豆腐

豆腐です。

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最近の記事

僕には才能がない

文章を書いて生きていきたかった。それで生きていけると思っていた。大学生の頃の話だ。今考えると面映ゆい話ではある。自分には才能があって、それが仕事になるレベルなのだと、表面には出さなかったけれど、しかし心の底では本気でそう思っていた。 今考えると、「『一億総評論家』から『一億総表現者』へ」なんて言われていた時代に、まさにぶち当たっていたんだと思う。例に漏れず小説や絵や写真を、恥ずかしげもなくインターネットに上げてはちっぽけな自己承認欲求を満たしていた。 就職活動を意識しだし

    • シロツメクサ、春の海、あわいひかりのまち

       古い友人からの便りというものは、いつだって突然やってくるものだ。  結婚、転居、同窓会。それらは予告無く僕たちの小さな郵便受けに入り込み、僕たちの小さな胸を締め付ける。大小の差はあれ。  そうしてやはり突然、懐かしい差出人の名前が記されたメールが届く。一瞬の高揚。が、すぐに高まった気持ちは小さく萎れていく。古い友人の、葬儀の知らせだ。  そんな風にして僕はその街へ戻ることになった。  三月のよく晴れた日曜日、僕は新幹線で街を目指す。2時間と少し。距離なんて現実感のないも

      • 雨音が聞こえる

        1  あたりは暗かった。自分の体のぼんやりとした輪郭さえ見えない。完全な暗闇。完全で完璧で、1週間かけて画用紙を塗りつぶしたような暗闇だった。僕にはこの世界にそんな暗闇が存在するということが上手く飲み込めなかった。それくらい現実感のない暗闇だった。単純に黒と言ってしまった方が良いのかもしれない。とにかくそれほど暗かったのだ。  そして不意に光が現れる。僕はその光が背後から照らされているものだと気づく。振り返ると、たった一本の古ぼけた街灯が所在無さげに立って、頼りないほど

        • 大豆行路

          豆腐は、豆として生まれた。豆と言ってもえんどう豆でもレンズ豆でもなく、まるまるとした大豆である。大豆。即物的と取れば味気ないかも知れないが、しかしそれは最高にシンプルで機能美に溢れた名称ではないかと、豆腐――その頃はまだ豆腐ではなく大豆であったが――は考えていた。 生まれた地は、北のだだっぴろい平野の、だだっぴろい大豆畑であった。幼少の頃から、自分は豆腐になるのだと、それは信仰に近いような一種の何か確信めいたものを持っていた。豆腐以外の使われ方は、決して自分はしないだろうと

        僕には才能がない

          午前3時の豆腐の話

          例えば。例えばだ。午前3時を過ぎて君にある種の空腹感が襲ってきたとする。深夜の空腹感というのは時に侘しさを誘う。そういう類の空腹感だ。ただ単に身体的に、血糖値の下落を受けての空腹感じゃない。虚しく、哀しく、侘しい。そんな空腹感だ。そそれが交通事故みたいに突然降りかかってくる。 そして君は冷蔵庫を開ける。それは救いを求めて懺悔室に入るような敬虔な行為だと思う。深夜の空腹との対峙は宗教的な意味合いを持っている。冷蔵庫のドアを開ける時の心持ちというのは、どこか祈りに似ている。

          午前3時の豆腐の話

          豆乳と苦汁

          出自は確かに違う。君は青い海から来た。君は荒れ狂う波濤の一部だったかも知れないし、光も届かない静かな海の底だったかも知れない。ともかく君は海から来て、そして海の一部だった。塩化マグネシウム。素敵な響きだ。 一方、僕は北のだだっ広い大豆畑で生まれた。君が水平線を見ていた時、僕は地平線を見ていた。大豆だったんだよ、君と出会う少し前まで。小さい頃は緑色をしていたんだ。ねえ、信じられるかい?今じゃ真っ白なこの身体がさ。 僕たちが出会ったのはある意味で奇跡だったのかも知れない。考え

          豆乳と苦汁

          たはむれに葱を背負いてそのあまり軽きに泣きて三丁揚げ出す

          僕が豆腐に出会ったのは雨の降らない梅雨の、その年の梅雨にしては寧ろ珍しいくらいに強い雨が降った月曜日の朝だった。雨の月曜日。それだけで憂鬱な響きだ。しかしまあ今になって考えてみれば雨と言うのは豆腐にとっては良かったのだろうと思う。水分は豆腐にとって生命そのものに限りなく近い。 住宅街を抜けて駅前へ抜ける公園のベンチの上に豆腐はいた。きちんとステンレスのボウルに入れられて。ボウルは強い雨の中で水が溢れていて、半丁くらいの小さな豆腐であれば流れ出してしまいそうだった。豆腐はぴく

          たはむれに葱を背負いてそのあまり軽きに泣きて三丁揚げ出す

          鍋になる

          パックには「鍋とうふ」と銘打たれた。中にいる自分には大して違いは無いのだが。豆腐は苦笑した。しかしまあ自分が進むべき道が明確に示されているというのも悪くない。その道を極めれば良いのだ。他の具材と如何にリレーションを構築、シナジーを生んでいくか、豆腐はシミュレーションを繰り返した。 ある日、豆腐はある若い女に買われて行った。女の買い物カゴには、葱や白菜等、いかにも鍋の準備だという食材が揃っていた。女の家への道中、豆腐は葱や白菜に話しかけてみた。鍋だな。ああ、鍋だ。良い鍋にしよ

          鍋になる

          保坂和志風文体のテスト

          僕は縁側に座って前の通りをゆっくりとしたスピードで走って行く豆腐屋の軽トラックから流れてくるペーポーという間の抜けた音を聴きながら豆腐が豆腐である条件みたいなものについて考えていたのだけれど、結局のところそれは水と大豆と苦汁みたいな材料の話ではなくて形や柔らかさみたいなその状態が豆腐を豆腐たらしめているんじゃないかと思ってちょうど外から帰って居間に入って来た同居人に伝えたのだけれど、同居人はきちんと取り合ってくれずそれはそこに豆腐の実存があるから豆腐なのだと理解しているのか怪

          保坂和志風文体のテスト

          朝、ベッドの上で

          朝、目が覚めると豆腐になっていた。グレゴール・ザムザがベッドの上で大きな虫になっていたように、僕は豆腐になっていた。豆腐だ。 夢か、まだ眠りが覚めていないんだな、明晰夢というやつだ。そう思って僕は夢を夢として楽しむべく豆腐である自分の体をまじまじと眺めた。白くつやつやと妖しく光る絹ごし豆腐だ。柔らかくしなやかで、それでいて冷たい直線に囲われた直方体。カーテンから洩れる朝の光に照らされて穏やかに輝いている。まるで4月の波の無い海みたいだ、と僕は思った。それはある種の造形物、し

          朝、ベッドの上で