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ネタバレ注意【徒然感想】ラブライブ!サンシャイン!!の映画を見てきた感想で忘れないうちに書いておきたかった2点。

2019年1月4日公開初日、ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbowを見てきました。正式名称想像の千倍くらい長いですね。舞台挨拶LV付き13時の回をバチっと観てきました。

公式サイト https://lovelive-sunshinemovie.jp/

以下壮大なネタバレです。

















はい、ということで感想です。特に何かの方針に沿ってまとめた物ではないので初日にせっかく見たので備忘録程度の徒然な感想でございます。

まずは軽く振り返り。

今回の映画は2期の直後くらいの時系列で開始。新しい学校ががおんぼろ校舎だったり、統合先の学校に「アンチ浦の星」意見があったり物語に起伏をつける要素を見せつつ物語が進みます。

が、基本的には「3年生卒業後のAqoursの在り方」がテーマでした。同時にこれは「Aqoursの今後」もテーマとしてセットになります。ここで自分は見ながらシンプルに「μ'sはああしたわけだけどAqoursはどうなるのかな」と自然に考えていました。

しかしながらこの見方をしてしまうと「この9人こそがμ'sだ」という非常にわかりやすく感動的で感傷的な「あの話」との比較論になってしまうので実は割ともったいないことになるなあとすぐに気づきました。

そもそもAqoursのシナリオは部分部分でμ'sのそれをつい意識してしまう(今回もいきなり幼少期の画が出てきたり、海外に行ったりとミスリードとは言わないまでもそういう感じはある)ものですが、ご存知の通りAqoursはAqoursというもの。個別の話として割り切って観るとなるほどなという話になってました。(後述)

映画では想像の何倍も(個人的には。)あっさりと「3年生がいなくなってもAqoursをヨロシクデース」「了解!こんちかー!」というやりとりが説明されます。

割とこれは驚愕なことです。しかも何がすごいって6人で(描写こそ省かれますが)早速学校のためにライブを披露します。結果失敗しましたがこのサバサバ感はなんともAqoursライクでした。後でサバサバの理由はなんとなく腑に落ちるのですがこの時点で「まじか6人で継続とは思い切ったな」と少しわくわくすらしました。

この後イタリアに行ったりいろいろあるのですが要するに「6人でほんまに出来るんか」という葛藤との向き合いになります。この中でも一貫してAqoursは「継続」を基本として議論をします。しかも別に「続ける事が正しいのかおい!」とか継続そのものを問うのではなく「今後もAqoursはあるわけだけどマジでどうすっかね」的な形式で。

その後シナリオはセイントスノー妹の葛藤を一種の客観検証対象としながら鑑賞サイドに「Aqoursはこうして継続ができた」という着地に向かい、卒業しても心の中に3年生はいるしいままでやったことはゼロにならず肥やしになって前に進めるという割とシンプルな結末を迎えます。このゼロにならへんよ!は後半の盛り上がりとセットでわりかし出てくるので大きなテーマだったんだと思います。

さてこんな感じだったわけですが個人的に感想として書いておきたいのは2点。


以下、個人的意見に溢れた感想パート

1、これはアニメラブライブ!サンシャイン!!をまとめあげる話だったんだろうということです。アニメは1期2期がありますが個人的には、1期=μ'sに憧れた千歌がAqoursを作り9人Aqoursとしての在り方に辿り着く話。2期=Aqoursがラブライブ!優勝や学校存続など点々とした諸問題を前に実質的に「死」を迎えるものの大いなるアイデンティティ「輝く」ことを軸に「蘇生」する話。と観ていました。

今回は蘇生したAqoursに3年生の卒業という「ネガティブではないけどどうすることも出来ない」問題が生じ、それをどう受け入れるか、つまりは最初に書いたAqoursの在り方がテーマなわけですがもうちょっと深い物だったのかなと感じました。

