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【リレー企画】優しい人はおそい


noteを拠点に活動している4名で、リレー記事を書くことになった。順繰りに異なるテーマを設定して、おのおのがそのテーマにまつわる記事を書く特別企画だ。私のテーマは「ともだち」について。

▼参加予定者

非常に不服なテーマではあるが、考えてみようと思う。なにせ、自分には友達が存在しないので、考えるケーススタディというか対象がいないのだが、掘り起こしてみようと思う。

ザリザリザリザリザリザリザリザリっと肌にしっとり馴染んで湿った寝床のシーツを滑って転んで片足で着地、見事に地上にイン。

寝起きにも関わらず、素晴らしい曲線美を描いてベットの横に降り立つ。野生のバレリーナ、ここに現る。片手で髪の毛を後ろにやりながら、人としての形を手ぐしで大雑把に整える。顔は適当に水をつけたティッシュで拭いて、スッキリ爽快朝がくる。皮膚一枚で感じる、新しい少し痛くて震えるような空気。

適度に皮膚に油分を補って、髪の毛を通常の定位置に整えたら人間の顔の完成である。昨日準備したアイロンのガッチリ決まったシャツをスパスパシュルンと着こなしたら、これはもう見まごうほどがないくらいに、いつもの自分である。怠惰に脱ぎ散らかした寝巻きは、豪速の右腕を生かして洗濯機に投げ込んでしまう。いや、わずかに逸れて、投げ込み口に引っかかってしまった。まあ、いい。

私は起きて5分程度で、自分になれる。驚くほど何もしない。残り時間はぐだぐだネットをしたり本を読んでいる。たいてい朝はそうだ。意識を取り戻してから、早急に事は済んでしまう。驚きの速さで、人生は私の人体に寄せてやって来て、離れない。

でも世の中にはそうではない人がいる。これは、私が前職の会社の新入社員だった頃の話だ。

新入社員数名で、泊りがけ合宿というものをしたことがある。研修と称した懇親会みたいなもので、数日間同期と寝食を共にするのだ。私はいつもの調子で、高速でいつもの他人に差し出している自分になっていた。自分の用意だけして、一人で研修所つけ置きのコーヒーをすする。他の同期たちは昨日の深酒の影響か、身支度に時間がかかっているのか、なかなか出揃わない。集合場所の講堂に時間前にいるのは、自分くらい。慣れない旅でどことなく疲労が蓄積された体を、この広々とした研修室で持て余す。

たいていはいつもこうだ。人と同じ行動を取らないので、さっさと移動するか本を読んでいるか。その辺をぶらぶらして、ろくに誰も眺めない風景を一人で存分に摂取する。行動が早すぎるか、遅すぎるかしていると、みんなとの速度が合わないのだ。ほんの少しの差分。しかし、ほんの少しの差異が繰り返されれば、それはやがて大きな断絶となる。

みんな何に手間取っているのだろう、どうしてそんなに時間をかけるのだろう。または、自分は何に時間をかけなさすぎているんだろう。何に時間を浪費しすぎているのだろう。何に戸惑っているんだろう。何かが常に足りていないし、またはいつも過剰なのだった。

大学時代には感じずに済んだ、あらゆる決算が突きつけられていた。狭い場所に似たような人間が集まると、その集団の各構成員の違いがより一層見えるようになる。なんとなく表層的に揃えて帳尻を合わせていたものが露呈し、人間性の美徳と悪心のぎっしり詰まった断面が顔を出す。それぞれがそれぞれの人生の中で歪み、縮れ、折れ曲り、反発し、やわらかくなり、もろくなっていた。よくもこんなにも質の違うものを、採用という名のもとに一つの基準で測れたものだな、とその単純さと卑猥さに驚く。

私は研修を受けながら、各々の違いを感じていた。もちろん自分との差異を、である。

同期の中にもいろんなタイプがいて、広告業界特有の勢いと、こういっては悪いがハッタリのうまさを持ったグループがいる。いわゆる「それっぽい」人たちである。しかしその一方、全くそういった傾向性を見せない人間もいる。自分もそうであったし、一部の人間は確かにそこからは外れていた。

