【気まぐれエッセイ】学の無い私が考える、戦争をなくす方法

私が人生で最も悩んだことは、人は誰しもいつか死ぬということについてだ。最近になってようやく、自分の信じたいもの(例えば死後の世界とか)を信じることが出来るようになり、幼い頃のように苦しむことはなくなったのだけど。

小学校1~2年生の頃にふと「人は死ぬとどうなるのか?」という疑問を抱き、その疑問がはっきりと恐れに変わったのは小学校4年生くらいの頃。小学校5年生の頃がピークだったように思うけど、そのことを考え始めると気が狂いそうになるのは中学を卒業するくらいまで続いた。

死について考えるようになったきっかけが2つあるのだけど、1つは曾祖父の死。そしてもう1つは、戦争や原子爆弾について知ったことだ。小学校1~2年生くらいの頃、母が観ていた「火垂るの墓」が恐くて、「チャンネルを変えて」とせがんで断られたのを覚えている。ちょうど主人公が、爆弾で大やけどを負った母親に会うシーンだった。主人公の母親は全身を包帯で巻かれ、唯一出ている目の部分には目の玉がなく、その部分は赤くえぐれていた。私は、自分の母がそんな姿になってしまったらと思うと、悲しくて寂しくて恐ろしくてたまらなかった。

それに加え同じ年の頃に読んだ原子爆弾をテーマにした絵本にも、私はかなりのショックを受けた。皮膚がずる剥けになる、リンパ液が出てくる、転がっている死体をよけて(時には踏んでしまいながら)、焼けただれた体を引きずり水を求めて歩く。そんな情景が描かれた絵本は、私の人格形成におそらく大きな影響を与えた。

死への恐怖の根源にあるのは、自分や大切な人たちの存在が消えてなくなり永久に復活しないことに対する恐れだったのだけど、「死」に「戦争のイメージ」がつきまとうことでより恐怖心が強まったのは間違いないと思う。


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前置きが長くなってしまったけど、今日お話ししたいのは、戦争はないほうがいいよね、じゃあどうやったらなくなるのかな、ということ。

戦争ってどうやったらなくせるのかなって、学のない私なりに考えることがあるのだけど、最近思っていることを1つ書いておこうと思う。いつか自分で読み返して「何言っちゃってんの、私」って思うかもしれないけど、今はこう思うから、書いておこうと思うのだ。


各国の情報規制がなくなり、インターネットが更に発達して、世界中の人が個々にもっともっと情報を自由に取得出来るようになり、今よりもっと自由に働き方や住む国を選べるようになれば、戦争って自動的になくなるんじゃないかって思うんだよね。母国で暮らし続ける場合も、そこしか知らないから、そこで生まれたから、意志に関係なくそこで暮らすというのではなくて、たくさんの選択肢の中から敢えて母国を選んで住むようになればいいなと思う。だって人が国に依存せず生きていけるようになれば、戦争は起こりえないと思うの。

極端な話、A国とB国が戦争しようとしても、それぞれの国の国民たちが皆「戦争に参加するのは嫌だからC国で生きていきます」って言い出したら戦争しようがなくなるもん。戦う人もいなくなるし、爆弾を投下したところでそれによって被害に遭う人もいなくなるわけだから。世界中の人々が個人として生きる力を得たら、「戦争」なんて物騒な選択をするA国やB国は衰退し、平和主義のC国やD国が繁栄する。C国やD国の受け入れ制度の問題などもあると思うけど、今回は、そこは抜きにして、私の妄想話に付き合っていただけると嬉しいな。

そしてB国に1人も知り合いがいないA国の人より、B国に友達が大勢いるA国の人のほうが、B国と争わずにお互いの国にとって良い解決策を一生懸命考えると思う。現時点では遠い国へ足を運ぶことが出来なかったとしても、今はインターネットを通して世界中の人々と交流が出来る時代だし、情報をある程度は取得することが出来る時代。本当に、恵まれていると思うし、私自身それをもっと活用して、幸せのために役立てていきたいと思っている。まあ、まずは自分と自分の身近な人たちのためにだけどね(余力でほんのちょっとだけ国や世界のために何か出来たらいいと思っている意識低い系なんだ、私は)。


