作品の完成度が高くないものには、作品から浮いているぶん、他での使い回しが利く、笑いや決めぜりふがあって、見逃せなかったりする。
 今回見ていて気がついた小ネタをいうと、ペントハウスのカレンダーが最初は1月と2月であったのが、次には3月と4月になっている。時間の経過を現したようにも見えなくないが、放映が3月ということに気がついてあわててめくったようにも思えなくない。1月2月のカレンダーはそのままで放映するしかなかったのだろう。
 下條が萩原と水谷を襲うシーンではフォード・サンダーバードが映っている。この車は萩原が前半に乗っていた車で綾部事務所のものだろう。なぜか桃井かおりのでた「母のない子」以降出て来なくなり国産車になっている。たまたまそのサンダーバードが止まっていたというには珍しい車すぎる。
 ここまでで触れる機会のなかった「マヅルカ」について書けば、これは市川森一が指定した曲を岸田今日子の希望で変更になったもの。戦前のドイツ映画で使われた同タイトルの映画の曲で主演のポーラ・ネグリが歌っている。サントラがでるたび、この曲は入らないのかという希望があるけれど、実現していない。なかなか商品化されたものを聞く機会はなかったが、現在はiTunesで買って聞くことができるようになった。しかし「マヅルカ」という映画でどのようにして使われたのか筆者は知らない。一度見たいと思う。 岸田今日子はこの曲を寺山修司作のNHKドラマに出演した際に知ったという。筆者の個人的な話をいうと、「傷だらけの天使」の放送終了後の翌月、大阪心斎橋のパルコであった寺山修司の写真展の会場でこの曲がBGMとして流れているのを聞いた。その会場内には寺山修司もいて、サインをもらいながら、この曲を聞いたことをよく覚えていてる。そのときなぜこの曲がと勇気をだして聞いていればよかったなと思う。
 タイトルの「母の胸に」は母を思う下條の気持ちなのだが、下條が母を傷つけたくないあまり犯した犯罪だったことからであったとしても、ややしんどい。
 今回シリーズを見ていて思ったのは、萩原は子を持つ親という立場を語るが、自分も親の子供であることは語らない。亨は孤児院で育った親の顔を知らないものであるが、修の家族については謎である。いったい修にはどんな親がいたのだろうか。「傷だらけの天使」は子供のままの大人である。そういう中途半端な存在には目の上のたんこぶともなる親は必要ないのだろう。「欲ぼけおやじ」「偽札造り」にでてくる年長は、親というよりも古い日本人の姿である。この回でそのへんを描くことはできたのかもしれない。しかし親と自分というテーマのドラマは「傷だらけの天使」終了半年後に始まる萩原のもうひとつの代表作である「前略おふくろ様」でたっぷりと描かれることになる。しかしそれは母のみだ。父なるものは不在のままである。健太が育ったとき、修は父をどう生きていったのだろうか。そんなことまで今回いろいろと考えてしまった。 そしていよいよ次から残り三話、怒濤の快進撃が始まることになる。


24 渡辺綱に小指の思い出を  ーー前期傑作群のテンションが中期のコミカルさを通り抜けて傑作を生みだす

 ヤクザの組事務所に殴り込みをかけたことはあったが、今回はそのヤクザの渦中にイカサマ賭博士として潜り込まされる修である。「傷だらけの天使」はハードな世界に首を突っ込んでこそ。しかしそのハードさはリアリティとは違う。時代のせいか、テレビ的演出のせいか、ヤクザの世界はいかにもなフィクションで、ひとつ間違えればコントすれすれのようでもある。けれど、修と亨にとってのハードさであればいいわけだ。今度のことでいえば、イカサマ賭博を教える師匠は修にとってひたすら怖い存在で、またイカサマ賭博がばれたら指がなくなるかもしれないという設定がドラマの興味を引っ張っていく。
 脚本は市川森一。「ヌードダンサー」で室田日出男に憧れた修にヤクザの世界をきちんと味合わせたかったのだろう。深作演出の「宝石泥棒」冒頭で見せた萩原のふんどし姿がそのとき以来登場する。大江山の酒呑童子である鬼を退治した渡辺綱の入れ墨を体に描いて、花札賭博の帳場に立つことになる。
 水谷にヤクザの世界は似合わないと思ったのか、彼が同じ現場に立たせなかったことで、萩原のコミカルさとチンピラの粋がりが存分に味わえる場面が用意されている。初期の「傷だらけの天使」の萩原を土台にして、彼の軽妙さがふんだんにでてくる。それでいて水谷にもちゃんと見せ場が用意されている。
 水谷は修を訪ねてきた少女の面影を残す、修から大きくなれば結婚しようといわれた四つ年下の幼なじみを演じる坂口良子と行動をともにする。「兄妹」ででた伊藤めぐみも萩原より年下のヒロインとして出演したが、萩原の正真正銘のヒロインとしては子供っぽい面影を持つ年下は「傷だらけの天使」史上初の登板である。萩原には年上の大人びた女性が似合うからだろう。
 坂口良子は幼いときに修と結婚の約束をしたことが忘れられず、思い残すことがないように自身の結婚を数日後に控えたとき、修に別れをいいにやってきたという役柄である。 子供のときとはいえ、まったくあの修は、子供のときから誰彼となく気があればすぐに結婚を持ちかけているのかと思わないではないが、こちらの約束は微笑ましい淡い恋の記憶のひとつである。
 朝帰りの水谷は、映画はやっぱりポルノだなあ、と嬉しそうにペントハウスに帰ってくる。ポルノ映画の深夜映画を見て過ごしてきたのだろう。そこに田舎から上京した坂口良子から電話がかかってくる。萩原はイカサマ賭博にでかけているため、水谷は坂口良子の相手をする。
