2023春秋杯「残酷な天使のテーゼ」

こんにちは。あるいはこんばんは。もしくははじめまして。
2023年春秋杯に出場させていただいた、有馬龍一(仮名)と申します。
今回の私の弁論ですが、いろいろと悔しいところがあるので、こうしてnoteを書いて供養(?)をしようと思います。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただければ幸いです。
余談ですが、この弁論は「有馬龍一おじさん」としてのスタンスで書いています。子供の気持ちがわかり、親の気持ちもわかる。そんな器用なおじさんがこの弁論においての私のスタンスです。


原稿注釈

【冒頭】


 2023年3月20日、有馬龍一(仮名)という男は死にました。
 え?どういうことって?確かに、生きてるからこうやって弁論してるんですもんね。
 でもね、そういうことじゃなくて。私、男として死んでしまったんです。

  ところで皆さん、包茎って知ってますか?
 男の人は知ってる人多いと思うんですけど、ペニスの先っちょが、勃起しても皮かぶってるやつのことを包茎って言うんですよ。それで私、その包茎ってやつだったんです。
 別に変なことじゃないんですよ?男の人の7割は包茎って言いますからね。でも、包茎は「男らしくない」ってイメージが昔からあって、かぶってる皮を切る包茎手術をする人は案外、結構いるんだそうです。
 実は私もその一人。

*注釈
 ここは説明しだすとキリがないのでサラッと終わらせました。包茎の話が主題という意味ではないことも含めて。

俺の気持ち

 少しさかのぼって2022年の夏のこと、私が実家に帰省し、風呂から上がり全裸でリビングを歩いていたときのこと。たまたま鉢合わせた母が、私の体を見て、ひきつった顔でこう言ったんです。

*注釈
 「全裸でリビングを歩くな」「そもそも弁士が全裸でリビングを歩かなければいいだけの話では?」というご指摘をいただきましたが、そんなとこを突っ込まれるとは全く考えてなかったので動揺しています。
 一応、細かい話をしておくと、私の実家には私の部屋はなくて、私の衣類はリビングの棚に全て収納されているんですね。それで、この時はたまたま下着類を脱衣所に持っていくのを忘れたので、タオルでペニスを隠しながらリビングに向かったんです。そしたらタオル落ちちゃって、たまたまリビングにいた母に見られてしまったんですね。まあこんなこと長々と話しても意味ない(本題に関係ない)ので割愛したんですが、なぜかここにやたら反応する聴衆の方がいらっしゃったようですね。説明不足で申し訳ありませんでした。


 「あなたのおちんちんは病気なんじゃないの?」
 病気じゃないんですよ?別に包茎って普通のことですし、病気でも何でもありません。でも、確かに「男らしくない」ってイメージがあるのも事実です。だから私は「包茎手術をして男らしくなるぞ!」と前向きに意気込んでいたのですが。
 母にとってはそういうわけでもなかったようで、あの手この手で「病気」とか「気持ち悪い」とか言われるわけです。そこまで言われると、私も「気持ち悪いから、早く手術しなきゃな」なんて、俺のペニスは病気で、これがあるから俺はダメなんだ、と本当に自信が無くなって。男らしくなるための前向きな手術は、私にとっては、普通の人間になるための手術でした。

