デザイナーになることをやめた話

自分は何のためにはたらくのか。
あなたは何がしたいのか。

僕らの世代は誰もが社会という舞台を目の前に、この大きな看板を突き立てられる。

その1人である僕が、デザインを学べば学ぶほど、自分の肩書きはデザイナーではない気がしてきたというお話。

"究極のそもそも論"

それを売って、その人が本当に幸せになるのだろうか。
その小さな不満を解決しても、また別のそれが出てくるだろう。
すぐに当たり前になって、飽きたらすぐに新たなもの。
欲しいと言われたものは与えることは、
ドラッグを与えるようなものではないのだろうか。
少なくとも、幸せとは快の連続ではないはずだ。
だとすると、欲望を叶え続けることが、果たしていいことなのか。
その人たちが選んでくれれば、それでいいのか。
その人たちが欲しているのではなく、ただ欲させているだけじゃないのか。
彼らの欲望はいつも正しいのだろか。
それを叶え続けて築かれた今は、以前より幸せになっただろうか?
もしそうでないとすれば、今までの都市や産業、技術の発達に何の意味があったのだろうか。

こんな、そもそも論が止まらなくなると、人間とは何か?幸せとは何か?みたいなところまでいってしまう。もちろん、実際にそうしたところにも興味はある。哲学や人類史といったところ。

そうした視点から問いを立てることは重要だとも思っている。誰もが一度は考えたことがあるのかもしれない。でも、そんな大きなことには目を瞑って、目の前の“仕事”をしろと言うだろう。考えすぎって言われるけれども、考えないといけない時代だとも思う。

もうイノベーションなんて必要ないからさ

ユニクロの服にMUJIの文房具、無難で普通、「それでいい」なんてコンセプトが受け入れられる時代だ。
正直これ以上、生活にもう新たなモノもサービスも必要ない。

便座の蓋くらい自分で開けられるからさ。
別に24時間コンビニ開けなくいいからさ。
宅配そんな急がなくていいからさ。

それが当たり前になって、そこに課題が見つかって、さぁまた次の課題解決。
デザインの隙間を見つけては、他人と違うものを生み出し、新しさを追い求める。
次の、そして次のものが人々を幸せにすると信じ続けているのだろう。

でも、自分の生活で言えば、物も環境も最低限揃えばそれでいい。
それくらい自分でやるよ、もう大丈夫だから、という感じ。
"人生の最適化"に危機感すら覚えている。
今あるものに自分たちで意味を見出していくことの方が大事だから。
互いによく知る人たちと生きていく時間の方が大事だから。
体験とか価値とか意味とか、自分で作っていく方が大事だから。
時間をどう消費していくかのほうが大事だから。

経済なんて"成長"しなくていいからさ

そして残念なことに、日本の産業発展とか生産性とか、さして興味がない。

そんなことを思っている僕は、ありがたいことにも留学のお金を国と企業様から支援してもらっている。返済不要の月16万。これは感謝に尽きる。でもその応募条件は「これから日本の産業発展に寄与する」ことが条件だった。面接や書類の審査は、それっぽいことを並べて綺麗に装丁した。

だけど正直、そんな想いは全く持っていない。
残念ながらこれっぽっちも。

だって、成長が全てを解決するなんて思ってないからさ。
需要を生み出すための策なんて、何も解決しないからさ。
GDPなんて伸びなくていいからさ。
いつまでそんな指標で日本を測っているのさ、という感じ。

もちろん、この社会を良くしたいとは思っている。
この生きづらい暮らしを、根本的なレベルでどうにかしたいとは思っている。

けど、その方法が少なくとも産業の発展じゃない、成長じゃない。

今まではそれが幸せに直結したかもしれないけれど、少なくともこれからはそうじゃない。
ただ、それに気づいている、察しているだけ。
"欲のない悟り世代"なんて呼んでくれるな。

供給が需要を追い越している今、
産業が成熟化しはじめている今、
だから、何を求めて生きていくのか、
それが問われているということだ。

そんな状況に直面しておいて、成長やイノベーションを叫ぶのはナンセンスだ。

デザインを学び、どう自分がはたらくのか

そんな場面に立たされている僕ら。
でも別にお先真っ暗だなんて思っちゃいない。
成長しない社会は、退屈で変化のない社会ってことじゃないから。
そして、今の産業を食い止めろ!なんていう過激派でもないから。

誰もが自身の信念の元にはたらいている。

"これ"で社会が、生活が良くなると。

それを叶えるために広告が使われ、マーケティングが存在する。
それを非難する権利は誰にもない。

じゃあ、自分がどの立場に立つかが問題だ。

少なくとも今の産業構造の中で、作り手の立場には立とうとは思わなくなった。
だって、需要の創造に勤しむデザイナーなんてごめんだから。
もちろん、良いと思うデザインも世の中にはたくさんある。
暮らしの中で個人が意味を見出すような体験を設計することもできるはずだ。

だけど、デザイナーという立場からそれを提案しても、生活者が変わらなければ、何も変わらない。それは淘汰されうる選択肢の1つにすぎないのだ。

自分の学びはプロダクトデザインから始まり、サービスやソーシャル的なことまで広げてきたけれど、ある時、つくらないことも考えた方がいい、そう思った。

だから、自らが良い作り手を目指す前に、良い消費者、生活者を一人でも増やす、という立場に立ちたい。

これまでの社会を築き挙げてきた責任は、生活者側にもある。
売れたものがいいもの、ってわけじゃあない。

自身の価値観を持って生活を作り上げていく人々、新たなものを消費せずとも自分で意味を見出していく人々。

生活を"編集"していく人々とでも言えるだろうか。そんな人たちを増やすことが、社会を豊かにすると思う、それが僕の考え。

余計なお世話と言われるかもしれない、自分で生活編集してるよ、と。別にそういう人々を諭したいわけではないが、ただ、少しばかし大学でデザインを学び、その視点から社会を見て感じた、社会の課題。そこに自分にとっての"はたらく意味"を見出せそうな気がしている。


PS

"はたらく"ということは、誰もができることと、やりたいことのバランスに折り合いをつけている。今は、そのやりたいことばかりを見据えて、できることの学びを疎かにしていたなと、それに最近やっと気がついた。理論と哲学では社会を変えることはできない。資本主義社会を憂いてばかりいては、どうにもならない。

前回"主体性のためのデザイン"なんて文章を1万字近く書いたが、その中でもこれからの社会において、"自然"と"共同体"というキーワードが浮かび上がってくる。今のとこ、人生でやりたいプロジェクトは“シェアハウス兼ゲストハウス半自給自足共同体”を作ること、作ってもらうことだ。これについては、もう少し具体性を持たせて次回にでもnoteに書くとしようかな。
そこまでのステップとしての経験と思考と能力を積みたいのだけれど、どんな場所でどんな人と関割っていくことが、よいのだろうか。はたらくことを選ぶって難しい。いろんな人と話すことでしか見つからない気もする。誰か、話そう。

*タイトルでデザイナーにはなりたくないって言っているものの、デザインをこれからも学び続けるし、何を以てデザイナーと呼ぶかみたいな議論はここではしないでおく。笑


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藤 匠汰朗

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