メルマガ『東医宝鑑(東醫寶鑑)とういほうかん─古典から東洋医学を学ぶ─』第375号「単方」(内景篇・精)9
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◇ 東医宝鑑(東醫寶鑑)とういほうかん─古典から東洋医学を学ぶ─ ◆
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第375号
○ 「単方」(内景篇・精)
◆ 原文
◆ 断句
◆ 読み下し
◆ 現代語訳
◆ 解説
◆ 編集後記
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こんにちは。「単方」の「金櫻子」です。
◆原文◆(原本の文字組みのままを再現・ただし原本は縦組み
・ページ数は底本の影印本のページ数)
(「金櫻子」p86 上段・内景篇・精)
金櫻子
澁精氣止遺泄和〓頭實作水(〓奚隹)
陸丹方見正傳補眞秘精甚佳本草
▼断句▼(原文に句読点を挿入、改行は任意)
金櫻子
澁精氣、止遺泄。和〓(奚隹)頭實作水陸丹、
方見正傳、補眞秘精甚佳。本草。
●語法・語釈●(主要な、または難解な語句の用法・意味)
▲訓読▲(読み下し)
金櫻子(きんおうし)
精氣(せいき)を澁(しぶふ)し、
遺泄(いせつ)を止(とど)む。
〓(奚隹)頭實(けいずじつ)に和(わ)し
水陸丹(すいりくたん)と作(な)し、
方(ほう)は正傳(せいでん)に見(み)ゆ、
眞(しん)を補(おぎな)ひ精(せい)を秘(ひ)すに
甚(はなだ)だ佳(よ)し。本草(ほんぞう)。
■現代語訳■
金桜子
精気の漏れを防ぎ、遺泄を止める。
〓(奚隹)頭実と混ぜ、水陸丹を作る(処方は正伝参照)。
真気を補い、精を保つのに甚だ効果が高い。『本草』
★ 解説 ★
精の単方のうち、金桜子です。
読んでみてすぐに気が付くのは、〓(奚隹)頭実とで別の処方が挙げられている点ですね。思わず「単方じゃないやん!」とツッコミを入れたくなりますが(笑)、なぜこれを前の処方の欄に入れずに単方に入れたのか、不思議でもあります。
そして、引用元として、通常はこの東医宝鑑内での別項を参照するのですが、以前に読んだ部分でも『医学入門』、つまり別の著作を参照していた部分があったように、ここでも『医学正伝』を参照しています。
そちらを見ると「水陸二仙丹」という名前で出てきます。
ご興味おありの方は、何度か課題的なテーマを挙げたように、ここでもこの医学正伝のどこに登場するのか、どのような効用でどのように記述されているのか、またさらなる引用元は何か、などお調べくださればと思います。
読みは特に問題ないと思いますが、訳に関して原文で「渋」「秘」をそれぞれ「(精気の)漏れを防ぐ」「(精を)保つ」と言葉を言い換えています。
これの正否は難しいところで、言葉を置き換えると元の漢字が持つ意味から抜け落ちたり、またニュアンスが変わってしまったりすることが多々あるのですね。
かと言ってこの部分は「渋くする」「秘す」では少し現代語としてわかりにくく、上記の訳にしてみました。このあたりも、原文からご検討いただき、原文のニュアンスはどうか、この訳で正しいか、適切か、原文の意図をよく反映しているか、もっと良い訳語はないか、などご検討くださればと思います。
このような部分を読むと漢字がいかに簡潔に、端的に物事を表現できるかが実感され、それを現代日本語に訳す難しさを実感します。
原文ではたった一字、「渋」「秘」ですからね。
「秘」は今でも「便秘」など日本語でも普通に使われる単語もあって、用語として漢字の意味を意識して用いているかどうかはともかく、また「渋」は、「おしっこが出渋る」など、今はあまり言わないかもしれませんが、いちおう日本語でもあって、感覚的にはわかりますが、かと言って訳語として用いるほど通りがよくないようで、いつもながらどこまで砕いて訳すのかのラインの判断は難しいです。
先行訳はこの項目を、
〓(奚隹)頭実と同じように水陸丹を作って服用する。
とだけ記しています。
前号で「珍訳・誤訳」と銘打って、コラムとして先行訳の訳を検討しましたが、これなども別の部分を拾うまでもなくこの部分でコラムが書ける、全くの、珍訳とも言いにくい手抜き訳ですね。