研修開始五分前に、ようやくちらほらと人が会場に集まってきた。朝のだるい時間の流れをなんとか急速に進めて、みんなギリギリのラインに飛び込んでくる。一応、模範生なのだ。しかし、1名遅れを取っていた人間がいた。講師がマイクを握った瞬間に、研修会場の重い木のドアを遠慮がちに開けてくる。背を丸めながらするすると着席する。首だけで詫びを表現する。この人物を仮にCとする。

Cは比較的、「それっぽくない」タイプの人間であった。年が少し上だからか、はたまた院生だったからか、「新卒」としては落ち着いた部類の人間だ。仲間と一緒になって騒ぐというより、集団にひっそりと馴染んで微笑んでいる姿を見かけることが多い。パンの袋を止めるあれのようだと思う。ふちにちょこんといて、何かをまとめる。要素の中に含まれていて、自然に馴染んでいる。フォーカスが当たることは少ないが、ないと恐ろしくものにならない。

私はCに若干興味を持っていた。表面的には「優しい」または「ちょっと地味」と表現されるような人間であるが、妙にやり方が洗練されているというか、手慣れているからだ。性格というものは自然なものであるが、自意識つまり「こうでありたい」「こうである」という理想が人の行動をわずかに規制し、そのぶん本来あるはずだった場所から若干移動している。そのわずかなブレが、奇妙にないタイプの人間だったのだ。人によく思われたいという、表面的で散漫なエネルギーがごっそり抜けている。

私は講義の最中に、こっそりCに聞いて見た。「なんで遅れたの?」
Cはつるりとした目をこちらにやる。「うーん、なんでだろう?」彼曰く、ほかの人を起こしたり、みんなが先に行ってしまった部屋を片付けていたり、講義の準備をしたり、引率の社員の相手をしたり、誰かの忘れ物を探していたらそうなっていたらしい。彼は寝癖のついた髪を手のひらで入念に撫で付けている。

もっと上手くやって、自分がやる必要のあるところだけすれば遅れずに済んだのに、と私は思った。しかし彼はしょうがないとばかりにふらふらと笑っていた。必要な箇所だけ抑えておいて、あとは自分のスピードで走り抜ければ良い、と思っている自分にとっては信じられない選択だった。

彼のやり方は随分と時間がかかる。彼個人よりも、人に関わることに時間を使っているからだろう。スローとまではいかないが、すべてのことに等しくタイムラグが生じている。即決しない、一人でやらない、全体の動きを見てことを進める。決して優柔不断なわけでも、愚鈍なわけでもない。むしろ精神そのものは一途でエネルギッシュで強固なところがある。しかし、常に彼本来のスピード感よりも遅く感じるのだ。

彼の動きはみんなのペースと合わせて離れないが、さりとて私のような異分子も「みんな」のうちに入れてくれているらしく、わずかに接点があった。パンの袋を止めるあれは、文字通り「端っこ」にも近くなれる。こちらが彼を認識していない、という空気を出すと近づいて来ないが、こちらが彼を見ているという態度を醸し出すと寄ってくる。

彼はみんなの中にいて、みんなと私の境界線にちょうど位置していた。「あちら側」にも属しているが、さりとて完全に融和しているわけではなく、概して独立していた。同期と過ごしたあらゆるシーンの中で、彼は必ずどこかにいてピン留めされていたのだ。

私が話しかけると、まるで3分前までずっと喋っていたかのように受けてくれる。「親しいもの」と「そうでないもの」のスイッチの切り替えが弱く、さして見慣れないものにも、同じような目線を向けることができるのだった。知らない人によく話しかけられるタイプかもしれない。

