十四話 海に贈る花束

「ああ、やっと見つけた。随分と探したんだよ?」

土を踏む複数の足音に、ユーリは手にしていた花の苗を手にしたまま振り向いた。教会の脇道から歩いて来る男は、目が合うと聖母のような柔らかな笑みを浮かべる。
周りにいた子供たちも侵入者に気づき、走り回るのをやめた。

鴉の濡れ羽色の髪に、黒曜石のような瞳。
人形のように美しい顔をしているのに、その男は人に憧憬ではなく不安を感じさせた。
人間は左右対称のものを美しいと感じるというが、寸分の狂いもないとただ恐ろしくなるものなのだと、この男を見て初めて知った。
数年前から、その姿がまるで変わっていないことも恐ろしい。

「……みんな、教会に戻っていてくれますか?」
「でも、ユーリ神父は……?」

子供なりに、何かを感じているのだろう。
いつもならすぐに言うことを聞く子供たちが、ユーリの服の裾を掴んで動こうとしなかった。

「私は彼と話がありますから。さあ、早く」

小さな背中を押してやると、年長者がより幼い子供の手を引いて歩き出す。
その歩みが遅いことに、ユーリは内心焦りを感じていた。
いつ、男の気が変わって、子供たちに危害を加えるかわからないからだ。

子供たちは男の横を通り過ぎるようにして、教会へと入って行った。
ひとり、またひとりと扉の中に入るのを、男はにこやかに手を振って見送る。一見すると平和な光景なのに、ユーリは背中を汗が流れるのを感じていた。

ようやく最後のひとりが教会へ戻ったが、ひとり裏庭に残っているユーリを心配し、扉を閉めるのをためらうような素振りを見せる。
それに笑みを向けて、頷いた。
ただの虚勢でしかなかったが、今はともかく子供たちの安全が第一だ。
ようやく扉が閉まった時には、ほっと吐息をつかずにはいられなかった。

「……教会に、子供。まるで絵に描いたような理想の神父だね」

男は子供からユーリへと視線を戻した。相変わらず、完璧な微笑を浮かべている。昔よりは、気が長くなったのかもしれない。
少なくとも、子供たちがいなくなるのを待てるくらいには。
ユーリは土のついた花の苗を、静かに地面に置いた。
いつもは心を落ち着けてくれる土の匂いも、今は意味をなさない。
園芸用の手袋を外し、男の顔を見つめる。

「この国にあなたがいるということは、もう逃げられないのでしょうね」

聞かずとも、用件なんてわかっていた。
いつか、こんな日が来るだろうことも。

「聞き分けのいい子は好きだよ。ユーリはそうでなくちゃね」
「……ひとつ、条件があります」
「ん?」
「私が戻る代わりに、彼女のことは見逃してあげてくれませんか」
「彼女? ああ、パラスィオーナクのことかな?」

男はお気に入りのおもちゃを見つけた子供のように、目を輝かせた。
期待していたわけではないが、その様子を見て奥歯を噛みしめる。
自分ひとりでは、この男を満足させるには足りないということだろう。

「ユーリは昔から面白い。でも、ボクは自分の物は自分で管理しておきたいタイプなんだ。わかるだろう? 失くした物がそのままだと、気持ち悪い」「……彼女は何も知りません」
「それを確かめるためにも、ちゃんと話を聞かないとね」
「それこそ、あなたの嫌う『時間の無駄』ですよ」

いくら言ったところで、無駄なのだろう。
ユーリの言葉などはなから聞いていない様子で、男は笑った。

「そろそろ行こうか、ユーリ。お茶の時間に遅れてしまうよ」


***


──おれの、姉です。

高橋さんの唇は笑みを描いていたけれど、それは到底笑顔と呼べるようなものではなかった。
この人は、何を言っているのだろう。
頭が勝手に理解を拒む。

見つめ返すばかりで反応らしい反応を返せないでいると、高橋さんはまた私から海へと視線を戻してしまった。
濃い塩の香りを嗅いでいるうちに、徐々に頭が追いついてくる。
高橋さんの横に並び、波止場から海を見下ろすと波が高かった。
この中、『きれいに浮いていた』ことを考えると、おそらく命は助からなかったのだろう。
泳ごうとすれば、きれいになんてしていられないような荒波だからだ。