今、個人の時代と言われているけど、この流れは人々のお金や働くことに対する概念を変えるだけではなく、世界平和にも繋がると私は思っている。だって人が国に依存せざるを得ないのは、自由に生きていくための情報やお金や時間を持っていないためだと思うから。親から自立出来ていないと親孝行するのが難しいように、国から自立出来ていないと、本当の意味で国に貢献するのは難しいのでは、とも思う。偉そうなことを言いながら私自身、何ひとつ国のために、なんて出来ていないけどね。これから頑張ろうと思う。国に依存している状態だと、国から戦争に行けと言われれば行かざるを得ないもんね。

誇らしげな顔で死にに行かなければなかった、大切な人に生きて帰ってと声を大にしては言えなかった戦時中に「君死にたまふことなかれ」と読んだ与謝野晶子さんを、私は心から尊敬している。せっかく生まれてきたんだから、やっぱり寿命を全うしたいよ。大切な人にもそうしてほしいよ。どんな理由があるにせよ、寿命を人工的に短縮することには断固反対。


そしてこれは誤解してほしくないのだけど、私は日本が大好きだし、愛国心を持つことを否定しているわけじゃないよ。でも、あくまでも「国とは人」だと思っているよ。誰か偉い人も言っているんだっけ? 私が初めてこの言葉を知ったのは、ワンピース(漫画)のアラバスタ大国の回なんだけどね。

話が逸れてしまったけど、国っていうのはあくまでも器で、その中身(つまり私たち1人1人)が大切なわけで、その中身である私たちが幸せに生きていくために、器を整えておく意味はあると思っているの。だから国という枠組みを設けて人類が地球上で暮らしていることに、別に異論はない。


それから、個人がもっと自由に住む国を選べるようになったほうが、各国独自の文化はもっと発展すると思うんだよね。それぞれに個性を押し出して、国民を募らなければいけないわけだから。日本の古き良き文化が見直され、それを学んだり広めたりしようとする人々も増えると思う。


最後に、私は政治家の方々に対して不平不満を言っているわけでは断じてないよ。個人の利益に走り過ぎて時々バッシングを受けている人もいるけど、そんなの実は一握りで、多くの方は、私がテレビやネットを観たり、彼氏とデートしたり、家族とダラダラしたり、お買い物を楽しんだりしている間にも、国のことを考え動いておられるのだと思うから。

選挙に行かない若者が多い(すいません、私も行かないこともある。これからは行く)ことが問題になっているけど、行かずにいられるというのは、色々と小さな不満は抱えていたとしても、基本的には幸せに暮らせている証だと思っている。だって、今日食べるものすらないとなったら、誰だって動かずにはいられないでしょう? 力を合わせて国に訴えずにはいられないはずだよ。行かずにいられるというのは、平和で幸せな証。だから行かなくていいわけじゃないけどね。もっと国を良くするために意見を言うのは素晴らしいことだけど不満を言うのはお門違いかなって思う。今の日本に不満を言っている人は、きっとどの時代、どの国に生まれていても不満を言うんじゃないかな、と思うくらい、現代の日本は恵まれていると思っている。それは日本の中心に立って国を動かされている人々のお陰でもあるし、私は日本という国にも政治家の方々にも感謝している。

それでもこれからは、限られた有識者や権力者に頼るのではなく、色んな生き方、色んな価値観、色んな立場の人たちが、個々に選択し行動することで、影響力が分散されていけばいいなと思っている。例えば1人の政治家の発言より、数人のインフルエンサーの意見が世の中を変えることがあったっていいよね。誰の意見に賛同するかは、それぞれの自由。


でもそうなってくると、かなりの判断力が必要になる。生きるのがある意味難しくなるかもしれない。そうなったときに、何を道しるべに生きていく?

正解も不正解もないあやふやなこの世界で、「命」は、正解であると断言できる数少ないものの1つだ。命は正義。だって、死んでしまったら何になると言うの? 多くの命を犠牲にして得るものに、価値はない。死をもってそのことを教えてくださったご先祖様たちの命を、この平和な時代に生きる私たちが無駄にしてはいけないのだ。命こそ正義。世界中の人々がそれを軸にして、もっと自由に選択、判断、行動が出来るようになれば、戦争って、やっぱり起こりえないと思うのだ。



P.S.
こんなこと大人に言っても理想論として片付けられるんだろうど、小学生に話してみたらどうだろうか。きっと多くの賛同を得られる気がする。そしてこの意見に共感してくれた子どもたちが大人になったら、世界はやっぱり今よりもっと平和になるよね。あ、それを洗脳と言うのか(笑)。難しいね、色々。

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