見出し画像

にほんご回復中【3853字】|篠田千明

第二回 3853字

ヨーロッパ公演のツアー中、リトアニアへの乗り継ぎで降り立ったワルシャワ駅。そこで出会ったあの人は、街から歴史へ、現在から過去へ、ポーランドの旅路へと誘った。著者がフィールドワークへの意識を拡げるきっかけとなった出来事を今改めて考える、連載第2回目。

  私は街にいると知らない人によく話しかけられる。他人から話しかけられるのが嫌ではない、というのがパッと見でバレているんだと思う。十数年前にポーランドのワルシャワ中央駅の地下のコーヒー屋で私に話しかけてきたおじさんにも、それは見抜かれていたに違いない。
 今回は、今までも友人には話してきたけど、文章にしていなかったエピソードを書いてみる。

 その時私は、ベルリンからワルシャワを通って、リトアニアのビリニュスに行く途中だった。ベルリンからは電車で一晩、午前中にワルシャワに着いて、駅前をひとまずぐるっと回った後、地下鉄やトラムがあったから中央駅から数駅離れたところまで移動して、そこからプラプラ歩きながら戻ることにした。その時の景色がなんか郊外っぽいというか、団地っぽい印象があって、馴染みのあるニュアンスだけどなんかこんな中心部でそういう感じなの不思議だな、と思った。
 パンかなんかを途中で食べて午後3時くらいに駅に辿り着いてビリニュス行きのバスは夜8時だから、それでも暇だな、どうしよう、とりあえず駅から離れないでいとくか、と地下にあった安いコーヒーショップで1時間ほど時間を潰していた頃に、Mさんが声をかけてきた。ジャケットは着ているけどそこまできちっとしている服装ではなくて、左胸に猫のブローチをつけていた。顔はすごく覚えているんだけど名前が曖昧で、Mから始まってるような名前だったので、Mさんと呼びます。
 Mさんは、あなたも誰かを待っているの?と声をかけてきた。彼は妻が電車で帰ってくるのでそれを待っているのだという。私は、自分はビリニュス行きのバスを待っている、と答えた。ワルシャワはどう?と聞かれたので、朝ついてちょっと駅の周りを歩いた印象、すごく中心部なのに郊外のようなニュアンスがある、というのをMさんに伝えた。Mさんは少し考えて、
「君はバスまでまだ時間があるんだよね?旧市街にはまだ行ってないってこと?」と手早く私に確認して、
「それじゃ私が今からこの街を案内しよう!」と即興的にタウンツアーを組んでくれた。

 まずMさんが私を連れて行ったのは、その駅から地下通路をいくつか通ってビルを真上に行った最上階のバーだった。
 エレベーターのドアが開いてパッと見えたバーはすごい高級そうって、ひるんだ私の気持ちにかぶせるように、Mさんが「私たちは景色を見るだけなので注文しません」とウェイターに言って、堂々とバーに入っていくのについて行った。
 ルーフトップバーの窓の下半分には並木通りと点々とした街灯と住まいの明かりが、上半分に夏の明るい夕方が夜との境を見せる高い空。
「この窓から見える範囲は、全て戦争の終わるまでに破壊尽くされたんだよ。そう、この景色全部。あなたが昼間歩いたあたりは、戦後に集合住宅が作られた、あの、あっちあたりじゃないかな」
と、Mさんはそこから見える窓の外の景色は正面だけでなく、戦後は四方全て瓦礫で街が消えてしまったのだというのを強調した。戦争というのは第二次世界大戦のことだろう、ポーランドもナチスに占領されて、えーっと、ああ、だから他のヨーロッパの首都の街並みと雰囲気が違うのか、あれ、でもパリも占領されたんじゃなかったけ、え、ワルシャワは街全体が破壊されたのか。
「全部って全部ですか」
理解が及ばなくて、ぼんやり聞き返してしまった。
「そうだよ。違う言い方をすれば今見えている景色は全て戦後に作られたんだ。例えば、あそこの窓から、見えるかな?大きなモニュメントがあるんだけど」
「あ、昼間に時間を潰している時に駅の周りで見たかもしれない」
「大きかっただろう?あのモニュメントを作るのに、子供の頃の私も参加したんだよ」
「どういうこと?」
「戦後は共産主義国家になったからね、その象徴として作られたので、子供たちがそのモニュメントを作るのに動員されたんだ。石や材料を運んだり積み上げたりして、人々の手で作る、というプロパガンダ事業だったんだよ」

(と、ここまで書いてきて、あれって実際どんな見た目だったっけ?と気になった。記憶の中ではとにかく巨大で、ぐるっと一周回るのに50メートルほどあって、具象的なたくさんの人間と抽象的な形が組み合わさっていたように思うけど、どうだったかな、とネットで検索してみた。
 ワルシャワ、駅前、モニュメント。けれどピンとくる画像が見当たらない。あんなに大きなモニュメントだから、観光ガイドに載ってないわけないし、急に脳にあるそのイメージが自分が本当にワルシャワでその時見たものなのか自信がなくなってきた。他の場所の記憶と混じっているのだろうか。ルーフトップバーの窓からMさんと一緒に見た気もするけどそうじゃない気もする。
 検索ワードを変えたり、英語で探したり、いろいろ試しているうちに、ある記事に行き着いた。ポーランドでは、2017年に公共の場に設置された共産主義の各種記念物や遺跡を、一年以内に除去することを定めた法案が成立したらしい。対象となったのは、共産主義や独裁政治に関係する彫刻、胸像、記念碑、題字などのほかにも、共産主義と関係する地名や名称も除去の対象となったそうだ。
 あの時私がそのモニュメントをMさんと一緒に窓から見たかどうかはやはり曖昧だけど、少なくともMさんが石を積み上げた"巨大なプロパガンダ事業"は、もうワルシャワには存在しない可能性は高い)

