2023春秋杯「残酷な天使のテーゼ」
こんにちは。あるいはこんばんは。もしくははじめまして。
2023年春秋杯に出場させていただいた、有馬龍一(仮名)と申します。
今回の私の弁論ですが、いろいろと悔しいところがあるので、こうしてnoteを書いて供養(?)をしようと思います。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただければ幸いです。
余談ですが、この弁論は「有馬龍一おじさん」としてのスタンスで書いています。子供の気持ちがわかり、親の気持ちもわかる。そんな器用なおじさんがこの弁論においての私のスタンスです。
原稿注釈
【冒頭】
2023年3月20日、有馬龍一(仮名)という男は死にました。
え?どういうことって?確かに、生きてるからこうやって弁論してるんですもんね。
でもね、そういうことじゃなくて。私、男として死んでしまったんです。
ところで皆さん、包茎って知ってますか?
男の人は知ってる人多いと思うんですけど、ペニスの先っちょが、勃起しても皮かぶってるやつのことを包茎って言うんですよ。それで私、その包茎ってやつだったんです。
別に変なことじゃないんですよ?男の人の7割は包茎って言いますからね。でも、包茎は「男らしくない」ってイメージが昔からあって、かぶってる皮を切る包茎手術をする人は案外、結構いるんだそうです。
実は私もその一人。
少しさかのぼって2022年の夏のこと、私が実家に帰省し、風呂から上がり全裸でリビングを歩いていたときのこと。たまたま鉢合わせた母が、私の体を見て、ひきつった顔でこう言ったんです。
「あなたのおちんちんは病気なんじゃないの?」
病気じゃないんですよ?別に包茎って普通のことですし、病気でも何でもありません。でも、確かに「男らしくない」ってイメージがあるのも事実です。だから私は「包茎手術をして男らしくなるぞ!」と前向きに意気込んでいたのですが。
母にとってはそういうわけでもなかったようで、あの手この手で「病気」とか「気持ち悪い」とか言われるわけです。そこまで言われると、私も「気持ち悪いから、早く手術しなきゃな」なんて、俺のペニスは病気で、これがあるから俺はダメなんだ、と本当に自信が無くなって。男らしくなるための前向きな手術は、私にとっては、普通の人間になるための手術でした。
2023年3月20日、私は包茎手術をしました。
手術時間はおよそ30分。意識ははっきりしたまま、プスリ。お医者さんは、ペニスに10回ほど麻酔を刺し、事前に引いた点線に沿って、電気メスで私の気持ちの悪い部分を切り取ってくれました。
手術後一週間は、むき出しの肉をなぞられるような、そんな痛みで夜も眠れないわ、歩き座りも一苦労だったんです。すごく悔しくて、情けなく思えました
私のペニスからは、男としての「何か」が死んでしまったように感じるのです。すごく…空しい気分です。
母の気持ちもわかります。私が将来傷つかないようにと気を使ってくれたんです。でも、母には女性としての性知識しかなかった。だからその気遣いは私から男としてのプライドを切り取っていきました。
【予告】
皆さんだったらどうしますか?
今は想像つかないかもしれませんけど、結局結婚して子供ができてなんて十分あり得る話だと思うんですよ。で、その子供を育てるときにですよ?私の母と同じで、あなたにはあなたの性知識しかないんです。もしかして、自分は人並みには性に理解があるから、俺なら大丈夫、私ならそれなりにうまくいく。まさか失敗はしないだろう。今、そう思いませんでしたか?
私、その考えこそが問題だと思うんです。あなたたちは、自分の持つ性知識で十分だと思ってる。そう思う気持ちもわかりますが、だからこそ自分に足りない性知識に気づかない。気づけない。私はこの弁論でその慢心に気づいてほしい。
皆さんには、男として、女としての「何か」が死んでしまった…なんて思う子供を育ててほしくはないんです。私もそんな育て方はしたくない。
社会問題を取り上げて、その解決を訴えるのもいいけれど、今日は、どちらかというと、私にできる精いっぱい。身近であり得る、でも未来の話をしたい。
だから、この弁論では自分の性が死んでしまったように感じる、有馬龍一の経験からくる性についての弁論をします。他人事だと思わず、身近だから深刻な、そんな未来の話だと思って聞いてください。
【一般論】
母に初めて手術をすすめられたとき、私は、包茎が病気じゃないこと。そして、自分のタイミングで手術をすることをちゃんと伝えました。
しかし、母には「経験からくる絶対的な自信」があったのでしょう。実際、母は「あんたのためを思って言ってるのに、そんなことを言われるのは心外。あんたが思ってる以上に世の中の女性は包茎なんて気持ち悪いと思ってるからね。あのね、お母さんは正しいことを言ってるの。」と言われて、乱暴に丸められてしまいました。
これって、自分の経験のみでしか話してなくて、なんか、論理的でないというか、そうじゃない人もいるんじゃない?と聞き返したくなるような話ですよね。実際、包茎は病気ではありませんし、男の7割は包茎なんです。母にあるのは女として少し知っていた性知識のみで、だから母はこういう考え方をしたんです。
でも、これっていたって普通のことだと思うんです。普通だからこそ怖いんです。
だって、性知識って日常的に使う知識でもないし、経験豊富な人でも、その性知識のサンプルはせいぜい10人程度で、その人の性知識が、残りの人すべてに当てはまるかというとそんなことは絶対ないと思うんです。でも、中途半端に知ってるからこそ、自分の性知識を過信してしまいがちになるわけです。
こういう、僕の母と同じで、「性の知識なんて自分の経験で何とかなるでしょ!」って思ってる人の方が多いと思うんですよ。
そうなると何がよくないって、自分の「間違ってる部分」とか、「偏ってる部分」に気づくことができないんです。
【一般論・分析・反論】
「ふーん、そうなんだ。まあ俺はそんなことしないけどね。」と思ってるそこのあなた!