*注釈
 ここは本弁論での自己言及性にあたります。
 ここでは何を言いたかったのか、男らしさの喪失とはいったい何なのかという話ですが、例えるならば「切腹」です。
 包茎ではなく、いわゆる露茎(亀頭が露出しているペニス)には男らしさが宿ります。これは何も私のみの感覚というわけではなく、例えば、戦時中の若い兵隊の身体検査で、包茎男性率が著しく低かったことが挙げられます。今の男性の7割が包茎と言われる世の中で、包茎男性率がそれを大きく下回るようなことは自然ではあり得ません。つまり、当時も「包茎は男らしくない」というイメージがあり、検査等で弾かれるおそれがあったのでしょう。他にも、男根信仰で見かけるのは露茎のペニスばかりだったり、江戸時代の書物に「かわかむり(包茎)は恥ずかしい」と書いてあったり、つまり包茎は男らしくなく、露茎は男らしいということがわかります。しかしながら、男の中ではどんな形であってもペニスは男性の象徴な訳です。包茎がそんな悪いものじゃないことくらい男性もなんとなくわかってますからね。姿形の問題ではなく、女性は持ち合わせない、ペニスという存在そのものが男性を表し、男性の象徴なのです。
 ではなぜ「切腹」なんて単語に繋がるのか。それは、男の象徴であるペニスにメスを入れる行為だからです。
 切腹がなんなのかはわかると思うので割愛しますが、まあ切腹とえば「名誉ある死」を指しますね。そこには腹を切る者の精神力と根性が評価されているという理由があり、有名どころだと、武市半平太は三文字切腹(腹を三度切る)をした
 ことが評価されていたり、後世まで語り継がれていたりします。ともかく、切腹は相当の覚悟と精神力、根性がないとできない名誉ある死、もしくは名誉を挽回するものだったのです。
 そして、ペニスにメスを入れる行為、包茎手術とは、「覚悟と根性を持って、男性の象徴であるぺニスを切り、男らしい自分に生まれ変わる。」行為なのです。
 ここで重要なのは、その覚悟と根性です。このどちらかが欠けたとき、その切腹はまるで情けないものになります。覚悟と根性が足りず、死にきれなかった(切腹では死なないが)なんてのは恥以外の何物でもありません。もっと言えば、切腹したのち、介錯(首を切り、絶命させる行為。切腹した者にする。)を不要とし、その痛みに苦しむ姿を見せつける男もいたくらいです。
 私にとって包茎手術はまさに切腹でした。人生を挽回するかの如き男の覚悟と根性だったのです。それを私は母に奪われてしまった。私の切腹は私が決めてやったことではなく、母が手添えをし、腹を切る。そんなものでした。そんな切腹は、切腹とはとても呼べません。まして、切った後に情けなさを感じるものなんて、恥以外の何ものでもありませんでした。
 まあ、あくまで私の場合です。これでも満足できる人はいると思うし、それを私は否定しません。以上です。

 2023年3月20日、私は包茎手術をしました。
手術時間はおよそ30分。意識ははっきりしたまま、プスリ。お医者さんは、ペニスに10回ほど麻酔を刺し、事前に引いた点線に沿って、電気メスで私の気持ちの悪い部分を切り取ってくれました。
 手術後一週間は、むき出しの肉をなぞられるような、そんな痛みで夜も眠れないわ、歩き座りも一苦労だったんです。すごく悔しくて、情けなく思えました
 私のペニスからは、男としての「何か」が死んでしまったように感じるのです。すごく…空しい気分です。

*注釈
 ここではリアルさを出しました。局所麻酔だったこと、点線を引かれていたこと、電気メス特有の音……痛くて痛くて仕方なかったあの日。満足げな母。取り返しのつかないことをした後悔。頼る人がいない小さな社会。死んでしまって何か。動揺。ショック。笑うしかない空虚感。笑うことを強要される家庭。

過去の俺

  母の気持ちもわかります。私が将来傷つかないようにと気を使ってくれたんです。でも、母には女性としての性知識しかなかった。だからその気遣いは私から男としてのプライドを切り取っていきました。