 水谷と坂口のやり取りがいい。特にここでは水谷と亨の境界がない演技を披露してくれる。初期ではただ笑っているだけだった水谷は、そこに頭を左右に動かし、鼻声で喋るのを付け加えた。亨の真似をする物真似芸人や素人はこういう亨を参考にしている。萩原は顔の表情を激しく変えるが、水谷のように頭を振ったりしない。同じ動きをするときは肩を中心にして動く。水谷は飛び跳ねる。ふたりの芝居のカラーがはっきりと分かれている。ふたりきりでいるとやや緊張に欠けるときがあるが、もうひとり加えたときや、片方をはずしたときに個性がはっきりする。
 水谷の着ている服はかつてサイコロと独楽の刺繍のついたジャンパーといった珍奇な服が多かった。しかしてこ入れ以降、彼の服は代わり、萩原と同様のBIGIと思えるジャケットになっていく。萩原はネクタイやスカーフ、マフラーを巻くが、水谷は正装するときは蝶ネクタイを必ずするようになる。今回は蝶ネクタイにくわえて、ベレー帽をかぶり、亨のバカボンぶりが強調されている。「回転木馬」の回で遊園地で働くことになったとき、ネクタイをしなければならなくなった亨は修に結び方を訊くところがある。ちょうちょ結びでいいんだよ、と修は答えている。
 水谷は坂口に紅茶を入れてやったとき、とても変わったことをする。紅茶があふれそうになるのをかたわらに置いてあった少女コミックを開き、そのなかに多い分を捨てるのである。もちろん少女コミックはぼとぼとになっている。こんなことをする人にお目にかかったことがない。アドリブだろう。しかしなにごともなかったようにことは進み、修のためにつくってきたという彼女お手製の寿司を食べてしまう。
 一方の萩原はドラマの最初から見せ場の連続である。イカサマ賭博を習うところはダメさからうまくなっていくまで過不足なく、笑いもきっちり用意してある。 ゲストのひとりである、蜷川幸雄の夫人であり、蜷川美花の母である真山知子はヤクザの姐さんとして登場し、萩原の背中にある渡辺綱に惚れ惚れして、風呂に入る萩原の背中を洗うべくやって来る。偽物だとばれてしまう修は黙って洗ってもらうわけにいかない。ここは脚本にはない。ここでの萩原の芝居というか所作は水谷の少女コミックのなかに紅茶を捨てることがともすれば記憶から消えてしまいがちなのに反して「傷だらけの天使」を見たものならつい喋りたくなる超絶な技? を股間で披露してくれる。桶で前を隠したあと、手を離しても落ちないのだ。桶はいったいなにで引っかかっていたのか?  賭博は花札だが脚本ではサイコロ博打になっている。なぜ変更されたのだろうか。サイコロよりも花札を繰れない無器用さから出発して、見事に上達するほうが映像的に面白いと見たのだろうか。萩原の提案がここにもあったように思える。
 さらに萩原が賭場を抜けだして、坂口と再会するシーン。童謡赤とんぼが流れる。公園にいる三人はいきなり馬跳びをしている。久しぶりに会った幼友達とはいえ、それはないんじゃないかというか、ちょっと嘘っぽい、やり過ぎ感がする。しかしキマッたときの「傷だらけの天使」は甘さに流れない。馬跳びの軽い違和感は水谷のまぬけな芝居の伏線につづき、最後にはジャングルジムのなかに入ってしまう萩原の芝居につながり、決めぜりふに着地する。
 ゲストは他に前田吟に天本英世に吉田義男に長谷川弘。名前を聞いてもいまではピンと来ない人もいるだろう。しかしその顔を見れば、あっ、あの人だ、という顔の連続で、またもし知らなくても彼らはドラマのなかで少ない出番であっても印象を残す。
 まゆげの禿げと萩原がいう、前田吟は眉毛を剃り、下手な関西弁だが、なぜか迫力がある。わしはこっちのほう専門で、とシュークリームをがっつく場面も面白い。
 もちろんイカサマ賭博の結末は想像通り。そしてそうなってからが、この回のほんとうの見せ場。ヤクザのなかを逃げ惑い、走り、暴れ、殴られ、血まみれになる萩原の芝居は萩原以外にできない。いや、松田優作ならもしやと思えなくないが、仮に似たようなことを彼がやっていたとしても、それはここから来ていることは明白だろう。
 小指の思い出とは萩原がイカサマ賭博で受ける仕打ちを現しているが、伊東ゆかりのヒット曲「小指の思い出」。もちろん坂口良子にした恋の約束ともからんでいる。 45分間まったく無駄なし。ラストに十分な間合いも用意されて情感も過不足ない。今回初めて萩原のモノロークで終わる。市川脚本では「……やっぱり……俺はもう……恋は出来んぜ……ああ眠い……おやすみ……佳世ちゃん……」だったが、萩原は違う言葉をいう。見てないもののためにあえて書かない。そして見たものはまた確認のために再見して欲しい。
 番組では最後に予告編が必ず流れる。なぜかこの回の終わりの次回予告のナレーションは淀川長治の解説風で始まり、今回だけいつものナレーターではない。変わったのかと思ったら、次回ではいつもの声に戻っていた。誰が務めていたかはわからない。おそらく局アナのひとりだったはずだが今回の代役の理由とともに謎である。いつもコンパクトに次回の内容をわかりやすくまとめて語ってくれる予告編である。襟目を正した乱れのないしゃべりは「傷だらけの天使」の世界とはギャップがあるけれど、これはこれでいつもの決まり事として楽しみのひとつだった。ドラマが終わって日常に戻るための、劇場通路のような役目のようだ。

25 虫けらどもに寂しい春を  ーー時代の反逆児からウジ虫たちへの痛恨の一撃

 この文章は見てない人のために作品をより楽しんでもらうための手引きという側面もあるため、出来る限り鑑賞の邪魔になるようなことは避けてきた。しかしいよいよシリーズも大詰めに差し掛かり、触れざるを得ないことも避けられなくなってきた。
