旧帝大を出て就活失敗した私が思う、「勉強」の意味

私は旧帝国大学、国立大学の出身です。

子供の頃から両親は教育にお金をかけてくれて、もともと頭はいい方ではなかったのですが一浪してやっと入学できました。

大学に入ってからはさらに頭のいい人にたくさん出会い、刺激的だったのですが、その一方で「元々頭のいい人にはどうやったって敵わないな」という気持ちも生まれました。サークルでも、私が意見を出さなくても良い意見はたくさん出てくるし、諦めてサボってしまうことが多かったように思います。

そんな中、就活を機に社会の荒波に放り込まれました。

何がしたいかも分からず、ただの驕りで超のつく大企業を受けては落ちる日々。唯一今の会社にだけ内定をもらいました。地方の製造メーカーです。今は仕事も充実していて、必ずしも失敗ではなかったのかもしれませんが、就活の苦しみや時間のかけ方を振り返ると、やはり挫折といわざるをえないと思います。

私の出身大学よりも入りやすい大学なのに、顔が良く話し上手で器用な人ばかり内定をもらっているように見えました。旧帝大に入った意味はあったのでしょうか?毎日自習室にこもって勉強していた意味は?

そんな思いをずっと抱えていたのですが、最近見た映画ですこしその思いに変化がありました。

「パットマン 5億人の女性を救った男」というインド映画をご存知でしょうか。

舞台はインドの田舎町、主人公の男性は妻が生理のたびに別の部屋に隔離されひっそりと過ごしているところや、不潔な布ナプキンを使っているのを見て安価なナプキンを作りたいと思うようになります。ナプキン作りに集中するあまり、女性に生理のことを聞いたりナプキンを渡したりしたため、田舎町で有名な変人の扱いを受けてしまいます。そんなとき救ってくれたのが、首都デリーでMBA取得のため勉学に励む女性でした。そのことをきっかけに、彼のナプキン作りにかける情熱が認められたのです。

女性が当然のように差別されていたり、彼の取り組みが理解されない様を見ているともどかしく、理解のある人々に出会ったときには本当に救われるような思いになりました。

知性は、徹底的に客観的で合理的であろうと努めます。「昔からそうだったから」「なんとなくその方が良い」などは通用しません。そのため、知性は、権力に抗うためにも使うことができると思います。徹底した知性は弱い立場の人を救うことができる。

高学歴でなくても知性を持つことはできますが、「自分は頭が悪いから、知らない分からない」と言い訳できない高学歴の人たちは特に、日々社会や政治に対し知性で向き合っていく必要があると思います。