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【映画メモ】生きてるだけで、愛

■公開:2018年/日本
■原作:本谷有希子の同名小説
■監督: 関根光才
■脚本:関根光才
■キャスト:趣里、菅田将暉、田中哲司、西田尚美、松重豊、石橋静河、織田梨沙、仲里依紗

※ネタバレややあり。


津奈木(菅田将暉さん)は「あのさぁ、お前のこと、本当はもっとちゃんと、わかりたかったよ」と寧子(趣里さん)に言ったけれど、彼の寧子への態度に私は、寧子の奇怪な行動ひとつひとつは理解出来ないけれど、お前がそういう行動をしてしまうんだということだけはわかっているよ、そんな想いを何度も感じた。

津奈木のそれは、無断欠勤後久々に出勤してきた寧子を「おぅ、久しぶり」と受け入れたバイト先の店主の寛大さや、「寧子ちゃん、着替えてきて」と言った店主の奥さんの優しさと同じ類でありながら、それらよりも遥かに深い愛だと思った。

相手を理解したつもりになるのは簡単だけど、理解しようと努めながら、理解できない部分があることを悟り、それでも隣にいることは、想像以上に、きっと、難しい。

津奈木の元カノもクレイジーであることから考えると、津奈木自身が抱える闇も相当な気がする。主人公と津奈木の関係は共依存的だ。停電を極度に怖がる寧子が、いつものごとくブレーカーが落ちて暗くなった部屋で「また。あんた、わざと停電させてるわけじゃないよね」と冗談めかして言った後のが、意味ありげに感じられたのは私だけだろうか。停電は津奈木のせいなのか? それはないか。深読みしすぎ? でももし本当にそうだったら、津奈木のほうがヤバイ。それとも、そんな発想に至る寧子と、それよりはまともな津奈木が交われないことを意味しているなのだろうか。他の方の見解もぜひ聴きたい。


最後に、この映画で私が1番共感したことをお話ししよう。


それは寧子や津奈木が抱える
「自分の何かが、みんなに見抜かれてる気がする」という恐怖。私も同じような感情を抱いていた時期がある。気づけば随分弱まっていたけど、20代前半まではそんな気持ちが強かった。

私はよく「バレそう」と思っていて、それを束の間お世話になった職場の社長に話したことがある。「何が?」と聞かれたところで、バレると困る何かは、明確にはわからなかったのだけど。でも彼はそう告げた私にやっぱり「何が?」と尋ねてきた(当たり前だ 笑)。

そのとき私はたしか
「はっきりとはわからないんです。でも、家族や彼氏、親しい友達以外の人と長時間一緒に過ごすと、そういう気持ちになるんです。だから拘束時間が長い仕事は嫌いで(そこはシフトが自由で、拘束時間が短かった)......」というようなことを話した。

そんな話を雇い主にできる私に、バレたら困ることなんて本当にあったのか? と書いていて思ったけど 笑

今ならはっきり答えられる。私があの頃、何がバレたら嫌だったのか。

夢を叶えることで頭がいっぱいで仕事なんて本当はどうでもいいと思っていること、でも成果を出して人から評価されたいこと、本当はそこまで明るくないこと、自分に自信がないこと、自分を良く見せたいと思っていること、それらがバレたら困ると思っていること(ありのままの自分を許せていないこと)……そういうことだ。


今だって、誰にでも全部をさらけ出せるわけじゃない。


でも、昔よりずっと楽だ。


それはきっと、バレてもいいと思っているからというより(前よりはありのままでいいと思えるようになったけれけど)、「バレたら嫌だ」と思うことを、当然のこととして許せているからだ。誰にだってあるもんね、人に知られたくないことが。

バレてもいいと思えない自分を、今の私は受け入れている。だから昔より生きていきやすいのだと思う。


いろんな意味で好みが分かれる映画だと思う。淡々と描かれた映画が好きじゃない方には、もしかすると合わないかも。また寧子に、共感するか嫌悪感を抱くかによっても感じ方が大きく変わるだろう。


私は、寧子に丸ごと共感するほどぶっ飛んだ人間ではないが、そういうクレイジーな言動の根っこにあるもの(人と上手くやっていけないことによる生きづらさ)は、自分の中にもあると思った。


そして共感することも嫌悪感を覚えることもなく、「ただただよく分からなくてつまらない」と感じる人、この映画がほんの少しも刺さらない人は、きっと分数の割り算で引っかからなかった類の人(おもひでぽろぽろ) だろう、と思った。



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