絓秀実『1968年』超難解章“精読”読書会(2017.4.9)その3

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その2」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 絓秀実氏の『1968年』(06年・ちくま新書)の“精読”読書会(の一部)のテープ起こしである。
 2017年4月9日におこなわれ、『1968年』の中でも最も難解だと思われる「第四章」と「第五章」を対象としている。紙版『人民の敵』第31号に掲載された。
 絓氏の『1968年』の現物をまず入手し、文中に「第何章第何節・黙読タイム」とあったら自身もまずその部分を読んでから先に進む、という読み方を推奨する。

 第3部は原稿用紙16枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)にはその6枚分も含む。

     ※     ※     ※

 (「第四章 2.偽史的想像力のもう一つの源流」黙読タイム)


 なぜここまでネチネチと吉本批判を……?

外山 やっぱり……難解でしたなあ(笑)。

E氏 全然分からない(笑)。

藤村 前半でまず、吉本隆明の『共同幻想論』(68年・角川文庫)へのディスりがおこなわれる。前節から問題とされている新左翼的な“偽史”の試みの1つとして『共同幻想論』があるっていう、これはまったくそのとおりだと思います。“下部構造が上部構造を決定する”っていう経済決定論的な正統派マルクス主義の唯物史観では日本の天皇制の謎は解けない、ってことで吉本は『共同幻想論』を書く。そういう意味でも“偽史”だし、内容的にもシッチャカメッチャカで、いかにも“偽史”的な、荒唐無稽なものであるというのもまったくそのとおりで、絓さんは228ページで山口昌男による遠回しの批判を例に挙げてるけど、それ以外にも、田川建三による批判とか、自身は熱烈な吉本主義者であるはずの小浜逸郎による批判さえ含めて、これまでにもそのことを指摘する人たちはたくさんいた。

D嬢 千坂さんも『歴史からの黙示』(田畑書店・73年/後註.18年に航思社から“増補改訂新版”刊行)の中(「無政府主義革命の黙示録」72年)で批判してましたね。

藤村 そういういろんな批判もありつつ、しかし当時の新左翼には、225ページにあるように、「『国家とは共同幻想である』という言い方」が、「国家が幻想であるなら別の、より強固な幻想によって打倒できるはずだ」というまさに“幻想”を与えて、吉本の『共同幻想論』は熱烈に支持された。

外山 “天皇制国家”の打倒を課題とし始めた新左翼にとって、救いというか、閃きの源泉になったんでしょう。

藤村 しかしなぜここまでネチネチと吉本批判に分量を割くのか、そんなに吉本が憎いのか、と思いながら読んでたけど、いったん『共同幻想論』を離れてもっと初期の吉本の「転向論」(58年)について長々と論じた後、最後にまた『共同幻想論』を、今度は『共同幻想論』以後の吉本の沖縄論との絡みで改めて批判してる。

外山 ……絓さんはこの節で何をやろうとしているのか? そういうことは大抵の場合、最後のほうに書かれているものだし、じっさいこの章の最後のページである259ページに、それらしいことは書かれてますよね。吉本の「転向論」は、日本の新左翼の形成にとって決定的な役割を担ったものの1つだし、その「転向論」自体が無自覚なナショナリズムを内包していて、だから「転向論」の影響下に登場してきた日本の新左翼は最初からナショナリズムへの傾きを無自覚に有していた、と。日本の新左翼のその“無自覚なナショナリズム”を指摘して批判したのが華青闘告発であったはずなんだが、同時にその華青闘告発がまた、ナショナリズムを色濃く内包した“偽史的想像力”の新たな突破口を開いてしまったという「ディレンマ」を、絓さんはこの章全体で指摘してるわけです。さらには、そういう“転向”は吉本以前から歴史上何度も繰り返されてきたことであり、どうしてそういうことになるのかというメカニズムを分析しようとしている章でもある。その上で、一番最後の段落で「付言しておけば」として、絓さんのスタンスらしきものが表明されてる。絓さんは日本国家の側の“正史”が解体されなければならないという立場で、どうすればそれが可能なのかというと、国家の解体を目指す側が保持しうる“正史”を再建することによる以外にはない、と云ってるわけですね。

藤村 “正史”にあれこれの“偽史”を対置してもダメなんだ、と。

外山 うん、そう云ってる。

藤村 向こうが掲げる“正史”に対しては、こっちの側の“正史”を対置しなきゃいけない。

外山 で、そういう“正史”を掲げることが可能なのは“党”でしかありえず、つまり“党”が再建されなければならないということだし、絓さんもこの末尾部分ではズバリそう云ってます。……ぼくはこの本を通読するのはたぶん今回が10回目ぐらいだけど、初めてこの章を理解できたような気がしてきた(笑)。


 中野重治の“転向”と宮本顕治の“非転向”との“密通”

藤村 メインは吉本の「転向論」への批判でしょ? 吉本の「転向論」が“日本共産党神話”のようなものから多くの人々を解放したんだけど、実は「転向論」が依拠してる中野重治の「村の家」という小説は“日本回帰”を内包していて、日本浪漫派とかと同じような方向のものだったんだ、っていう。

外山 吉本隆明は「村の家」について、宮本顕治的な“ダメな非転向”に対して相対的優位に立つ、云わば“良い転向”を描いていると見なした。たしかに表層的には“転向”だけど、革命党が人民の動向から完全に乖離していることに無頓着であるがゆえに可能であったにすぎない宮本的な“非転向”や、その乖離に突如として気づいて愕然とし、単に大衆迎合的に時流に乗っかることを選んでしまう大多数の転向者たちの“ダメな転向”とも違う、人民との乖離を直視してゼロからものを考え直そうと志した、本来そこからしか“あるべき左翼”は形成されようがない場所にまず立つという“転向”だったと見なして高く評価したわけです。しかし絓さんが云うには、実は「村の家」で描かれたのはそういうことではないんだ、ということですよね。

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