見出し画像

[全文無料: 小さなお話 012] そうだ 京都、書こう。

[約1,900文字、3 - 4 分で読めます]

東京の世田谷という、竹藪のはびこる武蔵野の田舎でぼくは生まれ育った。

そのように語り始めると、昭和以前の文士の響きが感じられる気がして、佐藤春夫の「病める薔薇(そうび)」を初めて読んだときのことを思い出す。

東京暮らしに疲れた和歌山生まれの佐藤が、武蔵野台地の南のはしで過ごした薄明の日々を描いた、大正時代の小説である。

けれどもぼくが書く文章は、カート・ヴォネガットを下手に真似た誇張をそこかしこに散り嵌めた類いの、いささか軽薄な表現をもってよしとするものなのだから、その点には重々ご注意の上、行の間、文字の間まで矯めつ眇めつしながら読んでいただくのが安全なやり方というものだ。

つまりである。昭和三十年代の前半に、今や谷根千などと称されることになった文京区の下町の地域の端っこの、動坂上の商店街から母が嫁に来たときには、ぼくの実家の前を通る細い道を挟んだ向かいの目黒側には、確かに竹藪がぼうぼうと茂っていたらしいが、ぼくが育った昭和四十年代ともなると、その記憶には藪の名残の竹の茂みは確かに存在するのだが、そこに武蔵野の面影を感じるほどのひなびた空気があったというわけではない。少年の日のぼくにとって、当時の世田谷はすでに自然の少ない、平凡な住宅街にすぎなかったのだ。

こんな話を長々とやっているのは、昭和が四十路に差し掛かるころの世田谷というものは、武蔵野の雑木林でこそなかったものの、世田谷ボーイがお洒落な車を走らせるような場所でもなかったのだという事実をいくばくかでも、読者のみなさんと共有したいがためである。

七十四年前の敗戦以降に話をしぼれば、空襲の焼け跡から復興し、高度経済成長で大都会になったあとの東京しか知らないぼくにとっても、昭和から平成にかけてのバブルの時代と、平成も幕を閉じる現在の浮つく景気によって、昭和は遠くなりにけり、渋谷の駅前もすっかり作り変えられて、もう見知らぬ街になってしまった。

子ども心に不思議だったのは、東京以外の日本中の人々が、そうした東京という空間に、どういうわけかあこがれを持っているらしいということだった。東京のにごった空気を朝から晩まで吸って育った人間には、こんな車ばかりの街、確かに便利かもしれないし、退屈はしない街だけども、どこにそんなに人を惹きつける魅力があるのかねと、はてなマークが時折り頭に浮かんだものだ。

そんな世田谷原住民が、大学でコンピュータのソフトを勉強して卒業し、会社に就職をするが、二年も持たずに音を上げて、晴れて自由な身分になったときのこと、その頃流行っていたパソコン通信という、インターネット全盛の今の時代から振り返ってみたら、子どものおもちゃとしか言えないような、音も画像も存在しない、テキストだけの多方向通信システム上で、たまたま京都の専門学校の求人広告を見かけたもので、その男の心には、にわかに京都に住みたいという気持ちが湧き上がってきた。

けれどもその専門学校の担当者は、東京からわざわざ京都に来ようという怪しい男に関心を持つことはなかった。つれない返事にがっかりした男は、気を取り直して京都の友だちに、専門学校の教師のアルバイトでもないだろうかと相談をした。

すると友だちは大阪の学校ならあるよと言う。世はまさにバブル時代の絶頂期を迎えており、コンピュータ関係の仕事がそろそろ花形にもなりそうな勢いを得始めた頃合いだった。あっさり再就職ができそうな流れなのである。そのとき男は何を考えたか。

大阪か、大阪には別に住みたくないな。

男はそう思ってその話を断り、その後も東京近辺でうろうろと生活を続けた。佐藤春夫の「病める薔薇」を読んだのも、その後市川に移り住んだときのことである。

今思えば、大阪と京都は近い。京都に住んで大阪に通えばよかったのだし、大阪に住んで京都に遊びに行ってもよかったのだ。けれどもそのとき三十前の、オタクでコミュ障な若者には、そんな知恵が働く余地はこれっぽっちもなかった。そもそも京都に住みたいという気持ち自体が、所詮浮わついた思いつきにすぎなかったのだろう。人生自体が浮ついた思いつきででき上がっているような男なのだから、こればかりはどうしようもない。

そういうわけでこの文章は、そうだ京都行こうと思いついたのも束の間、瞬きをする間もなくあっさりと行くことをやめてしまった男が、ちょっと京都について書いてやるかと思いはしたものの、実際には京都のきの字も書くまでもなく終えることになる運命の、一瞬の逡巡を刻印したお話ということになる。

そしてそれは同時に、とよあしはらのちいおあきつしまのみずほのくになるみまさかの、二千七百年にもほど近い、千代の八千代の歴史を誇ると人の言う、大和文明の一大拠点である西の魔都について、世田谷野沢の竹藪育ちの人間が意味ある何かを書くことをあえてしないことによって、なにがしかの物語を書き記そうと試みる、記録と言うにはいささか回りくどい、不存の備忘録の出発点なのである。

[2019.1.19. 西インド、プシュカルにて]
[2019.3.6 改稿]

※ヘッダ画像は世田谷の実家の近所の庚申塔です。

☆有料部には何もありません。投げ銭としてご購入いただけますと、跳び上がって月面宙返りをして喜びます。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 108

いつもサポートありがとうございます。みなさんの100円のサポートによって、こちらインドでは約2kgのバナナを買うことができます。これは絶滅危惧種としべえザウルス1匹を2-3日養うことができる量になります。缶コーヒーひと缶を飲んだつもりになって、ぜひともサポートをご検討ください♬