 そういうことをいうことで、なにか凄いことが待っているのかと期待を煽りたくないのだが……。この頃のドラマはいまのように番組への興味を最後まで引きつけるために謎の提示やその解決といったことをしないものが多く、それがふつうだった。もしいま「傷だらけの天使」がテレビであれば、綾部情報社の後ろにある黒い影や、修の過去についての謎を小出しにしながら、最終回でいよいよすべての問いが判明するといった仕込みを絶対とっただろう。それはそれで面白いかもしれないが、そんなことなどなくても、視聴者はドラマを毎回楽しみにしていた。ドラマにでてくる登場人物に毎週一度会いたいというのが視聴の動機を占めていたのだ。 とにかくここから二回は見ていることを前提とした上で遠慮なく語るので、もしこれから見るという人は鑑賞後に読んでいただければと思う。
 今回この文章を書いた動機のひとつには、続編はほんとうに可能かということを検証するために始めたこともある。「くちなしの花」で岸田森の存在がいかに大きかったことでもわかるように彼がいないことは続編の可能性をきわめて難しくしている。プロデューサーの清水欣也もまた続編を企画していたが、岸田森がいなくなったこともあり、実現しないままとなったと語っている。さらに2006年には岸田今日子までも亡くなっている。主要登場人物の半分が欠けたことになる。しかしなによりも大きなことは亨が最終回で死んでしまっていることをどうするか……。
 亨の死は衝撃で、おそらく見てない人も水谷が最後に死ぬドラマであることくらいは知っているだろう。先の配慮などしなくてもこのドラマはオープニングタイトルと水谷の死で知られてしまっているところがある。懐かしのドラマ特集で「太陽にほえろ!」とともに定番となった「傷だらけの天使」である。しかしオープニングタイトルはともかく、水谷が死んでドラム缶に入れられて夢の島に捨てられるというシーンを流すことはなんとかならないものだろうかといつも思う。ここまで読んでくれた人は「傷だらけの天使」の良さはもっと他にあるとよくわかっているだろう。まだオープニングタイトルはいいとしても、せめてラストは伏せて、萩原と水谷のやり取りや、ふたりで同じベッドで寝ている姿とか、萩原が「渡辺綱」で桶で前を隠すところや、「シンデレラの死」で水谷がスカートをめくるところとか。笑えるシーンはいくらでもある。
 ビートルズを後追いで聞くものは、解散もジョンの衝撃の死も知って聞く。それは仕方ない。しかしドラマの結末を見せてしまう、それも安易なバラエティの興味本意で暴露するのはやめて欲しい。
 清水プロデューサーが頭に描いた続編では亨そっくりの男が修の前に現れるということで水谷を考えていたようだ。こういう手は続編の定番のひとつで、勝新太郎の「悪名」でも、シリーズ二作目で死んだ勝新の子分であるモートルの貞を演じた田宮二郎は、それ以降貞の実弟として登場しつづける。
 萩原は今度はニセ宗教組織に関わり、スキンヘッドで登場するという設定も考えられていたという。
 それから二十年以上の時間が流れ、2000年代の半ばにまた続編の話が今度は萩原の口から語られるようになった。市川森一はいくつものプロットをつくり、亨は死んでなかったというものや、亨そっくりの双子がいたとかがあったと市川に近い関係者は語っている。
 またその続編とは関係なく、矢作俊彦が「魔都に天使のハンマーを」というサブタイトルで続編の小説を2008年に書いた。そこでは亨はバーチャルな姿で甦っている。
 水谷豊が続編に参加するかどうかはべつにして、当初は萩原がメインであったドラマである。亨のいない「傷だらけの天使」ははたして可能かどうかを初期から筆者は書きながら考えつづけている。
 初期は萩原の魅力の比重が高く、内容の良さと演出もあって、亨が水谷で演じてられなくても見栄えが劣ることはないだろうと筆者は考えた。特に中盤以降ストーリーがやや甘くなるにつれて、萩原だけで「傷だらけの天使」は可能だと思うようになり、下手な小細工で亨を登場させたりする必要はないと結論した。また修が亨の死に衝撃を受けていつまでもそのことを引きずっているというような描写が「魔都」にあるが、たとえ視聴者がそうであったとしても、萩原の演じた修は、内面は別にして表向きはまったくそんなことは意に介していないように生きていると断言していい。もし水谷が出演したとしても、亨に似た男としてちらっとでてきて、萩原が通り過ぎざまに気になり、萩原らしい顔と、セリフが少しあれば十分だろうとも思った。
 しかし興行的な面でいえば、萩原と水谷の再共演は大きなポイントであることは間違いない。ふたりがいることで潤沢な予算が組まれて作品に貢献してくれることにもなるだろう。それでも筆者は萩原だけでいいのではないかと初期の残像のなかで思った。
 ところが中期から後期に向かうところでの萩原と水谷のやり取りを見ているうちにだんだんと考えは変わるようになった。続編、それも最初から時間は大きく経ち、萩原の肉体も水谷の肉体も変わっている。また「傷だらけの天使」的世界がいまの世界にどれだけ合うかにも不安がある。そういうマイナス、不安材料があったとしても、中期のできのよくない物語でも魅力的にしたふたりならば間違いないだろう。また人々は萩原と水谷がひとつの画面に並んでいることを見るだけで嬉しいことは確かだ。それは解散したバンドが再び再集結した写真を見ただけで、いろいろと文句はあっても、古くからのファンには格別なものだ。水谷がどんな理由で再登板してもいい。そんな細かいことをいってせっかくの再会を逃してはつまらないとさえ思える。気になったとしてもしばらくすれば忘れるはずだ。