私はその彼の優しさと受容力と平常心を、どこかで危険だと感じ始めていた。受け止められてはいけない、悪い、怖いという気持ちが働き、彼と話すときはしばしば過剰に話しすぎた。私がひとしきりロブスターをペットにしたいとか意味不明な馬鹿話をしたあと、彼はけらけら笑ってふと顔を止めた。

そこにあったのは、不安でも恐怖でも嬉しさでも嫌悪でも何かの欲動でもなかった。ただ、すべては自然だったのだ。どんな奇妙なことを言っても、「へえそれで?」「どうしてそう思うの?」と受容されてしまう。

空気の読み合いでも意地の張り合いでも探りあいでも牽制でも馴れ合いでも傷つけ合いでも自惚れでも結託でも共謀でも搾取でも退屈でもない。

すべてが、ぬるま湯のようだった。何もかもがここにあり、等しく存在していていい。

彼の瞳は逆に私に奇妙な通告を返していた。「一体、何を恐れているの?」

彼の遅さはすべてを判断しきらないところにある。二者択一にしない。良いものと悪いもの。馬鹿にしていいものとそうではないもの。愚者と賢者。仲間とそれ以外。

ふつう、基準はクリアな方がいい。ルールが単純な方が、決断は下しやすい。無駄な時間がかからずに済む。通常の人間がする、無意識の線引きを彼はしていなかった。おそらく、意図的に。

むしろ複雑なルールと倫理を掛け合わせておいて、すぐに判断ができないようにしていた。プレイヤーを自分だけにせず、他人を組み込むことで状況をぐっと動きづらいものにしている。必ずしも自分の利益にならないにもかかわらず。

自己利益だけを追求すればできたショートカットをしない。迂回している。無駄な道端で見つけた、なんでもないものに目を止めている。それゆえに微妙にタイムラグが生じる。

優しい人間は、皆どこか遅い。しかも必然によるものではなく、意思によって。

その姿は、自分とは異なっていた。

私はショートカットし続けている。自分のことだけ考えているし、守るのは自分の身ひとつだけ。できるだけ身軽にして、状況が悪くなれば撤退する。条件を単純化して選択しやすくする。選ぶ、切る、捨てる、転回する、また選ぶ。

素早いのは、関係を常に断ち切っているからだ。明快なのは、絶対的な基準があるからだ。冷静なのは、自分を守らんがためだ。

私ほどではないとしても、通常の人間が持ち合わせている、一つの生き方である。なるべくシンプルにしたい、という欲求。それを彼には感じなかった。

それはおそらく、ここにいる、この場に居続ける、この場にあるものすべてを受けとめる、という彼の信条からきている。そこには何があったのだろう?

「いや、本当に、10年後には、下駄で走り回るんだ」

私はまたしても軽率に口を開き、適当なことを口走る。

「全力疾走しながら、すごいことをするスーパーサラリーマンになる。ペットはロブスターなんだ。しかも青いやつね」

まるで親しいような素振り、親しいような口調で。馬鹿みたいに。

しかし彼はそれを、自然に受けとめる。そこにある、わずかなぎこちなさや違和感をそのまま飲み込む。

「何言ってるの!信じられない!でも、君はやりそう、なんかやりそう」

私の投げた変化球に見せかけた仕掛けと道化とわずかな挑戦は、彼の中に自然と溶け込んでいく。些細な火種は、他者という向こう側、無明の網に飲み込まれ、消えて言った。私はおそらく彼にはこれ以上踏み込むまい、それは彼の問題ではなく、私の問題がゆえだ。でも何かを話したら、彼はそのまま受け止めてくれるだろう。

私たちはげらげら笑う、ああ、もしかしたら、これは友情だったかもしれない。

本企画は、別の参加者がそれぞれ異なるテーマで続きます。

▶︎サカエコウさん 「殺人」
▶︎吉玉サキさん  「許し」
▶︎竹鼻良文さん  「恋愛とは」

他の参加者の記事も、お楽しみに。

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実はチキン野郎でもあるので、記事が伸びていないと、地味に沈んでいます。まあ、やりますけどね2019年も。ほんとにしつこいので。

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