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とんかつDJ功利主義太郎

 功利主義の勉強を何となくしようと思っているので、ついでにメモでも書き連ねようかと思う。

 功利主義の原則は「最大多数の最大幸福」といわれる。分かりやすく一言で説明すると、「全体的に幸福をageる行為が正しい(善である)」という考え方だ。
 とんかつをageるのもいいし、お客さんを音楽でageるのもいい、とにかく全体の幸福をageることが正しい。つまり、功利主義とはとんかつDJアゲ太郎だと思ってくれればいい。多分よくない。

 正しくはwikipedia でもいいし、適当に検索したらそれっぽいのが出てくると思うので確認してほしい。

 功利主義は、ある面ではとても有用な理論だと思う。まず何といっても、その基本的な考え方がとても受け入れやすい。
 「嘘をついてはいけない」「人を殺してはいけない」「とんかつの油を客にぶっかけてはいけない」等の道徳的義務に関して、その理由を説明するとき、功利主義は素朴に受け入れやすいだろう。嘘をつくこと、人を殺すこと、とんかつの油をぶっかけることは、おそらく多くの幸福をageるよりはsageてしまう。

 個人的な経験からすると、倫理学や道徳哲学について考えてもらう際、功利主義の議論から始めると非常にやりやすい。これは、道徳的義務についてさほど深く考えたことのない人にとって、功利主義の考え方がとても受け入れやすく説得的であるからだと思う。
 というよりは、多くの人は道徳や倫理というものを、まずもって功利主義的に考えているはずだ。「最大多数」かはともかく、ある程度の集団や「みんな」を意識して道徳や倫理は語られる。
 それに加えて「幸福」をベースとしているのが受け入れやすい点だろうと思う。「幸福」とは何なのか、という難しい(おそらく功利主義にとって最も悩ましい)問題はあるけれど、「こうあるべき」といった抽象的で理念的な義務の話(「カツ屋の息子として生まれたんだからとんかつを揚げるべきだ!」)より、幸福や利益、快楽といった経験的な感覚に根ざした話(「美味しいとんかつを食べさせてあげれば幸せになれるやん!」)は説得力を持つだろう。

 個人的に功利主義は道徳や倫理を基礎付ける理論としては間違っていると思っているけれど、種々の論点に関してしっかり検討したことは無い。「勉強しなきゃなぁ~」とベンサムやミルの著作をいくつか漁ってはいたものの、きちんと読み込むことが無いうちに研究生活から離脱してしまった。
 グッバイ功利主義、フォーエバー功利主義。ボクはとんかつDJになれなかったし、なりたくもなかった。

 ところが先日、ふと何かを考えていたときに思いつきで、こんなことを呟いた。

 これに対して、ありがたいことに知見あると思われる方から、示唆に富む記事をご教示いただいた。

 勉強の入り口に、その記事を読みながら考えたことを簡単にまとめておくのもいいかと思う。
 とはいえ、まずは下ごしらえが必要だ(とんかつもDJも準備が不可欠!)。先の呟きは色々ボーっと考えるうちに思いついたものをかなり粗雑に表現したものなので、何を考えていたか、もう少しはっきりと言語化しておく必要があると思う。
 とんかつでも食べながら読んでくれると幸いだ。

 僕がぼんやり考えていたことは、直接的には帰結主義的な考え方に対する疑問となる。帰結主義とは、行為の結果を重視する考え方で、教えていただいた記事もその「帰結」というものが何かを扱っておられる。詳しくまた今度何か書く……かもしれない。
 ともかく、功利主義は行為が導く結果が重要だと考える。とんかつ屋やライブハウスに来たお客さんをageることが出来るか、それこそが重要であって、とんかつ屋らしい佇まいとか、DJっぽい振る舞いとか、そういうものが(客をageるかsageるかという)結果と関係なく大事なのだ!とは考えない。
 この経験的な感覚に根ざした点は既に述べたように、功利主義の強力な武器だと思う。

 ちゃぶ台返しをするようで申し訳ないが(せっかく揚げたとんかつが台無しだ!)、一般的に言って、行為を前もって評価することは十分に可能だと思う。僕の疑問は「評価を事前にするのは根本的に無理じゃない?」というよりも、正確には「事前に評価するとしたら経験的な感覚から離れていくんじゃない?(だから事後的に評価する方がいいのでは)」といったものだ。

 この揚げ方で美味しいとんかつが出来るのか、この曲構成でフロアを盛り上げることが出来るのか、実際にはやってみなくては分からないかもしれない。だがそれでも事前に評価することは可能だろう。要するに、ある程度の見通しがたてば良いのだから。
 しかし、この「見通し」とはどのようなものだろうか。

 「実際にはやってみなくては分からない」ということは、どういうことを意味するのか。例えば、美味しいとんかつを揚げる方法を完璧に理解していたとしても、それを十分に実践できないかもしれない。それは経験不足だからかもしれないし、厨房の設備が不十分だからかもしれない。あるいは突然の停電や自然災害など、およそ予期しない(予期できない)邪魔が入るかもしれない。

 これは行為の善悪を功利主義の基準で考える場合でも同じだろうと思う。
 ある状況において、私が真実を隠し、嘘をつくことでみんながハッピーになることが予想される。その予想が正しかったとしても、結果的に私の嘘はすぐバレてしまうかもしれない。私は嘘をつくための度胸や話術を有していないかもしれないし、思わぬ第三者が嘘を明らかしてしまうかもしれない。
 嘘がバレることで望ましくない結果が起きたとき、私は善悪の判断を間違えたのだろうか。