 しかしそんなノスタルジックなことでいいのか。「傷だらけの天使」のなかにいる修なら、ジジイが集まり加齢臭がするぜ、といい、アニキ、加齢臭ってなに、と亨が聞いて、インドの匂いだよ、バカ、というやり取りをするかもしれない。 また昨今の映画事情を考えると、映画は映画だけで完結しない。スクリーンという「傷だらけの天使」でまず再会したふたりは公開前にテレビにでまくるだろう。インターネットのインタビュー記事にあふれるだろう。バラエティに、トーク番組に、ワイドショーに。還暦を超えたふたりが並んででてくる。そして当然若かったふたりの演じた修と亨も紹介される。この姿は筆者に耐えられない。いや、それは自由なんだが、「傷だらけの天使」が持っていたスピリットを考えると耐えられない。修が最終回でいう、まだ墓場にはいかねえからよ、といった言葉が虚しく響く。
 今回ラストで巨大なうじむしである小松方正演じる高山波太郎を殴った修はそういう萩原と水谷を殴りに来ないか? いや、待て。そういう醜悪な芸能ビジネス、受動的過ぎる一般ピープルと情報まみれのインターネット社会に巣くう訳知りレビュアーにあふれた21世紀であっても、萩原と水谷のふたりは筆者の思いもつかない化学反応を引き起こして新しい「傷だらけの天使」を見せてくれるかもしれない。きっと見せてくれるに違いない。
 ようやく本編に入るが今回は先にもでた小松方正がゲスト。冒頭小松方正がスーパーマーケットにてテレビ中継のゲストとして登場し、買い物にでかけていた亨がインタビューのマイクを向けられる。物価高の世の中をどう思うかという問いにうまく答えられなかった主婦に代わって答えた水谷は、アニキ、見てる? と手を振り、帰ったらアニキの好きな卵入りのおじやをつくってやるよ、とバカ満開の芝居を見せる。それをたまたま見ていた萩原は、オレよりも先にテレビにでやがって、とテレビに向かって声を上げる。このやり取りは見どころのひとつである。そのことをもう少し考えると水谷の面白さを萩原が受け取り増幅させている面がある。初期から中期にかけて水谷が徐々に存在を現していったとき、萩原がなにかいい、水谷がバカな答を返すことで笑いを誘う面が多かった。ところが中期から後期に向かうにかけて、萩原が水谷のボケに翻弄されるようになっていく。初期では萩原は面白いこともいうかっこいい人であったが、萩原はかっこいいけど面白いというように変わってきている。面白いの比重が高くなってきている。まだまだポピュラーでなかったカタカナ語をときおり登場させてきた「傷だらけの天使」でノイローゼという言葉が萩原の口から何度か飛びだしたことがある。アンニュイやナイーブに較べると子供でも知っている言葉だろう。ノイローゼを発するときは笑いにつながらないが、おろおろしている萩原は「前略おふくろ様」で演じたサブちゃんの原点になっているように筆者は思う。「傷だらけの天使」で生まれた萩原のおかしいところをもっと増幅させようという企みが倉本聰の書いた「前略おふくろ様」にはあったはずだ。先の続編につなげていえば、だから萩原と水谷がいっしょにいることでなにが生まれてくるのかは予想もできないと筆者は思う。
 監督は工藤栄一。同じ監督による「母の胸に」の結末と同じく、最後は萩原が嘘を隠してぬくぬくと生きる存在である小松方正を殴る。「母の胸に」がどうにも分の悪い回であったというのに、この回では同じ展開にも関わらず、まるで違う快作となっている。それは小松方正の名演に負うところが大きい。
 小松方正はエセインテリと髪結いの亭主の二役を演じている。高山波太郎という作家でテレビにでて庶民の代弁者を語る男が、そっくりショーにでている自分のそっくりさんと偶然出会い、 自分のいらなくなった愛人にあてがって、自分は他の愛人を得ようとする。
 いらなくなった愛人を黒澤映画「赤ひげ」などにもでた根岸明美が演じている。中年好みのアニキにぴったりと亨にいわれた修である。萩原は根岸の熱い抱擁にたじたじしながら、女のところに通っている男が本物の高山波太郎であるかを調査する。
 小松方正の演じ分けはメガネをずり下げてうだつの上がらぬしゃべりをするほうがニセ者で、メガネをきちんとつけて弁舌鮮やかに語るほうが本物である。ひじょうにわかりやすい色分けで一歩間違えば嘘くさいのに、小松方正が元来持っている嘘くささの個性をプラスにしていて見事である。また彼らは紙一重であるところはニセ者が高山波太郎をそっくりに演じるクラブでの芸でも証明される。本物は立派な家に住み、世の中を憂えたことを声高にいい、ニセ者は酔っ払い、真夜中に妻のやる理髪店に帰って叱られている。ニセ者は酔った勢いで自分は高山波太郎であると道の真ん中で演説もする。本物である高山波太郎が持つどうしようもない嘘くささは、ニセ者の持つ正直で嘘のつけない姿の裏返しでもあり、この二人は似ているだけでなく、ひとりの人間の裏と表でもある。
 修はもちろんニセ者に引かれていく。「傷だらけの天使」のパターンのひとつである男に惚れるの系譜に入る。しかしこの男はいわゆるかっこ良さとはほど遠い真逆な存在である。「偽札造り」の有島一郎も同様だったが、小松の演じたニセ者は卑しさが勝っていて、それだけに修たちに近い存在である。もし番組がつづいていたら小松方正に連なる男はまた登場して、父性をテーマに置いたドラマが生まれていたことだろう。
 ニセ者は本物の不祥事を押しつけられて、刑務所に行くことになる。萩原と水谷は面会にいく。小松方正が柵の向こうでいう、もしオレが名乗りでても似たようなウジ虫はいくらでも現れるんだ、というセリフが効いている。テレビの世界や社会で正しさを解き庶民の味方を代弁するほんとうはニセ者どもをウジ虫と呼んでいることはいうまでもない。それをそっくりというニセ者を演じた小松方正がいうからさらに胸に迫る。
