メルマガ『東医宝鑑(東醫寶鑑)とういほうかん─古典から東洋医学を学ぶ─』第386号「導引法」(内景篇・精)5

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 ◇ 東医宝鑑(東醫寶鑑)とういほうかん─古典から東洋医学を学ぶ─ ◆


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  第387号

    ○ 「導引法」(内景篇・精)

        ◆ 原文
      ◆ 断句
      ◆ 読み下し
      ◆ 現代語訳
      ◆ 解説

      ◆ 編集後記

       
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 こんにちは。精の章の「導引法」の続きです。
 

 ◆原文◆(原本の文字組みのままを再現・ただし原本は縦組み
      ・ページ数は底本の影印本のページ数)


 (「導引法」p86 上段・内景篇・精)

                                                              方將腰腿手
   脚從容放下如再行照前而陽衰矣如陽未衰再
   行兩三遍此法不惟速去泄精之
   疾久則水火既濟永無疾病矣回春


 ▼断句▼(原文に句読点を挿入、改行は任意)


       方將腰腿手脚、從容放下。如再行照前而陽衰矣。

  如陽未衰、再行兩三遍。此法不惟速去泄精之疾、

  久則水火既濟、永無疾病矣。回春。


 ●語法・語釈●(主要な、または難解な語句の用法・意味)

 
 ▲訓読▲(読み下し)

       方(まさ)に腰腿手脚(ようたいしゅきゃく)を

  將(もっ)て、從容(しょうよう)として

  放下(ほうか)せよ。如(も)し再(ふたた)び

  前(まえ)に照(てらし)て行(おこな)はば

  陽(よう)衰(おとろ)ふ。

  如(も)し陽(よう)未(いま)だ衰(おとろ)へざれば、

  再(ふたた)び行(おこな)ふこと兩三遍(りょうさんへん)せよ。

  此(こ)の法(ほう)は惟(た)だ速(すみやか)に

  泄精(せつせい)の疾(しつ)を去(さ)るのみならず、

  久(ひさし)きときは則(すなは)ち水火既濟(すいかきせい)して、

  永(なが)く疾病(しっぺい)無(な)し。回春(かいしゅん)。


 ■現代語訳■
  
       それから腰と腿、手と脚をゆったりと寛がせる。

  これを同様に繰り返せば陽は縮む。

  もしそれでも陽が縮まなければ、さらに二、三度行う。

  この方法はただ速やかに泄精の病を除くだけでなく、

  長く行えば、易の説く水火既済、すなわち水と火とが十全に交わり、

  永久に疾病が無くなる。『回春』

 ★ 解説 ★

 精の導引法の続きにして最後の段です。

 ここまでに、準備段階として身体の上部から下部への身体操作があり、さらに体内へ意識を向けての意識的な操作が解説されましたが、最後にその後の説明と効用がつけたされています。

 まずは一連の流れが終わった後の操作解説で、ここまで体では舌を上顎につけたり、腰を持ち上げたり、左手で尾閭穴を押さえたり、右手は親指を中に入れて拳を作ったり、様々な動作をしていたのでしたね。それを全て解き、緩めてリラックスしなさい、ということです。

 ちなみに、現在ではリラックスのように、横文字をカタカナにした言葉は当たり前で、感覚的にも馴染み、この場合にもリラックスと言ってしまえば簡単に、端的に表現できそうなのですが、やはり感覚的に翻訳に訳語として用いるには、私の感覚では抵抗があり、どうしても和語や漢語を使いたくなります。

 もう少し時代が下って、さらにカタカナ語が浸透したら、東洋医学の翻訳書でも当たり前にカタカナ語が使われる時代が来るのかもしれません。

 さて、そして同じことを繰り返せば「陽が衰える」と言っています。
 これに対応するのが、以前の一段目の文の「陽(よう)正(まさ)に興(おこ)る」でしたね。

  陽が興る→導引を行う→陽が衰える

 という流れがこの導引法に見られているわけです。とすると「陽が興る」という言葉が何を指しているのか、わかりますよね。

 もっと言えば、この段には「又法」として端的に説かれていなかったのですが、そもそもこの方法が何のために行うのかと言うと、一段目の「治遺精」もしくは二段目の「止遺精」でしたよね。