「どうして……」

問いかけたつもりではなかった。
ただ海を見ているうちに、どうして高橋さんのお姉さんはこんな荒れ狂った海に落ちてしまったのだろうという疑問が浮かんだだけで。
けれど、高橋さんは波の音の中に私の声を聞きつけた。

「どうしてでしょうね。おれも聞いてみたかった」

すでに過去へと向けられた言葉が胸を打つ。
謝ることもできずに波を見続けていると、ひとり言のように高橋さんがぽつぽつと話し始めた。

「おれたちは、この辺の出身じゃないんです」

おれたち、というのは高橋さんとお姉さんのふたりだろう。
相槌を求められる気配はなかったけれど、「はい」と会話の体で先を促した。

「ここからだと、けっこう遠い。北の、寒い地方の小さな街で生まれ育ちました」

脳内に、雪の降る静かな街の情景が浮かぶ。
なぜかその景色の中には、高橋さんだけではなく鳴海さんの姿も自然と描き出されていた。
ふたりが、兄弟のように仲が良いからかもしれない。

「旧家と呼ばれる権力者の家を中心にできたような、古くさい風習に縛られた街ですよ。父はろくに働きもしない酒飲みで、母はおれが生まれてすぐに亡くなったので、姉がおれの母親代わりでした。うちははっきり言って貧乏だったので、姉はおれが物心ついた頃にはもう、働きに出てましたね。色んなことをしてたみたいですけど、十七になった時に姉は旧家に奉公人として入ったんです」

言葉の端々に、高橋さんがその旧家をどう思っていたかが滲み出ている。
以前、『華族が好きではない』と言っていた時のことが思い出された。
おそらく、生まれ育った環境から出た言葉だったのだろう。

「……高橋さんもですか?」

会話の糸口を見つけたような気がして口を挟むと、予想に反して高橋さんは笑った。私を笑う、というより、自嘲のように。

「おれは、働きには出ませんでした。その頃はまだ八歳でしたからね」
「お姉さんは……」
「あの当時、十八でした。十歳、年上なんです」

高橋さんが自分のことではなく、年の離れた姉について語ろうとしていることはわかっていた。けれど、『あの当時』と語る時期をすでに決めていることに暗い予感を覚える。
私の予感なんて当たらなければいいと思うのに、話は徐々に陰を帯びていく。

「旧家での扱いが取り分けてひどかった、という話じゃありません。むしろ、待遇は他の仕事よりもよかったんじゃないかな。姉が務めている間、おれは空腹で眠れないということがありませんでしたから」

他人事のようにあっさりと語られているけれど、裏を返せば空腹で眠れぬ夜を幼少期に何度も過ごしたということになる。
私の家……母と二人で暮らしていた頃も、裕福とは言えなかったけれど、眠れぬほどの空腹を覚えたことはない。その陰に母の苦労があったのかもしれないが、少なくとも子供の私は気づいていなかった。
けれど高橋さんは違う。記憶に残るほどの体験をしてきたのだと思うと、相槌を打つことすらはばかられて小さく頷いた。

「でも、ひどい待遇の方が今になってみればよかったのかもしれません」
「え……?」
「だって、ひどい扱いをされてれば、身分違いの坊ちゃんに惚れたりなんてしないでしょう?」

使用人が仕えている家の人間に恋をする。
それがどれだけ絶望的なことかくらい、私にだってわかる。
たとえ本人同士の気持ちが通じ合っていたとしても、そこからの悲劇は想像に容易い。

「運の悪いことに、その旧家の坊ちゃんが優しい人だったんです」

それは運が良かったのでは、と言いかけて言葉を呑んだ。
高橋さんの表情から、その優しさが残酷な結果を生んでしまったのだと痛いほどわかってしまう。

「毎日毎日、家族のために働いてばかりでろくに遊ぶこともできないような状況で優しい声をかけられたら、ふらっと気持ちが傾いても仕方ないと思いませんか?」
「それは……」
「しかも、坊ちゃんは姉と年も近く、容姿にも恵まれていた。むしろ、惚れるなという方が難しい状況ですよ」

はは、と高橋さんは力なく笑った。
その笑い声は、すぐに波の音に攫われて消える。

「姉はすっかり坊ちゃんに夢中になりました。子供だったおれの目から見ても、幸せそうに見えましたよ。これでようやく、姉ちゃんも幸せになれるんだなって、思ってました」

弟が姉の幸せを願う。
それはとても当たり前のことなのだと思う。
昔なら、あまりわからない感覚だったかもしれない。
でも今は、私にも兄と弟がいるから、高橋さんの気持ちが痛いほどよくわかった。