 ここはとってつけた非インセルポイントみたいだけど、そうじゃなくて、僕の本心です。
 母は僕に手術を半ば強要した理由を「親の責任・義務」といっていて、母も尋常ではない不安や心配があったんだと思います。こんな思いをさせて申し訳なかったという気持ちもありました。
 親心、この弁論中では僕は非常に子供ですが、親心も理解しなければなりません。それが自分にとって理解し難いものだとしても、不満が溜まるものだとしても、たとえ合理性に欠けるものだとしてもです。それくらい心というものの持つエネルギーは凄まじく、人1人くらいなら簡単に動かします。
でも、子供の自分も忘れてはいけません。親の気持ちがわかるからといって子供は我慢しなきゃいけないわけではないです。
 ここにこの弁論のテーマの一つが表れます。それは「パターナリズムと優位性」です。
 パターナリズムっていうのは、「おせっかい」「よかれと思って」「温情主義」「父権主義」とか言ったりするやつで、簡単に言えば「強い立場の人が弱い立場の人の利益だと思って、本人の意思に関係なくあれこれすること」です。日本の医療制度なんかはTHEパターナリズムですね。自殺志願者だとしても蘇生や治療に尽力するわけですから。まあそういう概念があるんですよ。で、後の注釈でも言いますけど、私の包茎手術はまさにこのパターナリズムだったわけです。私の「自分のタイミングでやるから口出ししないで。」という意思は無視され、母の「あんたのため。いいからやりなさい。」といういわばおせっかいに支配されてしまったんですね。これにかんしてはかなり賛否があると思います。「お母さんいい人やん」って意見もあれば「毒親やん」って意見もあると思うんです。医療の場面で言えば、自殺志願者を無理して生かすのは悪いように見えますし、でも命を救うことは何よりも美徳のようにみえます。だからこれは当の本人たちにしか判断できないことで、良い面も悪い面も持ち合わせています。そして、僕は両方感じてます。この注釈の最初にも書いてますけど、この弁論をするうえで、母の気持ちは必ず理解しなければなりません。母の心配する気持ちももっともなんですね。だからこういう父権的な手段に出ても仕方ないと思います。それが親として当然の意見です。しかしながら、子供としてはやっぱり口出されたくないわけです。パターナリズムの弊害として、自由意志の欠損があったりします。質疑でも言いましたけど、私のこの弁論の理想社会は「性の自己実現(決定)」ができる社会なんです。そのうえでこの過度なパターナリズムは勘弁してほしいものなわけです。
 本当にここの葛藤がすごかったです。私があたかも母によって害された悲しい生き物になってしまっては、まるでガキが駄々こねて演壇に立って地団太踏んでるみたいになってしまいますからね。そんな無様な姿は見せるわけにはいかないし、何より曲がりなりにも心配してくれていた母に失礼なわけです。だからすごく悩みました。泣きながら書いてました。
 長々と続いて申し訳ありませんが、次は「優位性」についてです。パターナリズムの話から、強者弱者の図があるのは明白として、この弁論中には子と親という強者弱者の図があったわけですね。でも、弁論作成中にはもうちょっと人が多くて、「子<母<社会(群衆)<専門知(歴史・文化)」がいました。私は母のパターナリズムによって支配されていたわけですが、そんな母にも上位者がいてですね、例えば社会。母は自分の経験から私にいろいろ言ってきたわけですが、それはある意味、社会や群衆にそう言わされているという感覚が強いわけです。そしてその社会は専門知にそう言わされているようにも見えます。具体的に言うと、子は母に「包茎は恥ずかしい」と言われ、母は広告(社会)に「包茎は恥ずかしい」と言わされ、広告(社会)は〇須とか上〇(専門知)に「包茎は恥ずかしい」と言わされているといった感じです。Twitterと同じで、専門家がそれっぽいこと言ったら群衆は「へーそうなんだ」と鵜呑みにしがちですからね。で、社会にそういう群衆が多かったら「そういうもん」みたいな偏見や常識が生まれます。それに対して母という一個人が反発するってまあまあ難しいことで、特に性なんていう閉鎖的な情報の権化みたいなテーマだったらなおさらです。それでですね、この言わされている状況はどうやって打開できるかって言うと、「適切な説明」が一番妥当かなと考えています。弁論中も何度も指摘されましたが、推論ですみません。例えば教育現場で、「この解き方は学校でやっていないのでダメです。」という説明は決して適切ではないわけです。なぜなら生徒はそんなんで納得しないからですね。逆になんで学校でやってなくて、なんで学校でやってないからダメなのかって話です。これと同じでそれなりに論理的な説明が上位者には求められる、つまり、上位者は下位者に「適切な説明」をする義務があり、下位者はその「適切な説明」を要求する権利があるわけです。「適切の定義をー!」ってヤジが聞こえてきそうですが、この弁論で言うなら、自己経験のみに頼らない、そして相手のことを思い誠意ある回答が適切かと思います。
 以上がこの弁論のテーマの一つ「パターナリズムと優位性」でした。
要約するなら、パターナリズムは良い面も悪い面もあるから何とも言えないけど、優位性のある上位者は適切な説明の義務があるよね。ということですね。はい。

