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#KuTooに関する雑感

世間知らずなもので、私はつい昨日まで#KuTooなる動きが世の中にあることを知らなかった。この小田嶋隆のブログポストを見て初めて知ったのである。今回はこの動きに対する現時点での見解をまとめておきたい。

少し整理すると、女性が職場でパンプスやハイヒールを履くことを強制されているという現状があり、そのことに対して今、多くの女性が異議を唱えているということのようである。#KuTooというのは、「靴」と「苦痛」という言葉を、昨年起こった#MeTooに引っ掛けた表現なのだそうだ。パンプスやハイヒールは痛みや外反母趾などの健康被害の原因となりうる一方で、メリットとしては審美的以上のものはなく、職場における着用の強制は合理性を欠いているので全面的に廃止されるべきだ、という主張がこの#KuTooムーブメントの実態であるとのこと。私はもちろんそういう靴を履いたことはないが、確かにこれまでいろいろな向きから(もちろんすべて女性だと思うが)そういう靴は履きにくくて疲れる、というような話を聞いたことはあり、しかもそれは一度や二度ではなかった。

なぜそれがこれまで起こっていなかったのか

こういうことが早く改善されるべきだと主張すること自体は構わないと思う。しかし、何か行動を起こそうとするときに、それが必要だからというような理由だけで無計画に行動を起こすのは得策ではない。いつも、何かを行動に移す前にしなければならないことは「なぜそれが既に行われていないのか」という質問に対して答えを用意しておくことである。この#KuTooの問題は、ある意味自明である。つまり、メリットがあまりなくデメリットだけなのだから、さっさと改善されて然るべきなのに、もしそれが本当に改善されていないのだとすれば、そこには何らかの理由があるはずなのである。そのように考えなければならない。これを「そんなの旧態依然とした日本のホモソーシャル社会の惰性のなせる業だろ」みたいな乱暴な仮定の下に直情的に動き出してはいけないのである。

余談だが、私は「日本」という言葉を使うときには十分に気を付けなければならないと考えているし、安易に「日本」を、特に批判的な文脈で使っているような文章については警戒して読み進めなければならないと思っている。誰かが「日本は」と言うときには、「日本以外の他の国と違って」ということを言っていることと同じである。しかし、ある現象が本当に日本に固有のものであるかどうかについては、本来はエビデンスをもって明確に示されなければならないはずである。にもかかわらず、我々はいともたやすく、経験的に、「日本は」という言葉を使ってしまう。なぜか。それは日本人は日本人を世界中のどの国民とも違う、特殊な国民であると信じやすいからである。すなわち、ある欠点や長所などを含む「性質」が「日本に」「日本人に」、つまり自分たちの所属するグループに固有の「性質」であるとグループの構成員は考えやすいのである。これは「自己カテゴリー化理論 (self-categorization theory)」という社会心理学・行動学の研究対象の一つである。そういう「日本」という言葉を簡単に使ってしまう人というのは、十分な根拠がなくても思い付きでそういう言葉を使っても安易な共感を得られるということを知って使っている。十分に警戒しなければならない。実際には、比較文化論的なエビデンスというのはアカデミックなレベルでも集めることは結構難しいのである。

そもそも、それは本当なのか

だが、そもそも我々が最初に疑わなくてはならないのは、本当にそういう「職場におけるパンプスやハイヒールの強制」が実態として有意に行われているものなのかどうかという点である。その点で、ハフポストに掲載されていた6月5日の衆議院厚労委員会の答弁における尾辻かな子議員の質問に対する高階副大臣の返答は、極めて冷静だと思う。

尾辻かな子議員:高階副大臣に伺いたいのですが、ハイヒールやパンプスを女性が義務付けられていることについて感想をお答えいただいていいでしょうか。

高階副大臣:そもそも職場で、そうした義務付けをしているところが、どの程度あるのか、私も承知していないんですけども。(後略)

このやり取りを扱った多くの記事は、高階副大臣の発言のうち私が略した部分に注目している(その部分は根元厚労大臣と言っていることが食い違っていると解釈され、物議を醸した)ようだ。また、前述の小田嶋のブログポストでも、小田嶋は特に確認もせずに実態としてハイヒールやパンプスが女性に強制されているということを前提としている。しかし、私がどれだけインターネットで探してみても、実態としてこの強制がどの程度の頻度で行われているのか、その統計を見つけることはできなかった。したがって、それが本来国として取り組むべき問題であるのかどうかさえ、定かではないというのが現状なのである。高階副大臣は看護学科を卒業後、医科歯科大学の博士課程まで進んでいるので(中退したようだが)さすがにこのくらいのことには気が付いたようである。それに比べると根本大臣は東大経済学部まで出ておきながら、つまらない答弁に終始し、男女の知性の差が顕在化した格好になっている。