 それを組み込めば、

  陽が興る→導引を行う→陽が衰える→遺精を止める

 と、この場合の「陽」が何を指すのかがよりわかりやすくなりますね。

 そして最後に、この導引は泄精を治すのみならず、長く行えば病全般を無くすことができるんだ、と締めています。

 というより、元を考えたらこの方法は病を無くすことが本来の、というより本来はもっと先の目的があると思うのですが、ひとまず治病という観点からは、病を無くすことがこの方法の本来の目的で、その末端として泄精を治すことがある、という流れのはずですが、ここでは反対に泄精を治す観点から、こちらを主治として、全般的に無病になる、という説き方をしています。

 「水火既済」というのは易の六十四卦のひとつで、上に水を表す坎の卦、下に火を表す離の卦があり、それを上から「水火」と並べて六十四卦のひとつにしたものです。

 この卦は「既に済んだ」という言葉のように、完成を意味します。

 陰爻と陽爻とがそれぞれ全てあるべき場所にある状態から導き出された卦名ですが、象で見ると水は本来下にあるべき、火は本来上にあるべきで、それが逆転しているのに、「既に済(すんだ、わたった、ととのった、なった、しあがった・・・)」という名前が付けられているのです。

 医学方面で言えば、水は腎の腎水で、火は心の心火であり、それらが交わって健康が成り立つ、という発想ですね。それを実現するのがこの導引法であり、そのためにここにこの「水火既済」が言われているというわけです。

 具体的に言えば、気を督脈と任脈とに回して丹田に収めたのですが、それによって、水と火とが交わらせることができる、という発想がこの導引に関しては採られていることにもなります。

 原文には「水火既済」としか書いていず、読者が易の知識を持っていることを前提に説いているようですが、現在ではわかりにくいので訳は少し説明調に付けたしをしています。それでも背景までは盛り込めず、簡単な説明にはなっています。

 ちなみに易でこの「水火既済」に対応するのが「火水未済」で、陰爻と陽爻とが全てあるべき位置になく、また反対に火が本来あるべき上に、水は本来あるべき下にあるのですが、これでは互いに交わらないために、「未だ済んでいない」つまり、未完成という表現がなされているところがおもしろく、交わってこそ完成、という発想が興味深いところです。
 
 これは他の卦でもそうで、天が上で地が下だと「天地否」、本来、天は天にあって、地は地にあって自然だと思うのですが、それだと「否(ふさがる、通じない・・・」で、

 反対に、地が上にあり、天が下にある「地天」だと「地天泰」つまり「泰
 (とおる、通じ達する、平穏である・・・)」となり、これも同様に交わっていることを良しとする易の発想がわかります。

 さらに面白いのは、現在伝わる易経で、六十四卦の順番の並べ方は、完成たる「水火既済」は六十三番目で、未完成たる「火水未済」の方が一番最後の六十四番目なのです。普通なら完成が最後に来るように思えますが、完成は最後の一つ前で、未完成のほうが最後に置かれていることにもまた深い意味がありそうで、易の面白さ、奥深さの一端が伺えます。

 余談が長くなりましたが、これで精の導引法を読み終わりました。最後は精のみならずさらに奥深い方法が語られて終わりました。これを読むと東洋医学の治療が対症療法でないことがよくわかりますし、何をもって健康とみなすのかもよくわかるように思います。

 次はようやく最後の鍼灸法です。

 ◆ 編集後記

 導引法の続きで最後の部分です。解説が長くなり、いつもの配信の時間を越えて少し遅れてしまいました。

 導引法の最後にこの方法を持ってくるあたり、なかなかドラマチックな構成で、編者さんのセンスを感じます。

 解説の都合で細切れになりましたが、ようやく導引法を読み終わりました。次はようやく章の最後の鍼灸法です。
                      (2020.10.18.第387号)
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