【予告】


 皆さんだったらどうしますか?
 今は想像つかないかもしれませんけど、結局結婚して子供ができてなんて十分あり得る話だと思うんですよ。で、その子供を育てるときにですよ?私の母と同じで、あなたにはあなたの性知識しかないんです。もしかして、自分は人並みには性に理解があるから、俺なら大丈夫、私ならそれなりにうまくいく。まさか失敗はしないだろう。今、そう思いませんでしたか?
 私、その考えこそが問題だと思うんです。あなたたちは、自分の持つ性知識で十分だと思ってる。そう思う気持ちもわかりますが、だからこそ自分に足りない性知識に気づかない。気づけない。私はこの弁論でその慢心に気づいてほしい。

*注釈
 これが二つ目のテーマですね。
 ヤジの中に「弁士言ってることソクラテスと同じだよ!」ってのがありましたが、まさにその通りって感じですね。「家庭内性教育における無知の知」です。
 ひとつ前の注釈の「適切な説明」にかかわってくる要素です。人にとってもっともプライベートでデリケートな部分だからこそ常に問いかけは続けていてほしいものです。

 皆さんには、男として、女としての「何か」が死んでしまった…なんて思う子供を育ててほしくはないんです。私もそんな育て方はしたくない。

 社会問題を取り上げて、その解決を訴えるのもいいけれど、今日は、どちらかというと、私にできる精いっぱい。身近であり得る、でも未来の話をしたい。

*注釈
 これは前回の海の反省ポイントで、これ露呈してる大きな社会問題の解決を訴えるものじゃないからね〜って話です。そういう弁論じゃないからね〜って予告です。

 だから、この弁論では自分の性が死んでしまったように感じる、有馬龍一の経験からくる性についての弁論をします。他人事だと思わず、身近だから深刻な、そんな未来の話だと思って聞いてください。

*注釈
 これがうまく伝わってなかったなあという印象。もうちょい真面目な話アピールをした方が良かったかな?非常に悔しいです。

【一般論】
  母に初めて手術をすすめられたとき、私は、包茎が病気じゃないこと。そして、自分のタイミングで手術をすることをちゃんと伝えました。
 しかし、母には「経験からくる絶対的な自信」があったのでしょう。実際、母は「あんたのためを思って言ってるのに、そんなことを言われるのは心外。あんたが思ってる以上に世の中の女性は包茎なんて気持ち悪いと思ってるからね。あのね、お母さんは正しいことを言ってるの。」と言われて、乱暴に丸められてしまいました。

*注釈
 ここ、いろんな人から「それは毒親なのでは…」って心配されたけど、まあそうかもしれないですね笑。でも、私は「僕に自信がないのは全部ママと社会が悪い!」って話をしたいんじゃなくて、そんな演壇で地団駄踏んで駄々こねるガキになりたいわけじゃなくて、もっと未来の話をしたいんですよね。

