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アシナガバチが来た


1

それは暑い暑い夏の日の事だった。

その時僕はものすごい締め切りラッシュに襲われていた。部屋の中で1人缶詰になって作業してたが、よりによってクーラーが壊れてしまい、ベランダへの引き戸と、玄関のドアを少し開け、短パン+タンクトップ姿で、必死になってペンを動かしていた。イラストレーターにとって、締め切りに遅れることは仕事を失うことを意味する。遅れは絶対に許されない。

そんな時に奴はやってきた。


それは大きめのアシナガバチだった。それが急に視界の隅に現れ、パニックになった。僕はのけぞって文字通り椅子から転げ落ち、上手く立ち上がれず、酔っ払った犬のように四つん這いのままかけ出して、玄関の外でへたり込んでしまった。


僕は蜂がものすごく怖い。


それは小学4年の時だった。その頃、僕の実家は2階建ての家の2階にあった。1階は祖父母の家である。ある日、友人2人と一緒に家に帰ってくると、玄関の鍵が閉まっていて、家の中に誰もいなかった。すると、親がいない間にスリルのあることをしたくなるのがその年頃なわけで、ちょっとした冒険をしようということになった。

その冒険というのは、雨樋を伝って2階のベランダに登ること。普段階段を使うところを、わざわざ雨樋で登ることに意味がある。


最初に登ったのは僕だった。雨樋は意外と登りやすかった。






 









目の前の小さい物体が蜂の巣とわかった瞬間、脳の至るところからアドレナリンがブワッと鉄砲水のように溢れだし、僕の時間感覚を圧縮した。

次の瞬間、蜂の巣の穴から、アシナガバチが1匹、また1匹と出て来きたが、その様子が完全にスローモーションになって、心のなかで、「あれ?蜂が1匹、2匹、3匹」と冷静にカウントすることが出来た。そしてその時間圧縮は、その3匹が毒針をむき出しにして、僕の顔面左半分を次々と刺していくところまで続いた。

僕は雨樋を手放して落下し、足を捻挫した。蜂はまだ襲ってきたが、上手く逃げ切ることが出来た。とはいえ、顔面3箇所。足の捻挫。そして何より、自分の脳裏に焼きついた、自分の顔を目指して襲いかかる蜂のイメージ。

それ以降、僕は蜂が極端に怖い。



2

あんなにアシナガバチを間近で見たのは、あの日以来かもしれない。僕は身動きできず、しばらく玄関の外に立ち尽くしていた。

ところが、だんだん冷静になってくると、今がイラストのしごとの締め切り間近だったことを思い出し焦りだした。ケータイの時計を見て、僕はパニックになりそうになった。

そこで僕は、玄関先にあるほうきを手に取り、蜂の出現に注意しながら、おそるおそる仕事部屋に向かった。

ところが蜂はどこにも見当たらない。この部屋のどこかに隠れているのだろうか。実際に、部屋の中に隠れる場所はたくさんあった。そして、間違いなく言えるのは、この部屋のどこかに蜂が潜んでいる、ということだった。

その証拠に、耳を澄ますと、音が聞こえてくる。




音自体は小さいが、僕を震え上がらせるには十分の音量だった。

ここで、普通の人なら、羽音をたよりに蜂を簡単に見つけるだろう。

ところが、哀しいかな、僕は右耳が聞こえない。幼いころオタフク風邪でやられたのだ。

そして、片耳が聞こえないということは、音の方向性がわからない。羽音がなっているのはわかるけれど、どこでなっているのかまではわからないのだ。

僕はへっぴり腰で、ほうきの柄を使って布団を捲ってみた。アシナガバチが飛び出してきたら、一本足打法でぶっ飛ばすつもりだった。でもそこにはいなかった。本をどかしてみても、ローテーブルの裏を見ても、テレビの裏を見ても、見つからない

どこを見てもいない。ただ羽音だけが聞こえる。

もう焦りで頭がおかしくなりそうだった。本当は僕はこんなことをしている場合ではないのだ。

こうなったらもう、蜂がいるのを承知で作業をするしか無い。蜂はもう、出てきた瞬間に叩き潰してやればいい。

しかし、短パン+タンクトップ姿で作業するにはあまりに心もとなかった。肌を露出し過ぎである。蜂の奇襲に備えるために、最低でも腕ぐらいは覆いたかった。

でも時期はセミも泣き叫ぶ灼熱の真夏。長袖のたぐいは全て衣替えしていて、防御力のあるものは期待できなかった。

ところが、なにも期待せずに、開いた引き出しの中に、それはあった。

まさに僥倖としか言えなかった...!