大切な人には、笑顔でいてほしい。
長い年月が経っても変わらないはずのその気持ちはけれど、過去形にされていたことで叶わなかったのだとわかった。

「馬鹿ですよね。愛なんてものが、身分の差を越えられるはずないのに」

そんなことない、という言葉は、高橋さんの暗い瞳を見てしまうと出てこない。実際に、彼のお姉さんは越えられなかったのだと思うから。

「しばらくして、坊ちゃんに華族のお嬢さんとの縁談話が持ち上がったんです。でもおれは、坊ちゃんが断るものとばかり思ってた。だって、その時にはもう、姉と付き合ってたんですから。でも……」

違った、とため息混じりの声は重く、海へと沈んでいく。
けれど、話は私が予想していたこととは少し違っていた。

「ある日、坊ちゃんは消えました。街を出たんです」
「え?」

てっきり、縁談の相手と結婚してしまった……という話になると思っていただけに、驚く。
高橋さんはまるで子供におとぎ話を聞かせるかのように、「意外でしょう?」と笑った。

「逃げたんですよ、坊ちゃんは。旧家のしがらみから、縁談の相手から、そして……姉からも」
「…………」
「ひとり街に残された姉の惨めさが、わかりますか? 見ていられませんでしたよ。期待させるだけさせて……本当にあの人は酷い」

──あの人。

すぐ近くにその人物がいるかのような物言いに、どきりとした。

「その後は……どうなったんですか?」
「……今度は、姉に縁談話が持ち上がったんです。姉はもう二十一になってましたから、不思議じゃありません」

二十一というと、今の私よりふたつ年上に当たる。
まだ私の周りで嫁いだという友達はいないけれど、二十歳を過ぎたらと言っている子はいる。
高橋さんの言う通り、年齢を考えれば順当だろう。

「弟のおれから見ても、姉は器量良しでした。性格も穏やかで優しくて……坊ちゃんに出会ってさえいなければ、普通の幸せを、普通に手に入れるはずの人だったのに」
「……その縁談をお断りすることはできなかったんですか?」

立場や地位から、女性が自分の意思で縁談を断ることが難しい場合は多い。
でも恋人と別れたすぐ後に別の人との結婚だなんて、彼女の気持ちを考えれば無理強いできるものでもないと思いたかった。

「もちろん、姉は断りたいと言いました。でも、申し込んで来た相手がよりにもよって……華族だったんです」
「それは……」
「ええ、庶民の、それも底辺に近いおれたちに断る権利なんてありませんでした」
「で、でも……お父さんが反対してくれれば断ることだって……」
「ははっ! 反対すると思いますか? たとえ男爵位といえども、おれたちからしたら雲の上の人です。それこそ、父は諸手を上げて喜んでましたよ」

家族のためにずっと働きに出ていたような女性だ。
父親に縁談を喜ばれてしまったら、さぞ自分の気持ちを打ち明けづらかっただろう。

「じゃあ……?」
「おれも、姉は諦めて華族に嫁ぐものだとばかり思ってました。でも、そうはしなかった。父が断ってくれないとわかると、姉は自分で縁談を断りに出向いたんです」

一瞬、脳裏にパーティー会場で鷹司さんからの縁談の申し入れを断ってしまった時のことが過った。
正式な申し込みでなかったあの場ですら、周りの人々は驚愕に目を見開いていたのだ。
家に申し込まれたものを本人が断りに行ったりしたら、どうなるのか。
想像するだけで身が竦む思いがした。
私が想像できるくらいなのだから、高橋さんのお姉さんがそれをわかっていなかったはずがない。

それでも、できなかった。
周りの人々に、家族にすら後ろ指をさされるのを覚悟していたに違いない。

「狭い街では、噂はすぐに広まります。姉は……華族様の申し入れを断った不届きものとされました」
「ひどい……」
「そのせいで街に居づらくなって、結局街を出たんです。姉はおれを連れて行こうとしました。けど、父がそれを許しませんでした」