 後年あの「金庫破り」の赤いバラの殺し屋も演じた加納典明は市川の「傷だらけの天使」の文庫版での帯文にて「時代の反逆者のドラマだ」といっている。萩原がニセ者の代わりに本物の高山波太郎を講演会場の階段で殴って去る姿に重なる言葉だ。ただの乱暴者にしか見えない修は子供にやさしく、仲間に手厚い一面をこれまで見せてきたが、ついにもっと大きな相手に向かってその暴力を有効に示した瞬間が刻まれている。
 萩原はシリーズ最初にレイバンのサングラスで登場し、べっ甲や黒のフレームのサングラスになっていった。季節の変化により、コートを着ることが多くなってのコーディネイトだろう。ここでは初めて、サングラスでなく、銀縁のメガネで登場する。高山波太郎が文壇の男であるため、彼を尾行したとき、インテリを気取ったのだろう。そのメガネをして萩原は高山波太郎を殴る。無駄のないカットと計算された動きでその様子がとらえられている。
 このシーンではこれまで一度も流れたことのない曲が流れだす。高山波太郎のいるクラブで流れた中条きよしの「うそ」のピアノアレンジは「愛の情熱」のホストクラブでの使用につづいて二度目で、お馴染みの「女の操」も流れている。聞いたことのない曲はまたなにかの流行歌かアレンジされたものか。いや、ここまで見知らぬ歌謡曲は流れなかったし、曲は歌を伴っているが、歌謡曲ではない。新しいサウンドトラックか? 「傷だらけの天使」のサウンドトラックに似た旋律を持っている。井上堯之バンドにはヴォーカルがいない。しかし誰かが歌ったのか。萩原の声にも似ていなくない。曲は高山波太郎を殴った次のカットにもつづいて流れていく。
 次のカットは萩原と水谷が並んで歩きながら、水谷が買ってきたあんパンを食べる。あんパンを食べて歩くだけの姿がせつなくて美しい。ふたりは傷だらけではない。しかし心に傷を負っているのはありありとわかる。「傷だらけの天使」の姿が完成している。 流れる曲は後年明らかになる。「一人」。これは最終回でも流れる。ラストと劇中で。デイヴ平尾が歌っている。ゴールデン・カップスのリーダーで、萩原と同じGSから俳優に転向したひとりである。曲は井上堯之で詞は井上堯之バンドに在籍した岸部修三(一徳)。「傷だらけの天使」が熱く語られることのひとつにこの曲の存在も大きく、またこの曲は井上自身が萩原とデュエットしたカバーや、柳ジョージによるものなどあったが、オリジナルを聞く機会はこのドラマで見るしかないという状況が続いたために、ファンの飢餓を煽った。
 サントラアルバムにも、また後年でたドラマ内で実際に使用された効果音的なものまで含めたCDや、ドラマを収録したレーザーディスクにも特典として入らなかった。会社間の貸し借りが用意でなかったため、オリジナルの権利を持っていた東芝が他社から発売された関連商品に協力しなかったことも大きい。
 なぜ「傷だらけの天使」で使用された曲が東芝より発売されたかはデイヴの所属であったせいなのだが、長らくその曲が音盤化されていることさえ知られてなかった。90年代半ばに「一人」はついにテレビ番組の曲を集めたコンピレーションに収録された。いまではインターネットですぐにわかるが、その曲はドラマよりも三年も前にシングルとして発売されたデイヴのソロ第一弾のB面に入っているものだった。A面は「太陽にほえろ!」で使われたらしい。なので萩原も知らなかったわけがない。この曲を使おうといったのは工藤監督であると自身は語っている。もとは萩原が提案した可能性も高い。まるでこの曲は「傷だらけの天使」のために、それも最後のために用意されていたかのようにはまっている。
 亨の死とともに、この曲がなければ、語り継がれる熱さはずいぶんと違っていたものになってたに違いない。
 この回は水谷の、いってやってきいてやっていってやってきいてやって、という亨らしいセリフや、萩原の、まったく小説っていのうは失礼だな、漢字ばっかり多くて、というセリフと、お楽しみは多い。また報告書を書く萩原も再登場する。 岸田今日子は久しぶりに杖でテーブルを叩き、その音にあわせて、萩原、水谷、岸田森が動きを変えていくシーンも見どころである。
 まだまだつづいて欲しい、いつまでも見ていたいという思いは大勢の視聴者の偽らざる気持ちであったろう。しかし物語は次回で突然終わる。もちろん最終回であることは決まっていたことだが、その終わりは突然以外なにものでもない終わり方をする。
 最後に次回予告編のナレーションを全文引用する。

「ハイセイコーも引退、長嶋選手も引退、『傷だらけの天使』もいよいよ最終回、エマニエル夫人も、アメリカンニューシネマも、結果をして花の宴 トルコのあけみも、おかまのモナコも、桜3月花吹雪、地震もあればスモッグだらけ、大東京で総倒れ、たまらんたまらんたまらんぜ、たまらんこけたらみなこけた、だけどまだまだ墓場にゃいかないぜ」 

 当時の時代世相が「傷だらけの天使」らしい名詞や言葉とともに読み込まれている。いつもは内容を手短に紹介しているので、今回は特別な語りだった。内容に踏み込んでしまうわけにいかなかったのだろうが、別れを惜しむよりも、楽しげに響く。予告編は萩原がドラム缶を引いているシーンで終わる。予告を見たものでも、誰があんなラストが待っていると予想しただろうか。

26 祭りのあとにさすらいの日々を ーーおもちゃ箱から落ちたなまりの兵隊さんはドラム缶の恋人を棄ててどこへ?