あなたにこそ言いたい!なぜそこまで自分の性知識が正しいと言い切れるのですか
まだ僕たちは性教育をする場面に直面してるわけでもなくて、だから自分の性知識が正しいかどうかなんて考えたことはないはずです。それって、自分の足りてないところを探し出す作業すらしてないんですよね?でも、中途半端に知ってるから「俺だけは大丈夫」だって勘違いをしてしまっているんです。私たちは全員正しい知識を持っていなくてむしろ当然じゃないですか?
つまりね、性の話ってどうしても自分だけの中途半端な経験ベースになりがちだから、「自分は他の人と違う」とか、「俺は正しい性教育を受けてきた」なんていう、自分の経験や考えに頼りきった慢心や驕りが生じがちなものなんです。だから、とりあえず今は、自分の足りない部分に気づきましょうよ。
【一般論・悪影響】
じゃあ、その足りないところに気づけないって何がよくないのって話なんですけど、それは、子供に自分の性の価値観を押し付けてしまう、固執的な性教育をしてしまい、多くの場合は影を落とすものだからです。
僕の場合は、もともと、包茎には情けなさを感じていました。でも、母に否定され、手術をした今はさらに情けなさを感じます。私は自分の情けなさを解消するために、男らしく、自信をつけるために包茎手術をしたかったのに、今はさらに情けなさを感じ、自信はつかず、女性はずっと怖い。私の知らない女性は私の何を気持ち悪がっているかわからない。
母の言葉ひとつで、私は「男として死んだような気がする」というコンプレックスを引きずって生きています。
こうして植え付けられたコンプレックスは非常に根が深く、なかなか自力で払しょくすることができません。自分で持つようになった普通のコンプレックスとは異なって、植え付けられたコンプレックスは半生を共にする劣等感になります。
整形を繰り返す人もそうなのかもしれませんね。美容整形広告に「二重の方がかわいい!」と植え付けられて、二重にして、次は「鼻筋が立ってる方がかわいい!」と植え付けられてまた整形をして…その承認の相手は自分ではなく、自分の容姿に口を出してくるその広告で、一生満足ができないのかもしれません。
【主張】
さて、話も終盤。私の主張をもう一度言います。皆さんの子供には、私のように、自分の中の性が死んでしまったような、そんなコンプレックスを抱えて生きてほしくないのです。だからこそ、自分の性知識のみを頼るのではなく、まずは、自分が間違ってないかを疑ってみませんか?