我が子がふたりも同時に手元からいなくなるのは寂しい。
けれど、高橋さんの口ぶりから、父親が幼い息子を手放そうとしなかった理由は寂しさが理由ではないと、私にはもうわかってしまっていた。
おそらく、働き手として残しておきたかったのだろう。
一家の稼ぎ頭であった姉が家を出てしまえば、お金が入ってこなくなる。
かといって、自ら働くような父親ならば、高橋さんのお姉さんは若いうちから奉公に出る必要などなかったはずだ。

「五年後に父が酒が原因で死ぬと、姉はすぐに戻って来て今度こそおれを連れて生まれ故郷を離れました」

父親とふたりきりで過ごした五年間について、ひと言も触れられないことが悲しかった。語らないだけの理由があるのだと感じてしまって。

「それじゃあ、高橋さんはお姉さんと暮らしてたんですか?」
「そうです。……と言っても、一緒に暮らせたのは一年だけでしたけど」

重い、重い溜息に、姉弟水入らずの暮らしに終止符が打たれた日のことを思う。その想像に、波止場に打ち寄せる波の音が重なった。

「姉は料亭で働いていました。そこそこ高級な店で、賃金もよかった。おれが想像していた以上に姉は幸せそうでした。違う幸せを、こっちで見つけたんだと安心しました。でも、違ってなんかいなかった」
「違って、いない……?」
「変わってなかったんです。姉が幸せだと感じることが。……おれ、見たんです。あの、坊ちゃんが同じ街を歩いてるのを」
「じゃあ……」
「ええ、そうです。姉にそれとなく探りを入れたら、こっちの料亭で働いていたら、坊ちゃんが客としてやって来たと言っていました。ただの偶然だと言っていましたが、もしかしたら姉は坊ちゃんがこの街にいるのを知って、ここに住もうと決めたのかもしれません」

自分を捨てた人を思い続け、会えるともわからないのに同じ街に住む。
その気持ちは、どれだけ深かったのだろう。

「当然、おれは坊ちゃんと会わないほうがいいと言いました。だって、自分を捨てた相手ですよ? でも姉は……お客さんとして来てるだけだからと笑っていました」

高橋さんの口から聞いているだけなので、本当のところはわからない。
お姉さんの言う通り、ただの客と女給の関係だったのかもしれない。
でも、高橋さん自身がそうは思っていないことは明らかだった。

「そうして、一年が経った年末の寒い日に……姉はこの海に身を投げました。自殺、したんです」
「どうして……」

他に言葉が見つからない。
高橋さんは疲れきった表情で頷いた。

そうですよね、おれにもわかりません。
そう言っているように見えた。

「本当のところはわかりません。でもおれは……坊ちゃんが同じ街に住んでいることと無関係だとはとても思えなくて。姉が死んでから随分と調べました。そうして、わかったんです」
「……何がですか?」
「死ぬ前の日、姉は坊ちゃんに会いに『探偵事務所』を訪れていたこと」

──探偵事務所。

本当はもう、わかっていた。気づいていた。
この過去の話は、高橋さんの現在(いま)と繋がっているのだと。
探偵と言われて思い浮かぶ人なんて、ひとりしかいない。

私は口を挟むこともできず、ただ高橋さんの顔を見つめていた。
高橋さんも敢えて確認するようなことはしなかった。
けれど、今まで『坊ちゃん』と呼んでいた人は過去から現在の話になるに至って、呼び名を変えた。

「姉はまた、鳴海さんに捨てられたんです。一度目は踏みとどまった。でも二度目は耐えられなくて……」
「でもお客さんとしてお姉さんのお店に行っていただけで、付き合ってはいなかったんですよね……?」

女の人を捨てる男の人。
高橋さんのお姉さんを死に追いやった人。
その人物像と鳴海さんがどうしても一致しなくて、反論せずにはいられない。

「姉は、そう言っていました。でも本当のことを言うと思いますか? おれは初めから反対していたんです。身分差のある相手なんて好きになっても仕方ないって。そんな弟に、一度捨てられた相手とまた恋仲になっているとは言えなかったんじゃないかな……」