途中に書いたようにその問題に対して形式的には速攻答えを出していました、つまり6人で継続する、です。これは一時凌ぎ的なコメントではなく結果として6人でライブをする訳ですからまるでブレてない。形式的な在り方議論はもはや問題ではなく精神的な方が主題になるわけですが3年生は想像以上にサバサバしている、これが更に印象的でした。

ここで私が感じたのが3年3人で初めた旧Aqoursです。

結果3人は色々あって休止してしまうわけですが1期で9人Aqoursとして生まれ変わります。もちろん完全な別物として観ても良いのですが確実につながりはある。3年はこの経験が意識的か無意識的かはわかりませんが自分の中にあることで今回のケースにさばさば対応していたのかなと感じました。

3年がかつて経験したそれとまったく同じものではないですが今回の映画で描かれる「Aqoursが信念の一貫性の中で形式的な形を変えて行く事への許容」や、「そこに【継続】を感じ得る感覚」、またそういうことを「乗り越えられることへの納得感」みたいなものが3年生にはあったのではないでしょうか。

結果としてAqoursはそんな3年との思い出を胸に6人で再出発する訳ですが、最後の砂浜ではAqoursへのあこがれからスクールアイドルを志す千歌のような「誰か」が現れます。

ここで強く想像をかき立てられるのが、もしかしたらその誰かと例えばルビィたちとの物語がどこかにあるならきっと同じようにサバサバしているのではということです。Aqoursの概念が輪廻するというか非常に円環的ななにかを感じてしまいます、

そう考えるとエピソード0としての旧Aqours3人の物語から始まり、μ'sに憧れた千歌が概念Aqoursと邂逅しAqoursになり、挑戦と失敗=死と蘇生のプロセスからアイデンティティに到達し、卒業というあらがえない構造上の揺らぎを「想いは受け継がれる」ことでシンプルに受け入れつつAqoursが続いていく、そして最後に新しい「千歌」的な誰かが【再び】現れるという、螺旋循環的な観念として仕上がります。

μ'sが9人という絶対性にこだわった美学であるために強烈な「終わり」の記号で締めたのに対し、Aqoursはアニメから映画にかけて割と壮大な循環構造としてのスクールアイドル美学みたいなものを描いたのかなと感じました。

そういう意味ではサンシャイン!!はわりかし複雑で非直線な物語を断続的に描いたのかなと腑に落ちてしまいました。

2、それはAqoursなのかという疑問とそれはつまり終わりを描いたのかという疑問

2つ目です。さんざん1つ目でAqours流のスクールアイドル美学みたいな話をしましたが若干矛盾するかもな感想もあります。

今回のもう1つの印象的なキーワード「何度もゼロになったけどみんなとの経験はリセットされない」的なやつです。

これはその通りで別に深追いする必要も無いと思うのですがAqoursって「ゼロからイチへ」なわけなので「ゼロ」をある意味で否定するというかゼロはもうないとなるとそれは「Aqours」としてのプロセスから外れるのではという点です。これって抽象的な「終わり」の描写だったのかなとも思うのです。

最後の紙ヒコーキは1期の東京イベントで0票だった時の順位表、原点であり基本であり「ゼロからイチへと」のきっかけ的な象徴物。あれが最後「飛ぶ事を終えて佇んでいる」というのはなかなかなシーンでした。

「やってきたことは胸の中に、ゼロになんかならない」という非常にまっとうな表現の裏に暗喩的に「ゼロからイチへ」のプロセスを外れた(超えたでもいいのかな)ということが同居し続ける後半はμ'sとは違った強烈な終わりの表現だったのかなと個人的には感じ、「おっ」と思ってしまいました。

継続構造を描きつつもその円環に突入することは逆説的に終わりを意味している、そんな2つの不思議な並列があったのかなというのが今日の感想です。

以上、の2点、忘れないうちに書いておこうと思った駄文でございます。もう1、2回は観たいなあと思うのでご友人各位は是非一緒に行きましょう。

そして是非お姉様の網タイツを拝みましょう。







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