  Mさんの話で、昼間の不思議な感じが少しずつ腑に落ちていった。風景自体は変わったとこがないのに漂っていた違和感は、全て破壊尽くされた後に、共産主義国家によって集合住宅が作られたからだったのだ。
「さ、次の場所に行こう」
 Mさんは地上に戻るとタクシーを拾って、旧市街まで、と告げると、
「今から行くところは、戦争前の街並みを復元したエリアだよ。壊れた街の材をそのまま使って同じ場所に同じ建物を建てたんだ」と教えてくれた。
 10分ほどで到着した旧市街は、踏み入れると完全に、ああこれこれ、というヨーロッパの古い都市の街並みをしていた。復元したエリアというので一区画くらいかと思っていたら、入り組んだ小さな路地の石畳を歩いていくと広場に行き着く、オレンジの街灯に映える美しい街だった。
 だからMさんは私をルーフトップバーの後にここに連れて来たかった。こういう街並みがワルシャワにはかつて広がっていたことをしっかり想像してほしかったんだ。
 効果は絶大だった。私の頭の中で、瓦礫の山になったワルシャワと焼け野原になった東京が対比された。形あるものとして残す事とそもそも残らない事の間で想像は立ちつくした。破壊される前の同じ景色を、その瓦礫を拾い資料を集め記憶を寄せ合って、そっくりそのまま復元したワルシャワの人々の思いが石の合間から吹き出すように感じた時に、そうだ東京もなんにもなくなった後にできた街だった、と急に知識を超えて手触りを持った。
 興奮した私がそのようなことをべらべら喋るのを、Mさんは穏やかに相槌を打ちながら聞いていた。私たちはベンチに座っていろんな話をした。彼は大学の先生だという。オランダの大学で教えていて今は夏休みらしい。私も自分の話をして、演劇をやっていて、今はヨーロッパツアーの合間にリトアニアに行く途中で、今後ポーランドでもツアーができるだろうかと相談をした。Mさんはいくつか劇場の名前を教えてくれた。
 その時の会話は実はそこまで覚えていない。空の端がゆっくり完全な夜になっていくまで、私たちは小さな広場で話しこんでいた。

 最後にもう一箇所行ってそれで駅にそろそろ戻ろう、とタクシーをとめ、乗り込んだ車内で、実はあなたに秘密にしていたことがある、とMさんは言った。どんな秘密?と聞いても到着してのお楽しみと笑っていた。
 ものの数分で到着し、タクシーを降りると、Mさんは小さな丸い帽子を取り出してポンと頭に乗っけた。
「私はユダヤ人なんだ。ここはワルシャワで一番古いシナゴーグだよ」
 ということはつまり、と想像力のキャパを超えた私を尻目にまた、Mさんはスタスタとシナゴーグの階段を登っていくので慌ててついていく。門は閉じられていて、その横に警備員用の窓だったか扉だったかがあって、Mさんはそこで交渉をしていた。しばらく何やら話していたが、
「この時間はもう入れないんだそうだ。以前は夜でも入れたんだけど、最近はテロ対策もあってだめだってさ、申し訳ないね」
 と肩をすくめながら私を振り返った。Mさんは残念そうだったけど、立ち入れない場所があることが、完璧なツアーの締めくくりのように私は感じていた。

 Mさんの事は折に触れ思い出していたけれど、それから訪れていなかったワルシャワの街をまた見たのは最近の事だ。ウクライナ戦争が始まってすぐのニュースではワルシャワから中継されることが多かった。特派員の背後にある街並みは記憶とは随分違うように感じたが、あの妙にだだっ広かった地下鉄の構内はシェルターだったのか、と改めて気がついた。
 その後数回メールでのやり取りをしただけで、Mさんとは会わずじまいだった。5年ほど前にフェイスブックのMさんのフィードにお悔やみの言葉がたくさん並んでいるのを見た。英語で書かれたのは生徒か、ヘブライ語で書かれたのは親戚だろうかと想像した。
 それでも、歴史と土地の縦軸と横軸が頭の中でぶん回され自分と接続されたあのタウンツアーを土台に、今でもMさんを語り手として私の中でワルシャワの街の印象は変わり拡がり続けている。
 


「にほんご回復中」は隔月連載です。次回の更新は7/28(金)を予定しています。


著者プロフィール

篠田千明|Chiharu Shinoda

演劇作家、演出家、観光ガイド。2004年に多摩美術大学の同級生と快快を立ち上げ、2012年に脱退するまで中心メンバーとして演出、脚本、企画を手がける。その後、バンコクに移動しソロ活動を続ける。『四つの機劇』『非劇』と、劇の成り立ちそのものを問う作品や、チリの作家の戯曲を元にした人間を見る動物園『ZOO』、その場に来た人が歩くことで革命をシュミレーションする『道をわたる』などを製作している。2018年BangkokBiennialで『超常現象館』を主催。2019年台北でADAM artist lab、マニラWSKフェスティバルMusic Hacker’s labに参加。2020年3月に日本へ帰国、練馬を拠点とする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?