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[全文無料: 小さなお話 010] 生きるのが面倒だったあの頃

[約3,000文字、5 - 6分で読めます]

西インドのプシュカルという砂漠のほとりの小さな街で、イタリアから来たブロンドの天使に会いました。

でもそのことを書くのが、どうにも今のぼくにはむずかしい。

それでその話の前に、生きるのが面倒だったあの頃のことを聞いてほしいんです。

今から15年ほど前、ぼくは奥さんと二人、東京江戸川のアパートを引き払って日本を離れ、旅に出ました。40歳のある夏の日のことです。

それまでも週三日しか働いていませんでしたが、常勤で働いたことは大卒後の二年弱しかなく、そのあとは適当なバイトで食いつないでいたぼくにとって、週三日、月十万円ちょっとでつつましく暮らす生活は、十分に安定したものでした。奥さんのたっての希望で、思い切って仕事をやめて、一年間のアジアを巡る旅に出たぼくの心は、明るい夢でいっぱいでしたが、心のどこかにはいくばくかの不安も抱えていたに違いないと、今にして思います。

神戸から船で上海に渡り、中国を鉄道で南下、雲南からチベットに飛んだ秋の頃には雪がちらちらと舞う日もありました。そこからさらにヒマラヤを飛び越えてネパールへ。そして陸路でインドに入り、カルカタで正月を迎え、タイに渡り、ラオス、カンボジアにも足を伸ばしてアジア尽くしの一年を過ごしたのです。

最初は楽しく過ごしていた二人の気ままな旅が、どこからよじれておかしな空気を醸し出すようになったのかは、はっきりと思い出すことができません。

理由は今となっては、わざわざ考えるまでもなくはっきりしていて、要するにぼくが、人の気持ちが分からない、未熟で三歳児のようにわがままな人間だったからです。

よじれてしまった二人の関係を抱えて、日本に帰った当初の八方塞がりな気持ちを思い出すと、腹の底から笑い飛ばしてやりたい想いにかられます。

日本に帰ったぼくら二人は、東京亀戸のウィークリーマンションを仮の宿としてアパート探しをしましたが、一年を過ごしたアジアとはまったく違う、どんよりとした日本の空気の中で、思うように部屋を見つけることができません。

たかが部屋探しが難航しているというだけの話ですが、仕事も探さなければいけないし、何より日本の空気が息苦しくてしょうがないのです。帰って早々、亀戸の街になんとも言えない異臭を感じたのも記憶に焼きついています。

その頃は「逆カルチャーショック」という言葉も知らなかったので、自分が生まれ育った日本に帰ってきたのに、日本の空気の息苦しさにいてもたってもいられない気持ちになっていることの意味もわかりませんでしたし、どうやればその窮地を脱することができるのか、考えようもないままにじたばたする毎日だったのです。

そこでうちの奥さんが機転を効かせて、一旦沖縄に逃げることにしました。急な話だったので安い飛行機が取れず、正規料金で大枚はたくことになりましたが、それはしかし十分に意味のある出費でした。

沖縄は国としては日本の一部ですが、大和の文化とは違う、アジアのおおらか空気が流れています。渡嘉敷島のコバルトブルーの海に癒されて、一週間ほどしてから東京に戻ったときには、次の一歩を踏み出すための力も取り戻し、ぶじ千葉市川におんぼろ格安のアパートを見つけることができたのです。

住む家が見つかってほっとしたぼくは、とにかく働くのが嫌いなもので、ほとんど仕事を探すこともしませんでした。

買い物に出ると昼間から缶チューハイを飲んでいました。泥酔するほどまでに飲み続けるような本格的なアルコール依存ではありませんでしたが、ボーダーラインで綱渡りをするような毎日だったのです。

総武線の市川の駅まで行くと、南口にただでインターネットが使える市の施設がありました。

seesaa.netに作った「いきるのメンドウ」という誰が見るわけでもないブログに、そこで一人静かに、日々の鬱々とした気持ちを放り投げていたときのことを、今日久しぶりにくっきりと思い出したのです。

今日の記事では、一週間ほど前にイタリアから来たブロンドの天使に、ここ西インドのプシュカルで出会うことができたたという、幸せな話を書こうと思ったのですから、心は浮き浮きとしてよさそうなものですが、なぜかこのように重苦しい話を書くことになってしまうのが、ぼくの心のどうにもねじくれているところです。