 もう何度見たかわからない。また何度聞いたかわからない。というのは当時ビデオなど高嶺の花。カセットテープに番組を録音するしかない。たまたま従兄弟に頼まれて筆者はシリーズ中最終回のみを録音していた。放映終了後、従兄弟にそのテープを聞かせながら、筆者は番組の解説をした。まるでいまこんなことを書いていることを予見したような出来事である。
 それでなくても強烈な印象を残すこの回を終了後すぐに音で再体験したことは筆者の体や頭に深く刻み込まれるに十分過ぎる経験となっている。
 またこのテープを数年後に紛失したら、同様にテープに録音していた女友達がいて、彼女から譲り受けて何度聞いたことかわからない。筆者の住んだ関西では放送半年後に再放送はあったものの、それから十年近く経つまで、再放送がなかったので、このテープが筆者にもたらしてくれたことはとても大きかった。
 今回は前回につづく工藤栄一が監督し、彼の持ち味が散見できる。おそらく自動車修理工を修に無断でやめて、オカマのバーでアトラクションボーイをやる亨。その店のある通りのネオン看板は「殺人者」でのヤクザ事務所への討ち入りのときに現れた看板を思わせるし、ペントハウスで亨を残して去る萩原を追うカメラには工藤ならではと思わせる光が写されている。ネオン看板のある通りや噴水はセットであると工藤はいってる。
 冒頭からこの回はいつもの調子とまるで違う。地震が起きて、ペントハウスのなかで萩原は逃げ惑い、綾部情報社では岸田森とホーン・ユキも騒然となる。ひとり岸田今日子だけが、ドラマ上初めてとなる、いつもくくっていた髪を下ろして、新宿西口の高層ビルが見える屋上で、この国への愛と恨みをつぶやく。このセリフは脚本にない。岸田今日子にシェークスピアのセリフをアドリブでとリクエストしたらしい。シェークスピアで思いだして欲しい、第一回冒頭で亨はシェークスピアを気取っている。
 ある日突然地震は起きる。なにも予兆はない。最終回とはわかっているが、まるで突然なにもかにもに終わりがやって来る演出と物語の運びである。
 しかし地震は大きな破壊を起こすほどのものではなかったようで、街の様子はいつもと変わらない。萩原は、昨日の揺れは凄かったね、といいながら車を駐車場に取りにいき、車がないことに気がつく。綾部情報社が引き払ったという。
 地震はもっと大きなことへの予兆だったわけで、萩原が向かう綾部たちのいる場所は書類が散乱していつもの顔ぶれはない。代わりにあるのは、なぜか「マヅルカ」の流れ。綾部貴子が座っていたあの籐椅子に座っているのは西村晃演じる海部警部。西村はセリフでいうように、久しぶりである。綾部たちは雑魚である萩原を残してどこかに消えた。綾部貴子のほんとうの姿を突き止めて、海部ががさ入れをしたときにはもぬけの殻となっていた。怪しいところがあった綾部貴子であるが、シリーズがつづくにつれて、ソフトになっていた。本物のワルであるといわれても、ちょっと唐突に感じなくはない。しかし萩原の目からはそのように映ってなかったのだから、見ていたわれわれも同じ、突如路頭に迷った気分を味合わされる。 萩原と西村のやり取りは素晴らしく、綾部の吸っていた葉巻を西村が萩原に押しつけると、萩原はソファーに乗っかるように倒れる。お尻を突き出して痛がる芝居は萩原だけに許されたかっこう悪いのにかっこよく見えるポーズとして決まっている。
 自衛隊に入ってやり直したらどうだと西村は萩原にいい、昔の軍隊式を教え込む一連の流れも見逃せない。
 ソフトに傾いていたドラマは西村の演技できりっと様相を変える。
 そして変化はつづく。森本レオの演じる男にビルの取り壊しを知らされて立ち退きを命じられる。森本が現れる間際、萩原は屋上に置いた煙突つきの風呂にたまったお湯を床に撒く。なにげない所作。しかし春近いとはいえすっかり冷えているかもしれない風呂の水に手を入れることはふつうはしない。萩原の考えたことだろう、森本レオとも共演した「青春の蹉跌」のオープニングシーンでのローラースケートを履いて椅子やテーブルを並べていった姿を思いだす。あの場面も萩原の提案だったらしい。
 綾部たちを探して関係する人たちを巡る修。この回の脚本を書いた市川森一の夫人である柴田美保子が弁護士事務所の秘書として登場している。萩原は知らぬ存ぜずの態度を取る柴田に攻め寄り、やっちゃうぞと暴言を吐く。市川の脚本にはそんな言葉はない。
 ヤクザ事務所でも同じく行方は杳として知れない。いい声のヤクザである。つづくオカマバーのある通りでぞろぞろでてくるオカマたちの声もいい声ぞろいがつづいていく。予告編のナレーションにでてきたモナコが登場する。石田太郎が演じている。初代コロンボの声優だった小池朝雄亡き後を引き継いでいることでも知られる。この石田によるモナコは出番が少ないもののオカマバーで働く亨の気持ちを代弁して、ドラマに厚みを加えている。
 修と健太の三人で地震もスモッグのない美しい街に移り一からやり直したいと思った亨はその願いを叶えるためにバカな仕事に打ち込んでいる。 汚れた都会に対して美しい田舎という幻想に亨はまだ執着している。
