見出し画像

瞳湖のよしなし事 #1 2

最近ふと浮かんだのは、「うそ」について。

嘘は誰でもついたことがあると思う。

「うそ」・・・①本当ではないこと。また、その言葉
       ②正しくないこと。誤り。

角川最新国語辞典 山田俊雄・石綿敏雄 編 39版

現代のお子さんはわからないけれど、私が子どもだった頃は、4~5歳の男の子は大体言っていた。

「オレはこのブロック塀の上から飛び降りても平気だぞ!」
「オレなんかもっと高いあの屋根の上から飛び降りても平気だぞ!」
「オレなんか、もーっと高いあっちの屋根でも平気だもんね~」

ライバル意識から、遂には高層ビルの上からでも平気なことになっていく。

まあ、このくらいの話なら「大風呂敷」と言うべきで、楽しい思い出話の範疇なのだけれど(笑)

***

「うそ」にはいろいろある。
・自分を守るため・・・見栄を張るとか、承認欲求や防衛本能から。
・誰かを守るため・・・相手が知ったら傷つくからとか、思いやりで。

他にもいろいろあるとは思うけれども、基本的には「うそ」は相手に対してつくものというイメージがある。

じゃあ、自分に対してつくのは、自分自身を偽る「うそ」は?

人に対してつく場合は大抵、相手は本当のことと思うだろう。すぐにばれるような大風呂敷でなければ。嘘と知るまでは、傷ついたり怒ったりはしないと思う。

けれど自分に対しての嘘は、初めから嘘だと知っている。いや、嘘だと思わずについている方が多いのかも?

例えば、受験とか就職とか。
第一志望はあっても、能力や力量がそれに見合っていないと言われたり自分でもそう思ったりで、現実的に考えて妥当なところに志望を変えるとか。

でもこれは、現実的な対応で、ある意味普通のことだと言われると思う。

それでも、やりたい気持ちを抑えて現実に合わせること、そのためのもっともらしい理由を挙げることは、自分を偽ることになるのではという考えを捨てきれない。

「自分はこのくらいが丁度いい」という考えに、本当に納得しているのなら問題ないと思うけれど、違和感があったり、モチベーションが下がったりするなら、自分は「うそ」をついているとどこかで感じているのではないかな?


例え話からは少しずれてしまうのだけれど、私の思い出話を一つ。

ある方に会いたいと思っていたのだけれど、連絡するのはためらっていた。
持病のある方で、気軽に会いたいと言うのは気が引ける。絶対会わなければ、なんてこともない。電話で話せば事足りる。そう自分を納得させていたのだけれど。

ある時、あれこれ考えてイライラが募ってしまい、「本当は会いたい!」と誰に言うでもなく、何も考えず、一番素直な気持ちをそのまま言葉にした。強めの口調で。

1ヶ月も経たないうちに、その方から連絡を頂いた。ただ素直に気持ちを口にしただけの一人言で、誰かが伝えてくれたわけではない。
それが相手から連絡を頂いて、以前と変わらない素敵な笑顔が見られて、とても楽しい時間を過ごせた。
こんな形で願いが叶うなんてと驚いたし、本当に、嬉しかった。


まずはその方に、そして願いが叶ったことに感謝しつつ、振り返ってみた。

あれこれ考えて「やっぱり今は難しいよね」と思っていた時には何も起こらなかったのに、願っていることを口にしただけで具体的な行動は何も起こさなかったのに、どうして?

そんな簡単に答えが出るものではないとも思うけれど、もしかしたら。
現実はちょっと脇に置いて、相手の事情や環境を、そして私の心配も、気にすることを一旦止めて混じりっ気なしの一番中心にある素直な気持ちを確認したことから始まったのかな。

もしかしたら、私がどのくらい真剣に願っているか、本気度を試されたのかもしれない。


現実にはいろいろな事情があって、思い通りにいかないことも山ほどある。

それでも、自分を偽らず、少なくとも願う気持ちを大切にしようとする方が、行動を起こしやすいのではないかな?

やる・やらないとか、現実に合わせる・合わせないを決めるのは、その後でいいのかもしれない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?