あったのだ....完璧な防具が。









それはコンビニのカッパだった。でもこいつなら蜂の針を防御には十分だった。長袖や脚の大部分はもちろん、首や頭を守れるのも大きい。これは予想外の戦力の発見だった。



ところがこれにはすさまじい短所があった。




カッパは水分を通さない。だからカッパの内側で湿度がどんどん上がって、ちょっとしたサウナになった。

10分ほど作業しただけで、全身の皮膚のありとあらゆる汗が、蛇口を全開にしたように体中から吹き出てきた。その汗が手に流れ、ペンタブレットまでびしょびしょになった。

額の汗も目に入る。何度も汗を拭い、水を飲む。暑すぎる。それでも背に腹は変えられぬと、必死で耐えて作業する。しかし頭もクラクラしてきて、手が止まるようになった。これを着て作業をするのはもはや限界だと思われた。


ところがその時、視界の隅が動く影を捉えた。

テレビ付近から現れたそいつは、部屋を旋回したあと、ベランダの網戸にピタッと止まった。











うおおおおおお!! きた!!!





僕はほうきをおおきく振りかぶって、蜂を叩き潰そうとした。

だが待て。待てよ...。

このまま振り切ったら、蜂が潰れるが、同時に、網戸に大穴が開く。これじゃあ潰せない。

そこでもっと大きな過ちに気がつく。なぜ網戸を閉めたままにしていたのだ?そのまま逃げて万事解決だったんじゃないのか?


とその時、蜂のハネが動き出そうとした。まずい、飛ぶ気だ。とっさに僕はなにも考えず、体が勝手に動いた。








蜂は網戸にしがみついたまま、網戸と、ガラス戸の狭い隙間に押し込まれた。


........おおおおお!

ということは、蜂を閉じ込めてしまったってことだ!

蜂を逃がそうと思ったのに、捕獲してしまった!!あのアシナガバチを!!!


その事実は、なぜか僕を興奮させた。純粋に虫を捕獲した喜びと、憎い敵を痛めつけるサディスティックな興奮とが入り混じってしまったのかもしれない。

しかし、まだ、ガラス戸と網戸の隙間が開いている。一刻も早く閉じ込めてしまわなければ...














僕はガムテープを隙間に貼り付けた。大慌てで付けたので、一番下まで貼り付けられなかったが、それでも、隙間の大部分は防いだ。

行き場を失ったアシナガバチは、網戸とガラス戸の狭い隙間で飛び回り始める。早く、一番下も塞がなければ。


すると、蜂が隙間を覆うガムテープの粘着部分に突進し、ひっついてしまった。





僕は思わず息を飲んだ。蜂がガムテープに絡み取られ、もがいてる...!

このガムテープは超強力粘着タイプ。ちょっとやそっとじゃ剥がれまい。

僕は勝ったと思った。

やがてこの蜂は衰弱してここで死んでいくのだろう。この部屋に入ったのが悪かったのだ。電灯の中に迷い込んで、出られずに死んでいく羽虫と同じなのだ。

しかしちょっとかわいそうな気もする。たまたま部屋に入ったばっかりに、悲惨な死を遂げるのは理不尽じゃないのか。

でも、だからといってすぐに助ける気にもなれなかった。ガムテープから剥がした瞬間、嬉々として襲われたらたまったもんじゃない。

そこでイラストを提出して、それでも生きていたら助けてやろうと思った。イラストの締め切りはもうギリギリだし、実際もうすぐ終わる。それまで辛抱したら大分弱ってる頃だろう。きっと安全に助け出せるはず。

弱っているアシナガバチを、優しくガムテープから剥がし、自然に返してやる様子を想像してみた。それはきっと卑劣な罠に引っかかったうさぎを助け、野に放ってやるのと似ているのではないかと思った。(今回は罠しかけたの僕だけど)。


そう思って席に戻ろうとした瞬間だった。




























なっ......






とりあえず、アシナガバチを追い払った。無事に。
























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