【気まぐれエッセイ】“1番厄介な感情” のやっつけ方

何かに集中している人って、魅力的。人のそういうところを見ると、老若男女問わず、『素敵だな』と感じる。特に、カフェで書き物をしているときにそういう場面に出くわすことが多い。

「そんなに一生懸命、何のお勉強をされているんだろう?」
「すごく集中されているみたいだけど、その本そんなに面白いのかな?」

そんな風に考えていると、人って中身がギュッと詰まっていて、みんな素敵なんだなぁと思えてくるのだ。自分がいまいち仕事に集中できないときなんかは「没頭できて羨ましいな~」とも。


“今この瞬間”に集中できるって、豊かな人生に欠かせないことだ。


ある時期から私は、それが苦手になった。そしてその傾向は、大人になるにつれてますます強まった。どこで何をしていても他のことが頭をよぎり、その他のことに携わっているときにはまた別のことを考えてしまう。その場にいるのにどこかうわの空で、楽しいのはずなのに、いつもちょっと物足りない。

何度か書いているけれど、私が31年間の人生で最も悩んだことは “人は皆いつか必ず死ぬ” ということについてだ。そんなに存在していたいくせに、永遠に感じ考えていたいくせに私は、『何も叶わぬままオバサンになっていくのか』と悲観的な考えが浮かんだときには、この先楽しく生きていける気がせず絶望的な気持ちになる。


”虚しさ”ってやつは、ありとあらゆる負の感情の中でもとりわけ厄介で、こうして人の心を蝕んでしまう。命の尊さを、時にふっと忘れさせてしまうほどに(もし様々なご事情で生きたいのに生きられない方や、ご遺族の方が目にされ不快な想いをされたら、ごめんなさい。今日も命があることに、心から感謝しています)。


以前心理カウンセラーの方に言われたことで印象に残っていることがある。それは「あなたが自信を持てないのは、成功体験がないからではなく、自分自身の感情で体験を積み上げてこなかったから」というもの(もう5年以上前の話なので、細かい言い回しは違っていると思うけど)。「誰かの人生を生きてきたから」というような内容や、その誰かとはおそらく母親ではないかという意見に反発を覚え、そのときは腑に落ちなかったのだけど、心の奥底ではその通りだと感じたからこそ、今も覚えているのだと思う。


そして今はっきりと、『その通りだ』と思っている。とは言え、私の母は、私に生き方を押し付けたことなど一度もない。私と母の関係はとても近く、たしかに母の影響を強く受けてはきたが、まるっと母の理想を生きてきたわけでは決してないのだ。むしろ私がいつも目指してきた“理想の自分像”の形成には同級生たちとの関わり方や、集団社会での居心地の悪さなどが強く影響していると思う。

ただ、私は第二反抗期を迎えた9歳の頃から20代半ばくらいまでずっと “理想”“正しさ” を基準に、本音を抑えつけてきた。正しさとは言ってもあくまでも自分基準だから、必ずしも人に胸を張れる行動ばかりをしてきたわけではないけれど、”素直な感情” より ”理想” を優先して走り続けてきたことに違いない。


虚無感の原因は、間違いなくそんな生き方だ。


本音を無視しているから、虚しいのだ。当然だよね。本当にやりたいことじゃないのに、心から楽しめるわけがない、集中できるわけがないのだ。自分と向き合って、色んなことが分かってきて、最近ようやく、没頭出来る物事や時間が増えてきた。


虚しさをやっつけるために1番手っ取り早いのは、”無性に好きなことをやる” ことだと思うのだけど、まずそれを思い出す必要のある人って、本当に多いんじゃないだろうか。昔の私のようにね。月並みではあるけれど、やっぱり幼い頃に好きだったことを振り返りやってみるのがいい。頭ではなく感覚で行動していた幼い頃には、本当の自分に返るヒントがたくさんあるから。

好きなことって、人に堂々と”趣味”として話せるようなカッコイイことじゃなくていいんだよ。生産性のないくだらないことでもいいの。それに携わっていることを楽しいとか心地良いとかって思えるのなら、それって宝物だから。


本音で生きられるようになれば、必ずまた人生に夢中になれるから。


今私は、22年ぶりにようやくそれに近い感じで、生きられている。

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