まるでそれこそが、相談ができない弟でいたことこそが罪であるかのように、高橋さんは苦しげに顔を歪めた。

「おれはそれから、なんとかして鳴海さんに近づけないかと色々手を打ちました。今は……わかりますよね」

今、高橋さんは鳴海さんの助手として仕事を共にしている。
高橋さんの作戦は成功したということだろう。

「……一緒に過ごして、確信したんですか」

だから、第三者である私にこんな話を聞かせたのか。
高橋さんはこの話を始めた時にはすでに、ある種の覚悟を決めていたように思う。

「確信……。そうですね。気持ち的には確信しています。証拠はありませんから、なんとでも言い逃れはできると思いますけど。だから、あなたにおれと一緒に来てもらったんです」
「私、ですか……?」

まっすぐに顔を見つめられ、困惑した。
この告発とも言える話が、自分と関係しているとはとても思えない。

「鳴海さんがこの先もずっと姉を忘れずにいてくれるなら、おれもこんな真似をしようとは思わなかった。でも鳴海さんは……!」

鋭い叫びに肩が震えた。
高橋さんの瞳は憎しみに燃えるというより、悲しみに沈んでいる。
その瞳だけで、高橋さん自身も鳴海さんを信じたいと思っているのだとわかった。

信じたい。でも信じきれない。

その感情の波に揺られている。

「正直に教えてください、千佳さん。あなたは……鳴海さんの恋人ですよね」
「え……」

思っても見なかった質問に、言葉が詰まった。
それをどう受け取ったのか、高橋さんが唇を自嘲の笑みに歪める。

「やっぱり、そうなんですね」
「ちょっと待ってください。違います。私は鳴海さんとはそんな……」
「でも、警護の依頼がある以前からふたりは知り合いだったはずです」
「依頼がある前って……」

どうしてこんな話になっているのだろう。
何かがどこかで決定的に食い違っている。
それを指摘したいのに、全体像が見えないせいでそれもできない。

「私が鳴海さんにお会いしたのは九条家から依頼をしたあとです。それ以前は鳴海さんのお名前すら知りませんでした」
「それは建前でしょう? 一体いつから付き合ってたんですか?」

違うと言ったところで、証拠でも見せない限り信じてもらえそうにない。
そんな雰囲気が今の高橋さんにはあった。

「……どうして私と鳴海さんが以前から知り合っていたと思うんですか?」
「根拠ですか。もちろんいくつかあります。第一に、鳴海さんは随分と昔から九条家、それも消えた長女について調べていました。ああ、あなたが九条千佳になってから初めて会ったのは、依頼のあとという意味ですか?」
「違います! そういうことじゃなくて……」
「第二に、おれが九条家の地図を作った時、あの人はそれを必要ないと言った。それは地図なんて必要ないくらい九条家内のことを知っていたからじゃないんですか」
「待ってください。鳴海さんも高橋さんも、九条家で寝泊まりをしていますよね? その時に把握したとは考えられませんか?」
「否定はしません」

あっさりと認めると、高橋さんは「第三に」と続けた。

「姉の誕生日に、鳴海さんはあなたといた」
「それっていつですか?」
「……今日です」

驚きに息を呑む。
今日ということは、九条家でのお披露目パーティー当日が高橋さんのお姉さんの誕生日ということだ。

「それは……」

気持ちとしてはわかる。
けれど今日という日を判断基準にするのは、鳴海さんにとって不公平な気がしてならない。
その意を唱えようとした私に、高橋さんはわかっている首を横に振った。

「毎年、あの人は今日だけは仕事を入れてこなかったんです。たとえ、お偉方の要請だろうとね。それが今年は違った」
「依頼の段階では、今日もお仕事になるなんてわからなかったと思います」「九条家からの依頼ですよ? ただでさえ、消えた長女について調べていた鳴海さんなら、それがあなたに関係する依頼だとすぐにわかったでしょう。あなたのお披露目パーティーの噂はすでに流れてましたし、パーティーの日付だって依頼を受ける時点でわかっていたはずだ。それでも、この仕事を引き受けたんです。それってもう、姉の元に行く気はなかったってことじゃないですか」「でも!」
「第四に」

高橋さんは私の言葉を遮るように、指を四本立てる。

「鳴海さんはパーティー会場に届けられたあの花束から、あなたを助けた」「どういう、意味ですか?」

護衛の仕事を請け負っていたのだから、危険から対象者を守ろうと行動するのは当たり前のように思えた。

「あの花束は、強い刺激さえ与えなければ何も起こらないよう細工をしてあったんです」
「それって……」
「……あれはおれが送りました」
「どうしてそんな……っ」

責める口調になってしまった私に、高橋さんは一度頭を下げた。
それは心からの謝罪に見えた。

「あなたを危険に晒すようなことをしたことは謝ります。でも、どうしても確かめたかった」
「……あれで、何がわかると思ったんですか?」
「鳴海さんが、どれだけあなたを大切にしているか。それを知りたかったんです」