数字上で確かなことは、現時点で20,000件弱の電子的署名が集まっているということだけであるが、女性の労働力人口は平成28年の時点でも2,883万人であり、この署名の妥当性を受け入れる前提でもなお、これが意味のある数字なのかどうかはよくわからない。

意図を疑う・誰が得するのか

さらに我々は#KuTooが衆院厚労委員会で取り上げられたことそのものに対して懐疑的である必要がある。我々は同じような出来事が過去に起きており、それによって誰が得をしたかということを覚えているはずだ。それはすなわち2016年の12月に山尾志桜里衆議院議員が国会で取り上げた「保育園落ちた日本死ね」である。ここでも山尾は「日本的」なる旧態依然vs働く女性、世代間の衝突、ホモソーシャリズムの打倒の文脈でリベラルな立ち位置から発言し、一気に知名度が上がった。そのことを同じ民主党(立憲民主党となったが立場は基本的に同じだろう)である尾辻が学んでいないはずはない。しかも#kutooはこれに利用されたとナイーブに考えるべきですらない。この石川優実という発起人も芸能人なのでありChange.orgというプラットフォームを使って、尾辻も巻き込んで(計画的な共謀ではなかったかもしれないが)バズりに行っているという解釈も可能である。

社会を変えようなどと考えるべきではない

これは私が常々言っていることでもあり、私の本音の部分でもあるのだが、少なくとも私は自分の周りの社会を変えようなどと思ったことはないし、世の中の多くの人たちもそう考えるべきではないと思っている。なぜか。社会を変えようと思うには人生は短すぎるからである。

いじめられている子供がいれば、学校やクラスの生徒を変えようとするのでなく、転校すべきなのである。ハイヒールが強制されている職場で働きたくないのであれば、社則を変える努力をするのでなく、転職すべきなのである。社会や環境は、自分が変えようと思うには大きすぎる。そして、それが簡単に変わるものならば、もうそれは変わっているはずなのである。繰り返すが、ハイヒールやパンプスの強制が不合理なのであればそれはもう変わっているはずなのである。それが変わっていないということは、そこに利益を見出している人がいるということであり、その人たちの既得権益を奪おうとすることは大変な抵抗を見ることになるだろう。そんな下らん争いに人生を費やすなんて言うことは無駄すぎると言っているのである。しかも、あなたの署名は、ハイヒールやパンプスとは別の利益をこの#MeTooに見出している別の人たちに利用されている。そんなことに、私も自分の人生を使いたくないし、あなたもそうすべきじゃない。もう一度言うが、そんなことに時間を費やすには、人生は短すぎる。

では何をすべきなのか?

我々が力を注がなければならないことは、環境を変えようと思った時に変えられるだけの能力・資力を備えるということなのである。例えば、女性にとって日本が住みにくいところなのであれば、海外に移住すべきなのである。しかし、海外に移住するためには、語学が必要だし、どこでも働けるだけの能力が必要である。それを身に着けるための努力こそをすべきなのだと言っている。そういうことは、自分でコントロールできることだ。我々は自分たちの時間を、自分の意図でコントロールできることに費やすべきなのであり、自分でコントロールできないことを恨んでくよくよしたり、無理に変えようと思ったりするべきでない。

私が環境問題や選挙に興味がないのも、そのためである。世の中は残念ながら平等にはできていない。大事なことは、自分がババを引かないことなのである。例えば、地球温暖化が仮に本当のことで、海面が上昇して東京は海底に沈むことになるのかもしれない。本当に大事なことは、環境問題を声高に叫び、温室ガスの排出の削減の努力をすることではない。それが出来ていないのには理由があるはずであり、それが解決可能なものなのだとすればそれはすでに解決されているはずだから。そして、環境問題に利益を見出している人にあなたの努力は利用されることになる。だから、大事なことは、自分の家を上昇する海面の影響を受けないところに立てることなのである。そのための努力こそを、我々はすべきなのである。なぜなら、世界はいずれにせよ滅びるのであるから。

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