"体験の消費"と"デザインへの依存"

“デザインが世界を覆い尽くしつつある”

住むところ、つかうものごと、人とすごす時間。

消費の対象はモノから体験へと拡張され、暮らしの大半が他人に“設計されたもの”の中で進んでゆく。

そのせいか、心地よくない経験をしたときには、“デザインが良くない”と感じてしまうようになった私たち。

いつからか、暮らしは他人がつくるようになった。

人間関係や時間、空間、身の回りの全てがデザインの対象であり、何かがデザイン“される”ことで、豊かになれると誰もが認識している。

しかしこの状況は、生活者のデザインへの依存とも呼べる。

デザインが世界を覆ってしまうことで、
何もかも誰か他人が作ってくれるおかげで、
人間的な能力の退行を引き起こしてるのではないか。

体験を制御し始めたデザイナー

昔のデザイナーは生活者が自分で”暮らす”ために必要な”どうぐ”を作っていた。
そして人々は、それらを単に使うだけではなく、うまく組み合わせながら工夫しながら、曲を奏でるように生活を編集していた。
子供がおもちゃを広げられた状態から自分で遊びかたを見つけていくように。

しかし、今ではモノはあふれかえり、それ単体ではもはや売れなくなった。
そのために、UX(User Experience)デザインという分野が普及し、モノやコトを通した体験が設計され、それをパッケージして生活者に届けられるようになった。

それに皮肉を込めて言うならば、こうしたらあなたはうれしいでしょ、楽しいでしょ、簡単でしょ、快適でしょ、感動するでしょ、といった感じ。

デザイナーはいつも課題解決に飢えている

なんでも解決しようとしてしまう。
悲しみや不安、面倒はすぐさまデザインの対象になる。
そして感動とか、良い時間とか、綺麗なところにばかり目を向けてしまう。

そうして、情報や意味、文脈、体験、全てをデザイナーが制御し始めた。

作られた体験を消費する生活者

体験がレディメイド化され、その消費を積み重ねることで生活が進んでいく。
知らなくても、感じなくても、考えなくても、暮らしがオートマチックに成り立っていく。

時間の中に自分がいるのではなく、目の前を時間が流れているような感覚をおぼえるときがある。なんというか、暮らしに実体がないというか。

今の時代、検索すればなんでも出てくる。
お金を払えば、価値が買える。

そのおかげで、自分で意味や価値、体験を考え感じることを忘れてきた。

モンスターペアレントやクレーマーの問題も原因はそれだろう。
何もかも、作り手が自分の周りの課題を解決してくれていると思っている故に、責任転嫁がおこるのだ。

お金を払っているんだからちゃんとしてよ。
私たちは”消費する者”たちなんだからと。

デザイナーと生活者の関係性

人に合わせてものを作ることで喜ばれるデザイナー。
デザイナーが課題を解決してくれることで喜ぶ生活者。

互いに納得のいった社会の関係が成り立っているように思えるが、
この大きな関係性にこそ、根本的な課題があるように思える。

こうした問いを見るには、二つの視点がある。
一つはデザイナーがすべきことを論じること、そしてもう一つが生活者がすべきことを論じることだ。

前者についてはある程度、解に予想がつく。
デザインはユーザーに対して、上から下に何か与えるのではない。
生活者に完成品を与えるのではなく、自身で体験を見つけるための補助線を引くことであることだろう。
対象を弱者として捉えず、彼らの主体性への配慮を持って自身の役割を定義すること、そしてデザインしすぎないことが重要だ。

一方後者は、自分の中で答えは見つかっていない。
与えられたものを単に消費するのではなく、生活者自身の能力や感覚、思考を元に生活を編集するには、どうすればいいかということ。

この問いへの答え方の一つは教育だ。
これまでの”与えられるのみ教育”こそが、私たちのような”受け身の人間”を育てあげてきたのだから。
教育を学ぶ人たちの中では一般的なトピックだそう。

しかし、ここでは規模の大きな社会全体へのアプローチとして教育システムについて論ずるのではなく、より小さく。個人単位でのアプローチを考えたい。明日からできるくらいの小さなスケールで。