やはりそれは、鳴海さんに公平とは思えない。
でも高橋さんには、何が公平で何が不公平なのか。その境界がすでにわからなくなっているのかもしれない。
そう思わせるだけの切迫感がある。

「パーティーの席に花束が届けられることなんて、よくあることでしょう? それなのにあの人は血相を変えて飛んで来て……よりにもよって投げるなんて。おかげで派手なことになっちゃいました……」

でも、という言葉はもう出て来ない。
あの花束の差出人である東家からは、すでに別のお祝いの品が届いていた。そして通りには不審な車も。
だからこそ、鳴海さんは花束がなんらかの危険があると判断したに過ぎない。それを高橋さんに説明したところで、意味はないのだろう。
高橋さんの中では、すでに答えが出てしまっている。

「わかったでしょう? おれもなんの根拠もなしにあなたをこんなところまで連れて来たわけじゃない。だから正直に教えてください。……あなたと鳴海さんは、恋仲なんですか?」

見つめてくる目は、否定してほしいと言っていた。
けれど引きつったような笑みを浮かべる唇は、私が何を言っても否定する準備をしている。

「……何度聞かれても、返事は同じです。私は、鳴海さんの恋人じゃありません」
「まだそんな……」
「高橋さんこそ、本当に私が鳴海さんの恋人だと思ってるんですか?」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「疑っていないなら、わざわざ私に確認する必要なんてないはずだからです」「それは……それだけが目的じゃないからですよ」
「私を屋敷から連れ出した理由が他にあるってことですか?」
「そうです。あなたがいなくなれば、あの人は必ず追って来る。そうしたら、ゆっくり話を聞くつもりでいるんです。……恋人を人質にとられては、嘘もつけないでしょうから」
「……わかりました」

ドレスの裾を軽く払い、私はその場に腰を下ろした。
動揺したように、高橋さんが数歩歩き寄る。

「高橋さんがそれで気が済むというなら、鳴海さんを待ちましょう」

脳裏に、私を探してくれているだろう人々の顔が浮かんだ。今もきっと、必死に探してくれているのだろう。
それを思うと早く戻りたいと気持ちは焦ったけれど、前にも後ろにも進めなくなっている高橋さんを置いては行けなかった。

「鳴海さんに聞きましょう。本当は、何があったのか」
「本当はって……聞かなくてもわかりますよ」
「わかっているなら、こんなことはしなかった。違いますか?」
「…………」
「だから、聞きましょう。鳴海さんは、真っ正面からぶつかられたら、逃げるような人なんですか?」
「……いえ」

俯いた高橋さんの唇には、寂しげな笑みが浮かんでいた。
見ていられず、視線を暗くなり始めた海へと移した。

「……さっき」
「はい」
「お姉さんの誕生日にはいつもお姉さんのところに行っていたって言ってましたよね」
「はい」
「あれは、ここのことですか?」
「……はい。あ、そうだ」

急に後ろを振り返ったかと思うと、高橋さんは早足に車に向かって行く。
私がその隙に逃げてしまうとは考えていないらしい。根がお人好しなのだろう。それはほっとするのと同時に、少し悲しかった。

早足に戻って来た高橋さんは、まだつぼみの薔薇を手にしていた。
一輪きりのその花を、海へと投げ込む。

「姉が好きだった花です。……毎年、あの人の役目だったんですけどね」
「鳴海さんの役目……」

海に手向けられた薔薇の花。

ふわりと風に乗って、塩の香りと共に薔薇が香った。
毎年、何を思いながら鳴海さんは花を贈っていたのだろう。
波に揺られる薔薇の様子を頭に思い浮かべているうちに、ふと思い出した。

「……もしかして、鳴海さんが毎年贈っていたのって薔薇の花束なんじゃないですか?」
「え? そりゃそうですよ。姉の好きな花だって言ったでしょう?」
「そうじゃなくて、一輪か花束かの差が大切なんです」