 これって、自分の経験のみでしか話してなくて、なんか、論理的でないというか、そうじゃない人もいるんじゃない?と聞き返したくなるような話ですよね。実際、包茎は病気ではありませんし、男の7割は包茎なんです。母にあるのは女として少し知っていた性知識のみで、だから母はこういう考え方をしたんです。
 でも、これっていたって普通のことだと思うんです。普通だからこそ怖いんです。
 だって、性知識って日常的に使う知識でもないし、経験豊富な人でも、その性知識のサンプルはせいぜい10人程度で、その人の性知識が、残りの人すべてに当てはまるかというとそんなことは絶対ないと思うんです。でも、中途半端に知ってるからこそ、自分の性知識を過信してしまいがちになるわけです。

 こういう、僕の母と同じで、「性の知識なんて自分の経験で何とかなるでしょ!」って思ってる人の方が多いと思うんですよ。
 そうなると何がよくないって、自分の「間違ってる部分」とか、「偏ってる部分」に気づくことができないんです。

*注釈
 ここを「思うんですよ」で締めちゃったのがよくなかったですね…。実際調べれば、「自然とわかる」といった無責任な性教育に警鐘を鳴らす記事や、「失敗してしまったらどうしよう」という危機感を共有する記事は出てきます。そして「大人が学びなおすべきだ」と主張する記事も。
 でもまあ、それを使うと一気に他人事感が出て嫌なんですけどね。ひとつくらいは使った方がよかったですね。

【一般論・分析・反論】


 「ふーん、そうなんだ。まあ俺はそんなことしないけどね。」と思ってるそこのあなた!
 あなたにこそ言いたい!なぜそこまで自分の性知識が正しいと言い切れるのですか
 まだ僕たちは性教育をする場面に直面してるわけでもなくて、だから自分の性知識が正しいかどうかなんて考えたことはないはずです。それって、自分の足りてないところを探し出す作業すらしてないんですよね?でも、中途半端に知ってるから「俺だけは大丈夫」だって勘違いをしてしまっているんです。私たちは全員正しい知識を持っていなくてむしろ当然じゃないですか?

 つまりね、性の話ってどうしても自分だけの中途半端な経験ベースになりがちだから、「自分は他の人と違う」とか、「俺は正しい性教育を受けてきた」なんていう、自分の経験や考えに頼りきった慢心や驕りが生じがちなものなんです。だから、とりあえず今は、自分の足りない部分に気づきましょうよ。

*注釈
 僕は「無知の知」についてめちゃくちゃ詳しいわけではないんですけど、これに気づくのって相当難しいと思うんですよ。言い換えるなら偏見だったり、常識だったり、過去の蓄積がデカすぎて疑う余地がないような。だからこれはかなり強めに言いましたね。ここが一番強調したかったところなので、うまく伝わってない人もいたことに非常に悔しさを覚えます。
 そして、これって何にでも言えることじゃね?って話なんですが、それはその通りで、でも、僕としてはここで話を大きくしたくなかったんです。何度も考えましたけど、拡大したら、僕の経験が薄れちゃう感じがして、性の話から離れたら、僕がこの話をする意味はすごく無くなっちゃう感じがしたんです。でも、考えてはいました。この弁論の範囲とか結末とかは本当に悩みました。性にとらわれずもっと大きなパターナリズムと優位性の話もしたかった。だから、何にでも言えることとか、別のものを想起して、色々想像して共感してくれた人には感謝しかないです。ありがとう。

【一般論・悪影響】


  じゃあ、その足りないところに気づけないって何がよくないのって話なんですけど、それは、子供に自分の性の価値観を押し付けてしまう、固執的な性教育をしてしまい、多くの場合は影を落とすものだからです。
 僕の場合は、もともと、包茎には情けなさを感じていました。でも、母に否定され、手術をした今はさらに情けなさを感じます。私は自分の情けなさを解消するために、男らしく、自信をつけるために包茎手術をしたかったのに、今はさらに情けなさを感じ、自信はつかず、女性はずっと怖い。私の知らない女性は私の何を気持ち悪がっているかわからない。
 母の言葉ひとつで、私は「男として死んだような気がする」というコンプレックスを引きずって生きています。

