反共ファシストによるマルクス主義入門・その21

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  〈ロシア革命史篇〉その8

  「その20」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。なお引用部分の太字は、原文がそうなっているのではなく外山の処理である。
 第13部までが“マルクス主義入門”の“本編”で、第14部からは“おまけ”的な“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。
 第13部までエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』に、第14部からは松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』に、主に依拠している。

 第21部は原稿用紙20枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその5枚分も含む。

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   27.レーニンの死

 1922年5月、レーニンが発作で倒れると、後継争いの暗闘が始まった。

 ボルシェヴィキの政権奪取とそれに続く内戦の勝利という過程での活躍からして、誰が見てもレーニンの後継者はトロツキー以外に考えられなかったはずだが、トロツキーがはっきりとボルシェヴィキの一員となったのは1917年の2月革命よりもずっと後(「4月テーゼ」以降)で、長らく「中間派」の指導者として活動し、メンシェヴィキに近い時期さえあった。古参のボルシェヴィキ党員にとっては、トロツキーは急に指導部入りしてきた新参者であり、また自らの才気を見せつけるようなその振る舞いも反感を買っていた。

 以前からとくにトロツキーを激しく嫌うところのあったスターリンは、トロツキー追い落としの機会を虎視眈々と狙っていた。

 スターリンはグルジヤ生まれの生粋のボリシェヴィキであり、少数民族問題に関する研究によってはやくからレーニンに認められた。彼は鉄のような意志と柔軟な判断力とをもった卓抜した革命家であり、第一次大戦前ならびに戦争中、レーニンやジノーヴィエフのいない党の国内組織を守り通した。二月革命から十月革命にかけての彼の活動はもちろんトロツキーと比すべくもなく、ソヴィエト政権においても少数民族人民委員にすぎなかったが、国外にほとんど一歩も出ず、党の国内組織に終始したことは彼を党内随一の党務に関する専門家にした。十月革命後における党の膨張が、党書記長の地位をきわめて重要なものとしたことは、スターリンの立場をいっそう確固たるものにした。
 (猪木正道『ロシア革命史』46年・中公文庫)

 「スターリン」というペンネームは“鋼鉄の人”の意である。

 スターリンは、トロツキーに対抗するために、「書記長」という地位を最大限に活用した。

 スターリンの凄みというのは、党の書記局に目をつけたこと。ソビエトの共産党でも、最初は書記局には何の権力もなかったのね。要するに、会議の開催を決めて、会場をとって、お膳立てをして、記録を取り、文書を保存する、地味な役割でしかない書記局に、大きな権力の源泉を見抜いたのが、スターリンの天才なわけ。この天才という言葉は、反語でもあって、徹底して凡庸な人間だけが発揮できる天才なんだけど。
 スターリンのライバル、トロツキーは、レーニンも一目置く論客であり、筆も滅法たち、議論にもつよく雄弁で、しかも軍事指導者としての手腕も卓越していた。だから、スターリンのことは頭からバカにして歯牙にもかけなかったし、もちろん書記局なんていう地味な部署には、何の関心も示さなかった。
 ところが、党内のあらゆる文書が集まってくる書記局は情報の中枢であるだけでなく、文書の管理を通じて、政敵に都合の悪い文書を探したり、あるいは自分に都合の悪い文書を隠したりもできる。さらに実際の政治過程を決定する会議を開いたり、仕切ったりする機能も書記局がそなえている。書記局の力を使って、スターリンは、才気溢れるトロツキーを追い落とした。スターリン以降、左翼政党では、実質的な権力は書記局が掌握することになったわけ。
 (福田和也『超・偉人伝』

 もちろんスターリンがいかに策士であれ、すぐにトロツキーを失脚させられるわけでもない。スターリンはまず、ジノヴィエフカーメネフと“トロイカ”(三頭馬車)を形成し、トロツキーを孤立させる。

 病床のレーニンは指導部の分裂を憂慮し、やがて状況の詳細を知るにつれ、スターリンを指導部から除くべきだと考え始めた。22年暮れに再び発作に倒れると、自らの死が近いことを悟り、翌23年1月までに、いわゆる“レーニンの遺書”を2回にわたって口述筆記させた。

 その中には次のような文言が含まれていた。

 書記長に就任した同志スターリンは、強大な権力を自分に集中した。私は、彼がこの権力をいつも充分注意して行使できるかどうか危惧している。スターリンはあまりに粗暴であり、この欠点は我々コミュニストの間では許容できても、書記局においては許容しがたいものではないか。それゆえ私は、同志諸君に訴える。スターリンをそのポストからはずし、後任に、いかなる点からもスターリンとは、良い意味で違った人物、つまり、より忍耐強く、忠実で、誠実で、同志達に親しまれ、気まぐれでない人物を推して欲しい。
 (リチャード・アッピグナネッセイ著 井上憲一訳 
 『フォー・ビギナーズ レーニン』現代書館・81年)

 23年3月に3度目の発作に倒れたレーニンはついに引退し、翌24年1月21日に死去した。

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