見出し画像

日本の水田稲作は朝鮮半島から伝わりました!縄文時代から弥生時代の移行期に何があった?

はじめに

 この記事は、ユーチューブで公開する予定の動画の原稿として書いたものになります。
 というのも、最近は日本の水田稲作が中国南部から直接伝わったとか、更に日本から朝鮮半島に水田稲作が伝わったなど、このような言説をよく見るようになりました。これと同様に、アイヌ民族が鎌倉時代に渡来したという言説もインターネット上で流布されていますが、こうしたデタラメな言説は発信源もだいたい同じだと感じています。
 この記事は、そうした通説へのディスインフォメーションに対抗する目的で書かれていますが、それほど長い内容ではないので最後まで読んで頂けると幸いです。

考古学者と農学者の見解相違

 2023年現在、少なくとも考古学者の間では、縄文時代晩期の突帯文土器段階以前に稲作は存在しなかったと考えられています(中沢 2017・2019)。しかし、2000年代に出版された考古学の本を読んでみると、当時は突帯文土器段階以前の縄文稲作の存在が肯定的に書かれていますが(藤尾 2002)、それが2010年代になると見解が改められていきました(設楽 2014)。
 こうなった経緯としては、縄文稲作の証拠となっていたプラントオパールにコンタミネーションの問題が付きまとっており、土器の胎土から発見されたプラントオパールにおいても、その疑念が払拭できないということがまず挙げられます(寺前 2017)。プラントオパール以外にも、南溝手遺跡から出土した籾痕土器が縄文時代後期のものだとされていて、縄文稲作の証拠としてよく挙げられていましたが、これも後に突帯文土器段階だとされるようになりました(藤尾 2017,岡田 2019)。

縄文時代後期とされていた南溝手遺跡の籾痕土器(西本 2005)

 その後、プラントオパールよりも証拠能力がある籾痕土器のデータを集めていった結果、稲作は弥生時代早期直前の突帯文土器段階を遡らないという認識が得られるようになりました(設楽 2017)。また、炭化米の出土例も弥生時代早期のものが日本列島最古であり、AMS年代測定によって紀元前9世紀という年代値が示されています(宮本 2019b)。これらは事実上、考古学者によって縄文稲作が否定されるようになったことを意味しています。

カッコは各地域で水田と土器の穀物圧痕が発見された最古の段階を示す(藤尾 2022)

 他方、農学者の中にはプラントオパールに信頼を置く見方もあり、考古学者との間で必ずしも縄文稲作の存在をめぐって、見解が一致している訳ではないようです(宇田津 2019)。佐藤洋一郎氏の『稲の日本史』も、2018年には改訂版が出版されましたが、縄文稲作のことが肯定的に書かれています(佐藤 2018)。
 現在、農学者の宇田津徹朗氏らが中心になって、プラントオパールの年代測定技術やDNAの抽出技術の開発が進められているので、いずれ縄文時代の遺跡から出土したとされるプラントオパールの実年代や由来が分かるようになるかもしれません(宇田津 2019)。

プラントオパールから抽出した遺伝情報(宇田津 2019)

朝鮮半島の稲作開始時期について

 朝鮮半島と言っても韓国での研究に限られていますが、日本と同様に籾痕土器の調査によって、最古のものは無文土器(青銅器)時代早期の渼沙里式期になることが分かっています。これは縄文時代後期後半と並行する時期であり、少なくとも朝鮮半島には日本列島よりも数百年早く稲作が伝わっていたことになります(小畑 2016)。
 また、この渼沙里式土器は外見的な特徴が日本の突帯文土器と酷似していることから、かつてはその関係性が問題になっていました。現在では、年代が離れていて他人の空似であるとされています(水ノ江 2021)。
 それでは、朝鮮半島の稲作はどこから伝わったのでしょうか。少なくとも紀元前3千年紀後半には、山東半島や遼東半島でも稲作が行われるようになりますが(石川 2023)、当時の畦畔を伴う水田が山東半島東端の膠東半島で発見されています。これらの地域に由来する遼東形石斧・片刃石斧・石包丁などの大陸系磨製石器が、縄文時代後期後半と並行する時期から朝鮮半島でも普及していきました。こうした物質文化の動態によって、水田を含む稲作が山東半島から朝鮮半島に伝わった可能性が高いと考えられます(宮本 2017)。