体験を作られずとも自分でその価値を感じ取る力に焦点を当ててみる。

エクスペリエンス(体験)を感じる力

前提として、体験が生まれるのは、他人に設計されたものからだけではないことを忘れてはならない。

過去の記事を読んでる人には、またかと思われるかもしれないが、フィルムカメラ体験を例に出す。

スマホはなんでも綺麗に、撮りたいもの全てを記録し、一覧して見ることができる一方、
フィルムカメラは限られた枚数しか取れないことや、現像までの時間を待たなければならない。
そうした時に、自分はその中で何を撮りたいかを思考し、どんな写真が撮れているかを想像する、そして内省する。

これはカメラメーカーが故意に不便性による体験価値を設計したわけではない。
ユーザーが自身で被写体を考えることや現像を待つことへの体験の価値を見いだしている。

その体験のために設計されたわけじゃなくて、そうした道具の特徴を理解した生活者が自身で体験を見つけている。

体験を感じる能力と感覚を持っていなければ、
いくら良い体験が他人に設計されようとも、ただ体をすり抜けてしまう。

想像と内省無くして経験の価値はない。
ふーん、これがいい体験なんだなぁ、で終わってしまう。

確かに体験は綺麗で整頓されているけれども、心なしか違和感を感じてしまう。

体験の設計も重要であるが、人々の感覚とマインドセットをいかに鍛えるかが重要なテーマになりうる。

ここからは、これまで述べてきた問いについて、フィンランドの暮らしの中で見つけたヒントを書いていく。

人と自然とデザイン

人工物であるデザインと相反するもの、それが自然だ。
自然と人の関わりから体験とそれを感じ取る能力について考えよう。

誰にも設計されていない圧倒的な存在である自然と対峙するとき、
人々は五感をフルで動かして、エクスペリエンスを感じ取る力を試される。

触り、嗅ぎ、味わい、聞き、見る。
それらをフルで活用して、今に意識を向ける。
もちろんそこには、他者の存在も重要であるが、その体験はデザインされていない。

ここで僕が今住んでいるフィンランドの自然と人の関わりについて感じたエピソードを一つ紹介する。

"デザインされていない時間を自ら編集する人々"

ヘルシンキ近くにヌークシオパークという規模の大きな公園、森がある。
休日は多くのフィンランド人がハイキングに来る。それも大きなリュックサックに食料やキャンプ用品などを詰めて。
どうやら日本の山ガールブームのような流行とか、一部の人たちの趣味ではなく、国民的な文化らしい。
感じたことはテーマパーク化されていないということ。

多くの人が集まる場所なのに、コンビニもなければ、レストランなんてなおさら。
日本で自然を楽しむというと管理された施設で、手ぶらでBBQ!! 3時間 5000円~といった自然までもがパッケージ化された体験が売られる。

しかしフィンランド人にとって、自然はデザインに介入されるべきでない領域のようだ。
そこにカフェでも作ったらとか儲かるよね〜なんてことを冗談混じりに話していたのだけど、それがいかにも日本人的かもしれない、そう思った。

自然と自分が向き合うことは、"デザイン"されていない時間、体験を自分で編集している。
もちろん、作られらた道具は持っているのだけれども、それが“過剰”ではない。
最低限の機能性を持ったものをうまく組み合わせ、自分自身で森で過ごす時間を編集している。
薪を割り、火を焚き、コーヒーをその場で沸かし、スーパーで買ってきたウインナーを焼く。
面倒だけれども、それが彼らの楽しみ方らしい。

日本のグランピングのような、煩わしさを取り除いて“つくられた時間”の消費スタイル、良い所取りの自然体験とは違う。
"良い体験"とは綺麗な部分にだけ光をあてることではない。
僕には、彼らはエクスペリエンスを感じる能力に長けているように思える。



とりあえず今日はここまで。
問いに対するヒントがフィンランドの暮らしの中で少しずつは見つかるが、その点はまだつながっていない。

多くの批判をしているように聞こえるかもしれないが、今まで書いてきたことはほとんど自分に対する戒めだ。
良いデザイナーである前に、自分は一人の良い生活者でなくてはならない。
自身の能力と感覚を研ぎ澄ませた上での良い消費を大事に生きたいと思う。


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藤 匠汰朗

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