 水谷は男とたわむれて、冷たい夜の噴水に入って、アトラクションをこなす。客たちを楽しませるためクイズをいう。水谷の「傷だらけの天使」で培った鼻にかかったオカマ声が夜の街に響く。
 前回流れた「一人」がここで再び流れて、お馴染みの井上堯之バンドのサントラにつながっていく。
 萩原のモノローグがかぶさる。このセリフや調子は愛した女や世の中からこぼれてしまった男に向けていわれてきたものだ。ついにその調子はもっとも哀切のこもった響きで萩原にとってもっとも近かったものにつぶやかれるようになる。修と亨はともにベッドで寝ていたがそれはただの面白さを引き起こすだけの振る舞いであった。しかしここでふたりのあいだにあった恋と名付けたくなるような炎が灯るのを見る。
 つづくシーンは横浜の中華街である。「傷だらけの天使」で横浜がでてくるはことは初めて。中華料理屋の店主である、店のなかでもサングラスをはずさない中国語なまりのいかにもインチキ臭い男を「太陽にほえろ!」の刑事を演じた下川辰平が演じている。訪ねた萩原は綾部貴子の行方を訊く。探偵としての聞き込み役がこれまでいまひとつ面白くなかったのに、ここではまるで違うのは、修自身の身に迫った聞き込みだからである。下川は適当にあしらうが、そこに綾部貴子はいる。下川がいう、修は綾部さんのおもちゃの箱から落ちたなまりの兵隊さん、川に落ちた兵隊さんはこのまま流れていくだけ、綾部さん、遊びが過ぎたよ、と。脚本通りのセリフが下川の肉体を通して悲しみとおかしみを加えている。
 なまりの兵隊さんといわれた萩原はこれまで見られなかった新しいサングラスをしている。丸みのあるレンズデザインは先の下川の中国語からの連想のせいか、無国籍に見える。川に落ちた萩原はホーン・ユキから連絡をもらい、綾部貴子からの救いの手を受ける。
 女はこういうときつぶしがきく、田舎に帰って結婚するというホーン・ユキ。彼女は修に、クズで終わりたくなければ、横浜港から高飛びを狙う綾部についていくことよ、といわれる。
 演じている場所は新宿西口の地下へおりる階段。ここでロケは何度も行われている。またホーン・ユキとの別れのくだりは、修が愛した女との別れを過ぎらせる。この場面はそれらの単なるなぞりでなく名場面のひとつとなっている。
 綾部貴子とともにロシアにいくことにした修。そこに風邪を引いた亨がやって来る。冷たい噴水に飛び込んだことは明白である。風邪のせいであるが、亨の態度はいつもの修へのものと違う。修は亨をもてあましながらも亨を残して去っていく。これが亨生前最後の別れとなる場面。
 水谷は去る萩原を這って追いかけていく。階段を腹ばいで下り、床に寝転び、足で蹴って進む。初回となった「宝石泥棒」で亨はどうやって登場したかを思いだして欲しい。水谷は亨という人物に完全に乗り移っている。萩原が消えたあと、水谷はポケットから競馬の馬券を取りだして、これさえあたればあんなやついなくてもいいといい、ラジオ聞かなくゃと繰り返しながらペントハウスに戻っていく。
 横浜に向かうタクシーにいる修は途中で運転手に薬屋に寄って欲しいと告げ再びペントハウスに戻ることにする。運転手は「非常の街」で萩原に表彰状を渡した警官を演じていたのは同じ畠山麦。「秘密戦隊ゴレンジャー」のキレンジャーとして知られているが、若くして亡くなった惜しまれる俳優。無名だった苅谷俊介とともに、端役ながら複数回登場した数少ない俳優のひとり。
 萩原が下川を訪ねたところで最初のCMブレイクがあり、つづいて二度目のCMブレイクがある。残すは最後のセクションひとつ。およそ10分間。ここまでほんとうに無駄がない。CM明けはそろって、港の音から始まる。一度目のCM明けは呆然とする萩原の顔に消えたホーン・ユキより電話が入り、一人の行方がわかる。二度目のCM明けは港から始まり、岸田森がこれまで知っている姿とはまるで違う浮浪者の風貌で登場する。短くぼさぼさとなった髪は「金庫破り」で見せたカツラを取った姿である。スキンヘッドだった髪もずいぶんと伸びたものだ。港に西村晃が現れて、緊迫が高まる。一方薬を買ってもう一度ペントハウスに戻った萩原。亨を振り切ったときに被っていたフェドーラハットを被り、丸みのあるレンズのサングラスをして、ペントハウスへの階段をゆっくりと上ってくる。港に向かう時間もないのにわざわざ引き返してきたはず。しかし萩原の動きはやけに緩慢である。すでに間に合わなくなったわけではあるまい。しかしこの動きがつづく亨の死に遭遇したときの修の驚きを効果的にしている。
 ペントハウスのなかは地震のあとにもぬけになった綾部情報社のように散らかっている。綾部情報社は彼らが数々行ってきた悪行を隠したニセ帳簿や報告書の紙やファイルだった。対照的にペントハウスにあるのはヌード写真の切り抜きがあたり一面に散らばっている。当時人気だった全裸で巷間にリンゴを持ったヌード写真、麻田奈美の裸も見える。そこに毛布を頭から被った亨が倒れている。亨は死んでいた。亨の死にも驚くが、ヌード写真の切り抜きが散乱しているなかという設定が目に焼き付く。いったいなぜそんなものをばらまいたのか。なにかを探そうとしていたのか。それとも寂しくなってかき集めたのか。雑誌のヌードグラビアを見て自分を慰めるしかなかった時代であった。多くの亨と同じ貧しい若者たちは自分を重ねて見た。