田村遺跡から出土した大陸系磨製石器(藤尾 2005)

 少なくとも朝鮮半島南部では、紀元前11世紀頃から畦畔を伴う水田稲作が始まりますが(藤尾 2015)、当該時期は無文土器(青銅器)時代前期後半の駅三洞式期になります(端野 2023)。その後、水田稲作が朝鮮半島から北部九州にも伝わりますが、ここまでの仮説は考古学者と農学者の間で概ね一致した見解が得られています(設楽 2017,宮本 2017,宇田津 2019)。
 しかし、佐藤洋一郎氏は温帯ジャポニカ在来品種の遺伝子変異の分布を根拠に、朝鮮半島に存在しない温帯ジャポニカの一部の品種は、中国南部から北部九州に直接伝わったという仮説も提示しています(佐藤 2002・2007)。

温帯ジャポニカ在来品種の遺伝子変異と地理分布(佐藤 2002)

日本の水田稲作に中国南部は関与したのか?

 注意しなければならないのは、前掲図はあくまでも温帯ジャポニカ在来品種の遺伝子変異のデータだということです。朝鮮半島の水田稲作は初期鉄器時代になると一旦衰退するので(小畑 2010)、それ以前に存在していたであろう古代品種のデータを全て反映しているとは限りません。
 前掲図では、朝鮮半島と日本の東北地方にbタイプの遺伝子変異が存在しないことから、これは寒冷地に不向きな品種だった可能性があるでしょう。それが集団栽培による自然淘汰や(佐藤 1992)、選抜育種のボトルネック効果で自然淘汰されていったのかもしれません(上條 2023)。つまり、朝鮮半島の温帯ジャポニカ在来品種にbタイプの遺伝子変異が存在しなくても、古代品種には存在していた可能性があるという訳です。
 また、平安時代までは水田稲作によって大量の熱帯ジャポニカを栽培していたことが分かっていますが(佐藤 1992)、そうした状況は弥生時代にまで遡り、北部九州で水田稲作が始まる段階から熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカが混在して栽培されていたようです(田中 2019,宇田津 2019,宮本 2021)。そのため、温帯ジャポニカ在来品種の遺伝子変異だけを調べても、水田稲作開始時期の様相を把握することはできません。
 熱帯ジャポニカは炭化米が韓国の遺跡から出土していますが、山東半島でも大汶口文化後期以降になると長江下流域から伝わっています(宮本 2017)。そうすると、山東半島から朝鮮半島を経由して北部九州に伝わった水田稲作には、初めから熱帯ジャポニカが栽培品種として利用されていた可能性があります(宮本 2021)。

「韓国の炭化米に熱帯ジャポニカ:半島ルートの伝来浮上」『日本経済新聞』2001/10/22(朝刊)

 他方、温帯ジャポニカはどこで生まれたのでしょうか。最近の発掘調査では、野生稲の炭化米が朝鮮半島を含めた秦嶺・淮河線以北の地域でも出土していて、温帯ジャポニカの祖先種の可能性が指摘されています(宮本 2017)。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカは、それぞれ異なる葉緑体DNAの配列を持つというデータもあり、一方がもう一方から派生したというよりは、初めから隔離された小さな個体群が時間をかけて温帯ジャポニカになったという仮説の方が事実に近いとされています(佐藤 2007)。そうであれば、秦嶺・淮河線以北の野生稲の存在は(下図)、温帯ジャポニカの祖先種が山東半島から遼東半島や朝鮮半島にかけての地域で発達していった可能性を示唆しています(宮本 2017)。

▲は秦嶺・淮河線以北で野生稲の炭化米が出土した遺跡(宮本 2019a)

 現状では、温帯ジャポニカの一部の品種が中国南部から日本列島に直接伝わった可能性はあっても、日本の水田稲作の成立には、朝鮮半島からの影響の方がはるかに大きかったと言わざるを得ません。ましてや、水田稲作そのものが中国南部から北部九州に直接伝わった可能性は考えにくいでしょう。これは次に取り上げる様々な傍証によって裏付けることができます。

朝鮮無文土器文化と弥生文化の関係

 弥生時代早期の北部九州では、水田稲作と共に大陸系磨製石器も出現しますが、これは朝鮮半島から伝来した道具でした。先ほど紹介した磨製石斧や石包丁の他に、磨製石剣と磨製石鏃も出土していて、これらは朝鮮半島のみに見られる器種になります(春成 1990,宮本 2017,寺前 2017,平郡 2023)。

