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友達はいない (so, what?!)

年末という非日常がきっかけになったのだと思うが、高校時代のクラスメートを何人かFacebookの中で見つけた。そのうちの2~3人には友達リクエストを送ってみたが、まあ何も起こらないだろう。

僕は友達がいない人だ。

しかし、とりわけ高校時代と二つ目の大学に行っていた時分の友達がいない。この二つの時期には共通点があって、それはそれぞれの期間、ずっと同じクラスだったということだ。高校は理数科で、学年に一クラスしかなかったので3年間ずっと持ち上がり。二つ目の大学は獣医学科でこれも一クラス30人超、こちらは6年間だ。密度の高い付き合いをしてしまったからなのか、その後の関係性は希薄になってしまった。

昨日は14時間くらいずっとぶっ続けで仕事をしていて誰にも会わなかったので、朝の2時くらいに近所のバーに繰り出し、マスターとそんな話をしていた。それで、「友達とは何か」みたいな話になる。つまり、近所の行きつけの飲み屋の常連仲間は友達と呼べるのかどうか、昔からの友達とは違うのかどうか。僕の中での定義はこうである。

「視界に入る人の中で、利害関係がゼロサム的にならない人は「友達」「友人」と呼んでよい」

我々は普段、自分の人生の登場人物の大多数と資源を奪い合う関係にある。満員電車。ラーメン屋の行列。その人がいない方が自分にとっては得であるという状況は普通に生じている。こういう、「関係性がゼロサム的である人」は他人と呼んでいいだろう。ちなみに、この外側には「社会」だとか「人類全体」みたいなものがあって、そういう「見えない人」とは「価値」だとか「秩序」だとか「規範」だとかいったような緩やかなノンゼロサムの関係が構築されている。しかし、それよりぐっと近い人、つまり自分の視界に入ってくるような人とは、関係性が逆転する。

その関係性が、さらに距離が詰まることによって反転するのが「友達」「友人」という関係なのだと思う。ここでのノンゼロサムな関係性とは、

「何かを一緒にすることによってより大きな効用が得られ、その効用を分配すると、一人で同じことをしていた場合と比べて平均的により大きな効用が得られることが期待できるような関係性」

ということである。例えば、赤の他人とゴルフに行っても気詰まりでかえって面白くないかもしれないが、友達と行くのはお互いにおもしろい。そういうことなのだろう。

さて、僕は何をするにも一人である。唯一の例外は会社で、2019年はウチの会社もようやくまともな会社の体を取るようになってきた。従業員には感謝しているし、これはノンゼロサムの関係になっているといってもいいだろう。つまり、彼らは友人である。少なくとも僕は友人として接している。しかし、それ以外の活動は基本的には何をするにも一人である。だから、従業員が来ないと僕は永遠に一人で黙々と仕事をこなしているし、趣味はジョギングだし、何をするにも一人である。僕は、誰かとノンゼロサムな関係を結ばないと生存に必要な効用が得られないような人生を選んでいないのだ。言い換えれば、僕は友達を必要としていない。それが快適なのである。

今年は大学時代の同窓会みたいなことがあり、僕も久々に呼ばれた。みんなで伊豆に一泊しに行って、気分転換にはなったが、まあ、もう当分呼ばれないだろう。僕は言いたいことがある人間で、言いたいことを我慢せずに言うことができるような人生を選んできて今日に至っているのて、僕に近づきすぎると言いたいことを言われるし、それが不満なら呼んでくれなくても結構だという態度に見えたのだとすれば、もう声はかかるまい。つまり僕と彼らとは、ノンゼロサムな関係にはなっていない。残念ながらそういうことなんだと思う。そんなわけで、僕は残っていた数少ない友達でさえも屠ってゆこうとしている。仕方がないことだ。彼らとは関係がゼロサム的だからね。

友達がいないことは悲しむべきことではない。みんないずれ一人で死んでゆくのである。去る者は追わず来る者は拒まず。人類が滅亡した後でも一人、楽しめるものを見つけたいと思う大晦日なのでした。

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