【主張の優位性・影響】
息子には、ベッドの下を除掃しない優しさを。
娘には、少し多めの小遣いを。
マセガキには、温かい目とコンドームを。
大人にもう少しの優しさと器用さがあれば、誰だってもっと性的に自信がもてていると思います。誰だって性に興味を持って、ワクワクして、未来に期待できるはずです。
子供にはもっと、性を楽しんでほしい。
皆さん。私たちは大人になっても、親になっても決して全知全能ではありません。異性の性現象なんてわからないし、大人になってから、今の子供たちが性の何で悩んでるかなんて想像できません。だからこそ、子供のことを思うならば、もっと謙虚にになるべきです。
本弁論では、子供な私の実体験から、親にこうしてほしかったという訴えを弁論にしました。正直、子供に親のことは理解できないと思います。子供ってわがままだし、僕もそうですけど、言っちゃえばクソガキですからね。だからね、親は子供が気付いてくれるまで、思いやりとともに教育をするんでしょう。私たちの子供が親になるまで、温かい目で見守ってやりましょう。
本弁論を終了します。ご清聴ありがとうございました。
まとめ
ここまで読んでいただいてありがとうございました。以下はまとめです。
私はこの弁論で結局何を伝えたかったのでしょうか。って書いたら「知らねーよ!」ってヤジが飛んできそうですね笑。まあ、何を伝えたかったのか。それは親としてあるべき姿みたいなものです。かなり性の話に回収してしまったのでその多くは語れていませんが…。
自分語りになるし、母親が悪いみたいな話になるので、細かい話は割愛しますが、私、割と特殊な家庭で生まれてまして、「毒親」とはまた違う気もするんですが、まあともかく、「親と子供」ってテーマはよく考えるんです。その中でも特に「パターナリズムと優位性」が特に気になっていました。そして、日常生活では我慢できたいろいろなことが「半強制の包茎手術」で爆発しました。だから伝えたいことはもっといっぱいあったんです。ただ、起爆剤のショックが大きすぎて弁論ではそこにかなり比重が寄ってしまいました。すべてを弁論に載せきれなかったこと、性の話でさえ伝えきれなかったこと、伝わらなかったことがただ悔しいです。まして下ネタに回収されてしまったのはもうどうしようもないくらい悔しいです。私の実力不足によるものなので、これからも精進します。
さて、お気持ち表明はそこまでにして、解説の続きをします。最後は演題についての解説です。
今回の演題「残酷な天使のテーゼ」ですが、決して名曲を汚したつもりはありません。お気に障った方がいらっしゃるのでしたら、申し訳ありません。
ところで皆さん「エディプスコンプレックス」ってご存じですかね。ギリシャ悲劇の一つ、「エディプス王」になぞらえて、フロイトにより提唱された概念のことです。
概要としては、生まれた男児は母親を手に入れ、父親になり替わろうとします。男児にとっては母は異性であり愛情対象ですからね。そして父親になり替わるために父親のように強くなろうとします(同質化)。なり替わるために父親を排除しようとします。しかし、子供にとって父親は絶対的な存在なので自然と父親に対する恐怖を覚えます。最初は漠然とした不安だったり憎しみなんですけど、それが次第に、父親に「お前のペニスを切り取るぞ」と脅されるように感じるんだそうです。これは実際に口に出されなくても感じるんだそうです。いわゆるエディプスコンプレックスの「去勢不安」というやつです。そして子供はジレンマに陥ります。このまま母親を求めれば父親に「去勢される」し、父親の元に跪いて父親に愛される母親の立場に収まるのならば、子供は「去勢されている」と感じ、どちらにせよペニスを保持するための葛藤にさいなまれます。この際に子供は自分のペニスを保持するために母を諦め、父との対立も諦め、両親とは別の方向に歩きだす。こうしてエディプスコンプレックスは克服されて、子供はペニスを保持したまま社旗に飛び立つ。というのがエディプスコンプレックスです。ほかにも、男児と母親はペニスによりつながっているから父親はそのペニスを切ろうとするだったり、まとめて「諦めること」がエディプスコンプレックスの本題だったり、これに対抗してアンチオイディプスって概念があったりします。
エヴァンゲリオンの物語はこのエディプスコンプレックスの物語と言われたりしています。(違う!という人にはすみません。僕の中ではこれが一番腑に落ちています。)「綾波=ユイ」であることは言わずもがな。そしてその女性を父親である碇ゲンドウと碇シンジが奪い合うような三角形はまさにエディプスコンプレックスの考えです。そして碇シンジは碇ゲンドウと対立をしながら、葛藤をしながら成長し、一人の男の子は男となり飛び立っていく。という筋です。
そして、肝心の残酷な天使のテーゼなんですがこの曲は、愛しい我が子がやがて母の手から離れていく、そんなさみしさと同時に、その飛び立つときを祝福する。そういう意味だと私は捉えています。だから、残酷な天使のテーゼにある視点は母の視点なんです。
それで結局何が言いたいのかというと「子供が何かを諦め、大人になるのは不安でさみしいけれど、その姿を祝福してあげよう」というメッセージを演題に込めているわけです。ただひたすらに子供の旅立ちを邪魔しないで上げてほしい。いつまでも親が手の中に隠していてはいけない。その翼で自由にはばたかせてあげてほしい。という願いです。締めの「温かい目で見守ってやりましょう」はそう意味が込められています。
私たちはいずれ大人になります。絶対になるし、ならなければならないんです。そして、親になります。そうでなくても、子供と接することくらいはあるでしょう。そのときは、大人として、器用な優しさを子供に与えてあげてください。翼の生えた天使が空を高く飛べるように願いを込めて。
さて、長々とお付き合いありがとうございました。私の弁論「残酷な天使のテーゼ」の解説はこれで終わりです。ここまで稚拙な文を読んでくださり、ありがとうございました。では、また。
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