韓国の支石墓から出土した磨製石剣や磨製石鏃など(李 2000)

 夜臼式土器や板付式土器などの初期の弥生土器も、朝鮮無文土器文化と決して無関係ではありません。九州地方では、縄文時代早期を除けば壺形土器は作られていませんでしたが(設楽 2007)、弥生時代早期になると土器組成に壺形土器が出現します(設楽 2023)。夜臼Ⅰ式段階の壺形土器は朝鮮無文土器文化にルーツがあり、「丹塗磨研土器」などと呼ばれています(春成 1990,設楽 2007,宮地 2021)。
 甕形土器も朝鮮無文土器文化にルーツがあり、夜臼Ⅰ式段階から朝鮮無文土器文化の土器の製作技法を徐々に取り入れていきます。板付Ⅰ式段階には縄文土器的な製作技法を払拭した甕形土器が飛躍的に増加して拡散しますが(宮本 2017)、この系統の甕形土器を多く使用していた弥生人の集団は、縄文人からの遺伝的影響が少ないとも指摘されています(藤尾 2022)。

板付Ⅰ式土器(福岡市教育委員会 1995)

 こうした弥生時代早期における物質文化の変化は、朝鮮半島からの渡来人によってもたらされたと考えるべきでしょう。弥生時代早期という時代は、それ以前の1000年間の中で最も寒冷であり、朝鮮半島で水田稲作を営んでいた農耕民にとって相対的に温暖な九州地方は「南の島」だったので、彼らには渡来の動機がありました(中塚 2022)。
 2020年代になると古代DNAの研究も飛躍的に進むようになり、日本人のゲノムに占める祖先要素の約9割は、古代の遼寧地域で暮らしていた西遼河人に由来していることが分かりました。また、韓国人の主要な祖先集団も同じ西遼河人になります(Wang et al. 2021)。

右上の古代朝鮮半島人は橙色の西遼河人の祖先要素を100%の割合で持つ(Robbeets et al. 2021)

 つまり、日本人と韓国人の主要な祖先集団は共通している訳ですが、それならなんで日本人と韓国人の言語は違っているのでしょうか。朝鮮無文土器文化も新石器時代の遼寧地域の土器文化に由来しますが、朝鮮無文土器文化は紀元前500年頃に遼東半島から南下してきた粘土帯土器文化と置き換わり、この土器文化が次の原三国時代に繋がっていきます。日本人と韓国人は主要な祖先集団が共通していても、遼寧地域から南下した時期に2000年程度の差があり、これが日本語と韓国語の違いを生じさせたと考えられます(宮本 2017,Miyamoto 2022)。

まとめ

 日本の水田稲作は弥生時代早期の北部九州で始まりましたが、畦畔水田や大陸系磨製石器の石包丁など、水田稲作に伴う生産技術が朝鮮半島から伝来したことに疑いようはなく、それらは水田稲作と混然一体になって出現したものとして理解することができます。また、縄文土器から弥生土器への移行には、壺形土器の出現や製作技法の変化など、朝鮮無文土器文化の影響による縄文文化の伝統の転換を伴うものでした。特に土器の製作技法の変化は、土器の製作者に渡来人が存在したことを示唆しますが、近年の考古学と古代DNAの研究によって、土器とDNAにも相関関係が指摘されるようになりました。渡来人が作った板付Ⅰ式土器は朝鮮無文土器文化にルーツがありますが、更に遡ると新石器時代の遼寧地域の土器文化にルーツがあり、ここは日本人の主要な祖先集団の故郷でもありました。
 このように、水田稲作が朝鮮半島から北部九州に伝わったという仮説には色々な点で説得力があり、日本人のルーツと併せて考えることで、現状では最も妥当な仮説だと言えるでしょう。これは一般論ですが、シンプルな仮説の方が科学的であり、朝鮮半島から渡来人や様々な物質文化が入って来たのに、水田稲作だけ同じタイミングで中国南部から伝わったなどという仮説が真実に近いとは思えません。水田稲作は、その他の物質文化と共に文化複合として渡来人が朝鮮半島から北部九州に伝えたのです。

第3~4段階が水田稲作の伝播になる(宮本 2019a)