 こうして植え付けられたコンプレックスは非常に根が深く、なかなか自力で払しょくすることができません。自分で持つようになった普通のコンプレックスとは異なって、植え付けられたコンプレックスは半生を共にする劣等感になります。

 整形を繰り返す人もそうなのかもしれませんね。美容整形広告に「二重の方がかわいい!」と植え付けられて、二重にして、次は「鼻筋が立ってる方がかわいい!」と植え付けられてまた整形をして…その承認の相手は自分ではなく、自分の容姿に口を出してくるその広告で、一生満足ができないのかもしれません。

*注釈
 まんまパターナリズムと優位性の悪影響の話ですね。私は母が満足するようにペニスにメスを入れたのでなかなか自分じゃ納得いかないもんです。それどころか怖いくらいですね。笑われそうなので消しましたが、母にとやかく言われていた時期は、よく夢で「鋏を持った女性が追いかけてくる」体験をしました。何かを暗示していたのかもしれませんでしたが、とにかく怖かったですね。皆さんはお気をつけてください。

【主張】


  さて、話も終盤。私の主張をもう一度言います。皆さんの子供には、私のように、自分の中の性が死んでしまったような、そんなコンプレックスを抱えて生きてほしくないのです。だからこそ、自分の性知識のみを頼るのではなく、まずは、自分が間違ってないかを疑ってみませんか?

【主張の優位性・影響】


 息子には、ベッドの下を除掃しない優しさを。
 娘には、少し多めの小遣いを。
 マセガキには、温かい目とコンドームを。

*注釈
 「娘には、少し多めの小遣いを。」という文は、まあ、女性って言わずもがな男性より買うものが多いので。それは化粧品もそうなんですが、生理用品とか、下着とかですね。要は器用な優しさです。
言葉にしたら急にキモくなるんで、あんまり書きたくはなかったんですけど、聞かれたので。

 大人にもう少しの優しさと器用さがあれば、誰だってもっと性的に自信がもてていると思います。誰だって性に興味を持って、ワクワクして、未来に期待できるはずです。
 子供にはもっと、性を楽しんでほしい。

 皆さん。私たちは大人になっても、親になっても決して全知全能ではありません。異性の性現象なんてわからないし、大人になってから、今の子供たちが性の何で悩んでるかなんて想像できません。だからこそ、子供のことを思うならば、もっと謙虚にになるべきです。

  本弁論では、子供な私の実体験から、親にこうしてほしかったという訴えを弁論にしました。正直、子供に親のことは理解できないと思います。子供ってわがままだし、僕もそうですけど、言っちゃえばクソガキですからね。だからね、親は子供が気付いてくれるまで、思いやりとともに教育をするんでしょう。私たちの子供が親になるまで、温かい目で見守ってやりましょう。
本弁論を終了します。ご清聴ありがとうございました。


まとめ

ここまで読んでいただいてありがとうございました。以下はまとめです。

 私はこの弁論で結局何を伝えたかったのでしょうか。って書いたら「知らねーよ!」ってヤジが飛んできそうですね笑。まあ、何を伝えたかったのか。それは親としてあるべき姿みたいなものです。かなり性の話に回収してしまったのでその多くは語れていませんが…。
 自分語りになるし、母親が悪いみたいな話になるので、細かい話は割愛しますが、私、割と特殊な家庭で生まれてまして、「毒親」とはまた違う気もするんですが、まあともかく、「親と子供」ってテーマはよく考えるんです。その中でも特に「パターナリズムと優位性」が特に気になっていました。そして、日常生活では我慢できたいろいろなことが「半強制の包茎手術」で爆発しました。だから伝えたいことはもっといっぱいあったんです。ただ、起爆剤のショックが大きすぎて弁論ではそこにかなり比重が寄ってしまいました。すべてを弁論に載せきれなかったこと、性の話でさえ伝えきれなかったこと、伝わらなかったことがただ悔しいです。まして下ネタに回収されてしまったのはもうどうしようもないくらい悔しいです。私の実力不足によるものなので、これからも精進します。

