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「教える」より「知りたいと思わせること」が大事

一般的に小学校から学校に行き始め、最低でも9年間は学校に通います。
では、学校で教わったのは何でしょうか?
算数の問題の解き方でしょうか?授業時間に耐える忍耐力でしょうか?勉強することの習慣でしょうか?

答えは人それぞれだと思います。

では、学校の先生が教えたのは何でしょうか?
難しい問題の解き方でしょうか?社会のルールでしょうか?

おそらく、多くの人にとって授業の内容そのものにはあまり記憶がないでしょう?
単元の内容は覚えていても、どういう手順で教わったかまでは覚えていない人が殆どでしょう?

素晴らしい授業とは?

これは私の主観ですが、2つのパターンがあると思います。

【記憶に残る授業】
1つ目のパターンは、記憶に残る授業です。
どういうことかといえば、教科書通りのメソッドではなく、教える内容を別のメソッドに組み込んで教えるなどの工夫がある授業をするということです。
例えば、私が小学校の5年生の時の担任の先生は、実に変わった先生で、よくディベートを授業に取り入れていました。
半ばむちゃくちゃだと感じることも多かったですが、あれはあれで面白い授業でした。
ディベートはAとBに半々になるように分かれて、それぞれの主張をし合います。この時、自分はAの方が正しいと思っていても、Bチームになった場合は、Bが如何に正しいかを主張するというルールで行う。というわけで、「実はそうは思ってないんだけど。。。」という思いを抱きながら、進めていくこともあるわけです。
この「違うと思うけど、自チームの主張が正しい」という矛盾したことを主張して相手を打ち負かすことは、むしろ記憶に定着します。理屈では説明しにくいですが、大雑把にいうと「普通じゃない」からです。普通じゃないということは、記憶に定着しやすいんです。この感覚は、同じ語呂合わせでも、綺麗な語呂よりも、変な語呂の方が覚えやすいのと似ています。通り一遍でないことほど、記憶に残りやすいのと似ています。

一番記憶に残っているのは、次の図についての授業です。
同じ大きさの四角の部屋に6人の人を模した丸が6つ描かれているAとB2つの図について、「どちらの方が窮屈ですか?」という問いだ。

どちらが窮屈だと思いますか?

その時私はBチームにいました。主張としてもBの方が窮屈だとしました。なぜなら、Aは誰一人として窮屈な状態にないが、Bは最低でも角の2人は動くことができないため、窮屈と感じているという主張をしました。

この図で何を教えたと思いますか?

この授業は算数の密度の授業でした。同じ面積に同じだけの人が詰まっているから、どちらも同じだけの窮屈さ(密度)というのが正解のようです。

納得がいきませんでしたが、結果として、この授業は鮮明に記憶することができました。(まぁ普通にやっても密度くらいは普通にわかったと思いますが。。。)

こういった、如何に論理的に正しさを主張するか、如何に相手の論理の綻び(ほころび)を突くかというやりとりは、しっかりとした論理立てをしないといけないので、記憶に残る授業であると同時に、論理的思考が身につくという一石二鳥な面があります。


【知りたくなる授業】
私が個人的に素晴らしいと思う授業の2つ目は、教科書に載っていることを教えるのではなく、「教科書に載っている内容を知りたくなる」授業だと思います。つまり、「知的好奇心を刺激する授業」です。

これについては、具体例はないのですが、普通の授業は、先生が生徒や児童に「教える」ことに重きが置かれていることが多いです(最近は対話型の授業も増えていると聞きますが、その話は今回は触れないことにします)。それに対して、「学ばせる」ことが大事ということです。

一方的に教えるだけなら、ビデオ学習でも同じです。予め撮影した授業映像を放映して、それを見ている生徒や児童が、ちゃんと聞いているか、寝ていないか、メモをとっているかを見るだけで十分なのです。それの方が余程、一人一人を見る時間が増えて、生徒のことを知ることができます。でも、そんな授業は本当に身につく授業かといえば、私はそうとは思いません。

身につくというのは、受動的ではダメなのです。如何に能動的に取り組むかが大事なのです。

では、能動的に取り組むようにするにはどうすればよいでしょうか?

それは知りたいと思う気持ちを高めてあげることにあると思います。

趣味の話になるとトコトン突き詰めていくでしょうが、勉強(特にさせられていると感じる勉強)では、モチベーションの主体が「知りたい」ではなく、「怒られないようにする」になりがちです。

でも、それって学ぶことに対してネガティブな見方しかできないということになります。

つまり、ゴールは「とりあえずやる」ことであって、決してそれ以上となることはないです。

実にもったいないですね。
ではどうすれば、「自ら知りたい」とすることができるでしょうか?

1つの方法として、一気に教えず、答えを自ら見つけ出す作業をさせることが挙げられます。
つまり、教えるのはゴールに行き着くまでの各ステップに至るヒントに留めるということです。

答えを聞くのと、ヒントを聞いて答えを導き出すのでは、全くもって記憶の定着が違います。
やはり考えるというステップは大事です。
そして、自ら考え、答えを見つけ出せたという実感を得られることによって、その問題への興味が強まります

後は、個々に合わせて、次の問題を繰り出して行けばいいのです。

ただ、ここに学校教育の限界があります。
それは何か?
クラス単位で授業を進めるというシステムであるため、児童・生徒個々に合わせて進めることが事実上不可能なのです。
教育のジレンマですね。

でも、それを実現できるところは他にもありますよね?

家庭学習(教育)で家族(親兄弟)が苦手に付き合えばいいんですよね。よくテレビのドラマやアニメなどでも、成績が落ちると叱られるという光景を見かけますが、子の成績が落ちた時こそ、叱らずサポートする体制が家庭にあるといいと思います。

なぜなら、「成績が落ちた→叱られる→叱られないように勉強する→その科目が興味の対象から叱られないようにやらなければならないものに変わる→勉強が苦になる→さらに成績が落ちる」という負のスパイラルを辿ることが想像できるからだ。

成績が上がった時は大いに自慢させそれに対して褒め、下がった時は一緒に考えられる時間を取れる家庭が一番大事だと思います。

今回のまとめ

変わった経験を伴うことで記憶に残りやすくなる

考えてわかった知識は定着しやすくなる

義務ではなく主体的(能動的)に取り組んだことの方が記憶に残りやすい

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