 一方港には高飛びを狙う綾部貴子が現れる。修の姿を探しているようだ。西村晃がその隙に近寄ろうとする。そこに岸田森が新聞に隠した包丁を持ち阻止しようとする。ジャン・ギャバンの「望郷」が再現される。岸田森が提案したらしい。脚本では西村が修をわざと泳がせて、綾部とともに捕まえるつもりであったこと。岸田森はやって来た萩原を殺すつもりだったこと。自分の惚れた女といっしょに旅行などさせたくないというセリフや、萩原と自分との世代ギャップを嘆くところが書かれている。実際のドラマではそういった経緯は一切語らず「望郷」気取りの岸田森がかっこうつけようとして決まらない悲しみが表現されている。役者、監督、スタッフ、脚本ががっつり組み合い対決したことの記録が刻まれている。
 ペントハウス。サングラスをはずした萩原が死んだ亨を見ている。これまで何度もたくさんの死が描かれてきた。どれもあっけないほど簡単な死であった。修が愛したものはいつも唐突に亡くなる。修は亨を愛した。しかし彼は愛した亨を置いて旅立つことを選んだ。このままじゃ、共倒れになってしまうから、と。
 あっけない死はいつも次の場面では新聞の死亡記事であったり、骨箱として登場した。亡くなったあとのことは余韻としてあるだけであった。しかしここで初めて死のあとが丹念に描かれる。それも誰も見たことのなかった「傷だらけの天使」らしい、「傷だらけの天使」でしかありえない展開を見せていく。修は亨を風呂に入れて、女を抱かしてやるからと、ヌードグラビアを胸に貼っていく。「ゴキブリ死ぬ死ぬ」の看板とともに風呂に入った亨の姿が脳裏を過ぎる。
 森本レオが再び現れて、立ち退きを告げる。短いながら登場する彼があの声で立ち退きを告げるのはとても耳に残る。ゆらぎを含んだやさしいあの声が厳しい最後通告を穏やかに告げる。ヤクザまがいの恫喝ではない。
 つづく場面で三里塚などの機動隊との住人たちとの闘争がインサートされていく。「傷だらけの天使」は政治の季節と呼ばれた60年代の終わりのドラマではない。政治とは無縁な空気に包まれたシラケの時代と呼ばれた真っ最中に生まれている。修や亨も政治のことなどまるで関係なく生きている。脚本にこのインサートはなく、工藤栄一によるものだと市川はいっている。
 ペントハウスからの立ち退きに突如として時代の風刺が込められる。初期では怪しさ満点だった綾部貴子は回を重ねるごとに穏やかになっている。悪のなかの悪と呼ばれてもやや無理がある。ここでもやはり無理を感じなくない。
 闘争のインサートは、抵抗すれば壊されるということや、祭りの終わりを意味していると工藤は語っている。「でてけってよ……でてけってよ」という萩原の声がかぶさる。 作り手たちの意図は別にして、この番組が土曜の10時から追い立てられるようにも聞こえてくる。 萩原は死んだ水谷を背負い、まだまだ墓場にはいかないからよ、川崎のトルコでも、新宿のトルコでも、オレ、今日はおごっちゃう、と叫ぶ。作り手たちの思惑をすべて無にしてしまうセリフだ。だから「傷だらけの天使」。政治信条や学生運動の挫折よりももっと高いところにいる。
 そしてあの「一人」が流れだす。場所は東京湾の埋め立て地「夢の島」。ゴミでできた島。そこにリヤカーを引いて萩原は現れる。乗っているのはドラム缶。そのなかにいるのは毛布に包まれて頭部だけ見えている水谷。萩原はトルコにいったのだろうか。水谷は女を抱いたのだろうか。
 萩原はドラム缶を転がし、佇んだあと、振り切るようにしてリヤカーを引いて走りだす。亨を振り切るだけか。それとももっと大勢のものか。これまでの思い出も全部か。萩原がリヤカーを引く姿はみっともないのにかっこいい。肩を上下に振り、がに股で走り、顔は泣いているのか笑っているのかわからない。「傷だらけの天使」というタイトルにこれほどふさわしい終わりかたはない。 
 ここでドラマは終わる。しかし最後にもうひとつカットがある。撮影風景が映り、カットという声で撮影が終わり、萩原がロケバスに乗って去ろうとする。撮影されているのは萩原と水谷と岸田森が港で戯れているところである。岸田森は浮浪者然とした姿をしている。そこに萩原と水谷は登場していない。おそらく最後に付け加えるため、いまでいうなら特典ボーナスとしての遊びで撮られたものだ。あまりにも切ないラストの印象を少し和らげるために撮られたのだろう。これはすべてつくりごとなのですよ、ということかもしれない。ふつうなら興を覚ます、よけいなものになりかねない。しかし全部つくりごとといわれても覚めない夢を「傷だらけの天使」はつくりだしていた。すでにもう四十年あまりも。まだこの夢はつづくだろう。そしてもうこんなドラマは二度と生まれないだろう。

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