 さて、お気持ち表明はそこまでにして、解説の続きをします。最後は演題についての解説です。
 今回の演題「残酷な天使のテーゼ」ですが、決して名曲を汚したつもりはありません。お気に障った方がいらっしゃるのでしたら、申し訳ありません。
 ところで皆さん「エディプスコンプレックス」ってご存じですかね。ギリシャ悲劇の一つ、「エディプス王」になぞらえて、フロイトにより提唱された概念のことです。
 概要としては、生まれた男児は母親を手に入れ、父親になり替わろうとします。男児にとっては母は異性であり愛情対象ですからね。そして父親になり替わるために父親のように強くなろうとします(同質化)。なり替わるために父親を排除しようとします。しかし、子供にとって父親は絶対的な存在なので自然と父親に対する恐怖を覚えます。最初は漠然とした不安だったり憎しみなんですけど、それが次第に、父親に「お前のペニスを切り取るぞ」と脅されるように感じるんだそうです。これは実際に口に出されなくても感じるんだそうです。いわゆるエディプスコンプレックスの「去勢不安」というやつです。そして子供はジレンマに陥ります。このまま母親を求めれば父親に「去勢される」し、父親の元に跪いて父親に愛される母親の立場に収まるのならば、子供は「去勢されている」と感じ、どちらにせよペニスを保持するための葛藤にさいなまれます。この際に子供は自分のペニスを保持するために母を諦め、父との対立も諦め、両親とは別の方向に歩きだす。こうしてエディプスコンプレックスは克服されて、子供はペニスを保持したまま社旗に飛び立つ。というのがエディプスコンプレックスです。ほかにも、男児と母親はペニスによりつながっているから父親はそのペニスを切ろうとするだったり、まとめて「諦めること」がエディプスコンプレックスの本題だったり、これに対抗してアンチオイディプスって概念があったりします。
 エヴァンゲリオンの物語はこのエディプスコンプレックスの物語と言われたりしています。(違う!という人にはすみません。僕の中ではこれが一番腑に落ちています。)「綾波=ユイ」であることは言わずもがな。そしてその女性を父親である碇ゲンドウと碇シンジが奪い合うような三角形はまさにエディプスコンプレックスの考えです。そして碇シンジは碇ゲンドウと対立をしながら、葛藤をしながら成長し、一人の男の子は男となり飛び立っていく。という筋です。
 そして、肝心の残酷な天使のテーゼなんですがこの曲は、愛しい我が子がやがて母の手から離れていく、そんなさみしさと同時に、その飛び立つときを祝福する。そういう意味だと私は捉えています。だから、残酷な天使のテーゼにある視点は母の視点なんです。
 それで結局何が言いたいのかというと「子供が何かを諦め、大人になるのは不安でさみしいけれど、その姿を祝福してあげよう」というメッセージを演題に込めているわけです。ただひたすらに子供の旅立ちを邪魔しないで上げてほしい。いつまでも親が手の中に隠していてはいけない。その翼で自由にはばたかせてあげてほしい。という願いです。締めの「温かい目で見守ってやりましょう」はそう意味が込められています。

 私たちはいずれ大人になります。絶対になるし、ならなければならないんです。そして、親になります。そうでなくても、子供と接することくらいはあるでしょう。そのときは、大人として、器用な優しさを子供に与えてあげてください。翼の生えた天使が空を高く飛べるように願いを込めて。

 さて、長々とお付き合いありがとうございました。私の弁論「残酷な天使のテーゼ」の解説はこれで終わりです。ここまで稚拙な文を読んでくださり、ありがとうございました。では、また。


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