参考文献

石川岳彦「遼寧地域(中国東北地域南部):前2千年紀から前1千年紀前半の特質」『縄文時代の終焉』雄山閣,2023
宇田津徹朗「出土するプラント・オパールの形状からみた多様性」『日本のイネ品種考:木簡からDNAまで』臨川書店,2019
岡田憲一「日本列島における水田稲作の導入と定着:奈良県中西遺跡・秋津遺跡に水田が定着するまで」『弥生初期水田に関する総合的研究:文理融合研究の新展開』奈良県立橿原考古学研究所,2019
小畑弘己「近年の朝鮮半島における古民族植物学」『季刊考古学』113,雄山閣,2010
小畑弘己『タネをまく縄文人:最新科学が覆す農耕の起源』吉川弘文館,2016
上條信彦「弥生時代北部九州の米」『九州考古学の最前線1』雄山閣,2023
佐藤洋一郎『稲のきた道』裳華房,1992
佐藤洋一郎『稲の日本史』角川学芸出版,2002
佐藤洋一郎「DNA分析からみた弥生時代の稲作」『弥生時代はどう変わるか:炭素14年代と新しい古代像を求めて』学生社,2007
佐藤洋一郎『稲の日本史』KADOKAWA,2018
設楽博己『日本の美術』499,至文堂,2007
設楽博己『縄文社会と弥生社会』敬文舎,2014
設楽博己「弥生文化研究の深化と新展開」『季刊考古学』138,雄山閣,2017
設楽博己「土器の役割の変化:縄文時代から弥生時代移行期の土器組成」『縄文時代の終焉』雄山閣,2023
田中克典「宇木汲田遺跡および有田遺跡から出土したイネ種子のDNA分析に基づく弥生早期の北九州に伝播したイネタイプの検討」『東北アジア農耕伝播過程の植物考古学分析による実証的研究』九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室,2019
寺前直人『文明に抗した弥生の人びと』吉川弘文館,2017
中沢道彦「日本列島における農耕の伝播と定着」『季刊考古学』138,雄山閣,2017
中沢道彦「レプリカ法による土器圧痕分析からみた弥生開始期の大陸系穀物」『考古学ジャーナル』729,ニューサイエンス社,2019
中塚武『気候適応の日本史:人新世をのりこえる視点』吉川弘文館,2022
西本豊弘「多彩な食材」『縄文VS弥生』読売新聞東京本社,2005
端野晋平「朝鮮半島:無文土器時代前期から中期へ」『縄文時代の終焉』雄山閣,2023
春成秀爾『弥生時代の始まり』東京大学出版会,1990
平郡達哉「弥生時代の始まりと支石墓・磨製石剣」『九州考古学の最前線1』雄山閣,2023
福岡市教育委員会『史跡板付遺跡:環境整備報告』1995
藤尾慎一郎『縄文論争』講談社,2002
藤尾慎一郎「最後の縄文人と最古の弥生人」『縄文VS弥生』読売新聞東京本社,2005
藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』講談社,2015
藤尾慎一郎「弥生文化範囲論の射程」『季刊考古学』138,雄山閣,2017
藤尾慎一郎「土器とDNA:伊勢湾沿岸地域における水田稲作民と採集・狩猟民」『科学』92(2),岩波書店,2022
水ノ江和同「九州と朝鮮半島の関係性と土器型式」『季刊考古学』155,雄山閣,2021
宮地聡一郎「九州地方における晩期から弥生開始期をめぐる型式学」『季刊考古学』155,雄山閣,2021
宮本一夫『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』同成社,2017
宮本一夫「東北アジア初期農耕化4段階説と稲作農耕の諸問題」『東北アジア農耕伝播過程の植物考古学分析による実証的研究』九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室,2019a
宮本一夫「総論 弥生時代開始の諸問題」『考古学ジャーナル』729,ニューサイエンス社,2019b
宮本一夫「宇木汲田貝塚再整理調査の成果と課題」『宇木汲田貝塚』九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室,2021
李榮文「朝鮮青銅器時代の副葬」『季刊考古学』70,雄山閣,2000
Miyamoto K. (2022) The emergence of ‘Transeurasian’ language families in Northeast Asia as viewed from archaeological evidence. Cambridge University Press, DOI: 10.1017/ehs.2021.49.
Robbeets M. et al. (2021) Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, DOI: 10.1038/s41586-021-04108-8.
Wang C. C. et al. (2021) Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, DOI: 10.1038/s41586-021-03336-2.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?