 間違えていないと考えることも出来る。私が最善の行為を選択し、実践したことは疑いようが無い。結果的に事態が望ましくない状況に陥っただけで、それは行為そのものの善悪とは無関係な場合もある、と。(特に「他人が勝手に嘘をバラしたことなんて知ったことか!」ということは、常識的には言えるだろう)
 だが、こう考えることも出来る。そもそも私の度胸や話術、周囲の状況を十分に考慮して判断するべきではなかったか、と。私たちの行為は、自らの力量や性格、周囲の状況や関係する他者などと独立していない。十分な経験とスキル、周囲の協力や環境の整備なしに、美味しいとんかつを揚げることもフロアを盛り上げることも出来ないのだ。
 少なくとも、(善悪に限らず)行為の良し悪しを判断する際に、これらの要素を一切排除すべきと考えるのは無理がある。

 私の行為はどこまで見通すことが出来るのか。あるいは見通すべきなのか。これはなかなか難しい問題だろうと思う。
 「美味しいとんかつを揚げることが出来るか」ということを考えるために、どこまで考えるべきか。料理中の停電が、電気の使いすぎが原因であればそれは予め注意しておくべきことかもしれない。だが、落雷などの自然現象までも想定しないといけないのか。

 行為の結果を見通す、ということは容易ではない。ましてや、行為の善悪を判断するためには、行為の射程がどこまでなのかを見極める必要があるはずだ。そもそも、どこまでが私の行為と言えるのか。私の行為の後で起きたことのどこまでが「私の行為によるもの」だと言えるのか。それらを見極めること、見通すことが果たして可能なのか。
 やや横道に逸れる(が、関連する重要な論点として)「責任」という概念を功利主義がどう考えるのか、ということも興味深い。

 とはいえ、またまたちゃぶ台返しをすると(あぁ、とんかつが!)、行為の射程を厳密に確定する必要は別にないかもしれない。常識的な範囲で「とんかつを揚げるという行為にまつわる総体」を見極めることは可能だ。
 油の温度や調理器具のメンテナンスなどは考慮が必要だろうが、若者の間で流行している音楽を考慮する必要はない。油がはねて客が火傷をすれば責任を問われるべきかもしれないが、ノリノリになった客が暴れることまで責任は持てないだろう。
 とんかつDJはどちらも考慮しないといけないかもしれない。アゲ太郎の辛いところだ。

 興味深いのは、善悪の判断の対象となる「ある行為」というものが、ある結果(幸福や快楽、またはそれらの逆)を導くような即自的なものでは決してなく、善悪の判断をするために「ある結果を導くはずだ」という形で抽出された、理念的なものにすぎない、ということだ。理念的に抽出された行為を想定しなくては、行為の善悪を判断するための(事後的ではない)計算は出来ないように思える。

 要するに、結果的に幸福だったかどうかではなく、あらかじめ行為の帰結として考えられる幸福によって判断するということは、「行為によって得られるはず」と想定される幸福が必要になるはずなのだ。
 私が嘘をつくことで、みんながハッピーになるかどうか、実際には分からない。分からないが、ハッピーになるはずだし、なるという判断が妥当であると思える。そういうことは十分にあるだろうが、それは「実際にはみんなハッピーにはならなかったが、私の嘘自体はみんなをハッピーにするはずの嘘だったんだよ!」と言えるような結果が起こり得ることを意味する。

 ゲロマズのとんかつを客に食べさせておきながら「ちゃんと美味しいとんかつが揚がるはずだったんだ!」と言うアゲ太郎を想像してみる。アゲ太郎が実際にお客さんをageることが出来るかどうか、ということを大切にするのであれば、これは言い訳でしかない。
 アゲ太郎のとるべき真摯な態度とは「オレは美味しいとんかつを提供することが出来ると思うけど、それは諸々の事情で失敗することもありますね^^;」ということではないか。

 これは行為の善悪を判断する場合も同じで、正しいと判断された行為はいつでも事後的に否定される可能性を孕んでいる。
 この問題は別に功利主義に特有の問題ではないだろう。道徳的に正しいと思われる行為が、実際に道徳に反するような結果をもたらした場合をどのように考えるべきか、という問題は他の様々な道徳理論が直面するはずだ。
 ただ、経験的な感覚に根ざした強みを持つ功利主義にとって、「実際には幸福をsageたじゃないか!」という、これ以上ない経験によって判断が否定され得るという問題は結構厄介ではないかと思うのだ。
 これを回避するためには、善悪の判断を事後的にすることが手っ取り早い。もちろん、そう考えることは功利主義の有用性を損なうだろうし、何か別の形が考えられているのだろう。それはこれから勉強して理解できればいいと思う。

 恐ろしく冗長になってしまった。具体的に教えていただいた記事に触れたりするのは、また次に譲らざるを得ない。出来るかどうかはさておき。
 あとは、この前実家に帰って蔵書をチェックしたらビックリするほど功利主義関係の本を持ってなかったので、とりあえず前から読もう読もうと思っていた『功利と直観』を持って帰ってきた。読んだらメモなどをとりつつ、感想を残すかもしれない。

 久しぶりにこういうノリの文章を書いたけど、うまく伝わらなかったかもしれない。ただ、僕がDJのことを全然知らないこと、とんかつは結構好きなんだな、ということは十分に伝わったのではないかと思う。

 最後にどうしてもこれだけは言っておきたい。

 とんかつDJアゲ太郎全11巻、絶賛発売中!面白いからみんな読もうぜ!

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