困惑したように、高橋さんは眉根を寄せる。

「そうですよ。おれは一緒に来たことはありませんけど、大きな薔薇の花束を抱えて出て行くところは見てましたから」
「……やっぱり」
「それがどうかしたんですか? 言っておきますけど、おれが一輪にしたのはお金がないとかそういうことじゃなくて、おれからもらっても姉だって困ると思って……」
「そうじゃないんです」
「はい?」
「私、鳴海さんは今年もここに来たんだと思います。今日ではなかったけど、会えない今日のために少し前に来てたんだと思います。薔薇の花束を抱えて」「……どういうことですか?」

確信があったわけじゃない。
でもそれは私の中でピタリと上手くはまった感触があった。

「数週間前のことなんですけど、鳴海さんと廊下でばったり顔を合わせたんです。その時に、鳴海さんからお花の香りがして。たぶん、あれは薔薇だったと思います」
「ば、薔薇なら九条家の庭にも咲いてるじゃないですか。庭をうろうろしてただけでしょう」

確かに、九条家の庭にも見事な薔薇がたくさんある。
あの頃も、花をつけていただろう。

「庭を歩くくらいで薔薇の香りが移ると思いますか?」
「それは……」
「廊下で会った時には、鳴海さんは何も持ってなかったんです。それなのに、花の香りだけはした。それって、ちょっと前まで服につくほどの薔薇を……薔薇の花束を、抱えてたってことじゃないですか?」
「匂いだけでそんな……飛躍しすぎですよ」
「私もそう思います。でももし、もし薔薇の花束を持っていたせいだとしたら」

それは、なんのための花束だったのか。

私が最後まで言うまでもなく、高橋さんは海に顔を向けた。
その目には、何が映っているのだろう。
私と同じように、海に向かって花束を投げる人の背が見えているだろうか。

「今年も、忘れてなかった……? でも、じゃあ……どうして……」

高橋さんのお姉さんと鳴海さんの間に何があったのか、私にはわからない。
でも、こんなにも苦しんでいる人がいるのだから、真実を教えてあげてほしいと思う。
それが例え、優しくないものだとしても。

「高橋さん」
「……はい」
「鳴海さん、早く迎えに来てくれるといいですね」
「え……」
「早く会って、早く話しましょう。何を聞けばいいのかって」

高橋さんと鳴海さんが軽口を言い合い、笑っている姿を思い出す。
あの笑顔に噓偽りなんてきっとなかった。

高橋さんは歯を食いしばったような顔で私を見つめる。
しっかりとその視線を受け止めてから、頷いた。

「……あなたは、びっくりするくらいお人好しだ。おれ、あなたのこと誘拐したのに」

子供みたいな目を向けられて、自然と唇が綻んだ。

「私を、安全な場所に連れて来てくれたんじゃないですか」

実際、この波止場はとても静かで、パーティー会場でのことなんて嘘のように感じられる。
高橋さんは何か言おうとしたけれど言葉にはせず、深く、深く私に向かって頭を下げてくれた。

「……迎えを待つのはやめましょう。皆さんの元まで、無事に送ります」
「ありがとうございます。戻ったら、まずは一緒に怒られてくださいね」

冗談のつもりで言うと、高橋さんは目尻を下げて笑った。
その瞳から、キラリと光るものがこぼれ落ちる。太陽はすでに沈み辺りは暗くなっているというのに、その涙だけはきれいに見えた。

「帰りましょう」

差し出された手を、そっと掴む。
互いに支え合うようにして立ち上がった時、こちらに近づいて来る車の音が聞こえた。

「何か来ますね」

車はまっすぐに私たちの元へ向かって来ている。
もしかして、鳴海さんだろうか。
鳴海さんが追って来ると言っていたくらいだ。居場所を前以て伝えてあったのかもしれない。
手を掴んだままだったことに気づいて慌てて離そうとしたけれど、思いのほか強く握られていた。

「高橋さん、あの……」
「このまま」

高橋さんが半歩、私の前に立った。背に庇われるような姿勢に胸がざわつく。見知った車だと確認したくて、近づいてくる車に目を凝らした。けれど、車はライトをつけていて色の判別がつかない。逆光で車内の人も見えなかった。

「どうやら、お迎えみたいです」

車が私たちのすぐ近くで停車する。
眩しすぎるライトに、私はたまらず目を細めた。


つづく

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