この天使の話は絶対素敵な文章でつづりたい。だけれども今のぼくの実力では思うほどには上手に書けないかもしれない。そんな不安を感じると身動きができなくなって、あー、もー、生きてるのってホントに面倒、人生丸ごと投げ捨てたい、という投げやり感丸出しの、最低空間落ち込みモードに突入してしまうのです。そうです、厨ニ病などという言葉が存在しなかった太古の昔から、その死に至る病をこじらせまくったまま生き続けている人間なんです、ぼくという存在は。いえ、人間というよりは、シーラカンスのような死にきれない化石の妖怪なのだと言ったほうが的を射ているというものでしょう。

それで素敵な天使の話はお預けにさせてもらって、今日はぼくのやさぐれ節を聞いてもらっているわけです。

そうやってロクに仕事を探すわけでもなく、日々をのらくらと過ごしていたぼくは、それでも半年ほどするうちに、旅に出る前に働いていた福祉の作業所で仕事がもらえることになりました。とはいえ、たった週一の仕事です。アパート代がやっとの稼ぎなのですが、あとは奥さんの貯金に頼って、二人とも悠々と暮らしていたんですから、のんきなものです。

……と書いたならば、常識はずれではあっても、おとぎ話のようないい話にも思えるかもしれませんが、現実はそんなに生易しいものではありません。

週一しか働かず、奥さんの貯金を食いつぶしているだけなのに、そんなことはお構いなしにのほほんとしているぼくに、うちの奥さんは、優しいのか我慢強いのかアホウなのか、何一つ文句を言わないので、本当のところ彼女が抱える不安にこれっぽっちも気がつくことなく、日々を無為に過ごしていました。

その裏で言いようもない様々な葛藤が渦巻いていたのは当たり前すぎてわざわざ書くのも愚かなほどの話です。

ちなみにこのとき、ぼくが完全に無為に過ごしていたかと言えば、そうとは言い切れない部分も言い訳程度にはあって、知り合いがやっているNPOでバイトを募集していたのに手を上げて、これまた週一だけ働きましたが、ぼくの仕事内容が気に入ってもらえなかったようで、半年かそこらでその仕事は終わってしまいました。

また「やっぱり日本で暮らしたくない」という奥さんの希望に応えようと、自分が海外でできる仕事はないだろうか、と考えました。

会社勤めはできないデクノボーのぼくですが、塾や専門学校で先生をした経験はあり、日本語教師ならできそうな気がしました。

そこで日本語教育能力試験という資格試験を受けて資格を取り、いずれ日本を離れた時のために備えました。

そして、このままではどうにも将来行き詰まりが来そうだと予感したぼくは、起死回生の一手のつもりで「作家にでもなろう」と世間を蝶絶なめきった決心をします。

今はなき、はてなダイアリーを使って細々(ほそぼそ)と文章の練習を始め、その傍ら新人賞の応募を目指して少しずつ創作も続けました。

しかしもちろん、人生はそんなに甘いものではありません。初めて100枚の「大作」を書き、自分では大いに満足して、なんらかの成果が当然得られるはずだと、起こりそうもない夢を見て応募したものの、丸っきり素人同然の人間が書いた適当かついい加減な小説が、一時選考にすらかすりもしなかったのは、妥当な結果といえます。しかしながら、その時は本当にがっくりと肩を落としたものです。それはそれはがっくりと、体全体が地面にめり込むほど落胆して。

実現の確率がどれくらいあるか考えもせず、夢だけを膨らませて結局失敗し、打ちひしがれて自己憐憫に浸るのがぼくの悪いクセです。

そのうち奥さんは「これ以上わたしは日本にいられないから」と言って、ぼくを置いてタイに旅立ってしまいました。

絶望的な状況だと思いますか?

でもぼくは、少しほっとしたんです。不安にさいなまれながらも、一人孤独な奮闘を続けられる貴重な時間を手にしたんですから。

さて、今日はいつもより少し長めになりましたので、その後二人がどうなったのかは、また別の機会に話すことにいたしましょう。

[2019.01.05 西インド、プシュカルにて]
[2019.02.22 改稿]

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