改めて私が作った訳と、先行訳を並べてみます。
精気の漏れを防ぎ、遺泄を止める。
〓(奚隹)頭実と混ぜ、水陸丹を作る(処方は正伝参照)。
真気を補い、精を保つのに甚だ効果が高い。『本草』
〓(奚隹)頭実と同じように水陸丹を作って服用する。
先行訳がどれほど省略をしているかが明白ですね。また省略しているだけでなく、内容も杜撰です。
まず、効用の記述を全て省略しているのでこの生薬と水陸丹が何のために用いるのかが全くわかりません。
さらに、原文では金桜子と〓(奚隹)頭実とを一緒に用いるように書いてあるのに、先行訳では「〓(奚隹)頭実と同じように水陸丹を作」ると、これでは金桜子と〓(奚隹)頭実とどちらでも水陸丹が作れるように読めてしまい、日本語として意味をなさない記述になってしまっています。
そして例によって、引用元の記載もなく、また本文中の医学正伝に水陸丹が掲載されていることも省略されています。まあ凄い訳があったもので、これが東医宝鑑の名のもとに出されたことに憤りさえ感じてしまいますね。
引用の省略くらい良いのではという見方もあるかもしれませんが、ではなぜ元の編纂者さんは、わざわざ引用元を記したのでしょうか。それこそ、引用元など記さずに独自の著作風に仕上げることもできたはずです。
これは医書の伝統であるとともに、おそらく東医宝鑑の成立事情とも関わるのではと思います。
ここでずっと以前に読んだ、東医宝鑑の冒頭にある「集例」を思い出していただきたい、もっとも配信が2011年の1月ですのでその頃からお読みの方も少ないと思い、再掲しますが、その中にこんなくだりがありました。訳のみで記載します。
王節齋の言葉に、
「李東垣は「北医」である。
羅謙甫がその手法を伝え、江浙に名声を博した。
朱丹溪は「南医」である。
劉宗厚がその学を継承し、陜西で名を鳴らした。」とある。
このように、医に南北の名をつけ呼んで久しい。
我が国は辺鄙な土地にして東方にあるが、
医薬の道統が絲のように、絶えずに伝わっている。
ゆえに我が国の医を、同様に「東医」と
呼ぶべきであろう。
この「東医宝鑑」の名称のゆえんが説かれた貴重な部分でもあるのですが、大本の中国の医学の伝統を正当に受け継いだという自負の元に書かれているのですね。
引用元を記すことで権威付けた、という穿った見方もできそうですが、この集例を読めば、そうではなく、先達の業績に対する謙虚な姿勢からの所業と見ることができるのではと思います。
ですので引用元の記載を消すことは、単に情報を省略しただけでなく、そうした元の著作、編纂者さんが抱いていたはずの精神までも消してしまったことになり、そうなればそれは元の著作とは遠く離れた体裁と内容であり、もっと言えばもとの著作の意図と精神を踏みにじる冒涜とも言わざるを得ないのではと思います。
つい熱くなってしまいましたが、先行訳をお持ちの方は補足してくださればと思います。
◆ 編集後記
「単方」の「金桜子」です。今号も生薬ひとつで、後半はコラム的に先行訳の情報と、それに絡めて東医宝鑑の特質を書いてみました。
引用にも関わりますが、翻訳をしていて思うのは、東医宝鑑を読むことは、その引用元である内経や、その他先行の医書を直に読むことでもあるのですね。
今号の水陸丹のように、翻訳に際して引用元の記述を確認する必要があり、そちらの著を開くと、案外すんなり読めることに気が付くのです。こちらの読解で培った語彙力であったり、読解力であったりが、他の古医書をすんなりと読ませる力をつけてくれているのです。
東医宝鑑をしっかり読むということは、他の古医書をある程度すらすら読む下地を作るということでもあると思い、こちらをしっかり読まれた方は、たまに別の古典を読んだいただけば、東医宝鑑を読むことが古医書を読む訓練になっているという効用をおわかりいただけるのではと思い、またメルマガをそのような読み方、そのようなレベルになれるような読み方をなさっていただけたらと願います。
次号は続く山茱萸です。しばらく単方の単調な記述が続きますが、この章はひとまず最後まで読んでしまいたいと考えています。
(2020.07.26.第375号)
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