反共ファシストによるマルクス主義入門・その18

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  〈ロシア革命史篇〉その5

  「その17」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。なお引用部分の太字は、原文がそうなっているのではなく外山の処理である。
 第13部までが“マルクス主義入門”の“本編”で、第14部からは“おまけ”的な“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。
 第13部までエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』に、第14部からは松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』に、主に依拠している。

 第18部は原稿用紙23枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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   24.第1次世界大戦(承前)

 世界史用語集にも、第2インターについて例えば「ドイツ社会民主党が中心で、(略)戦争反対を決議したが、大戦勃発で自国の戦争を“防衛戦争”として協力したため、1914年解体した」とか、「第一次大戦前、1907年にシュトゥットガルト大会で戦争反対を唱えたが、大戦が迫ると、ドイツ社会民主党は軍備拡張予算に賛成し、各国の社会主義政党も参戦を支持し、この組織は崩壊するにいたった」などとある。

 八月一日、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、
 「戦争がはじまれば、あらゆる党派はなくなり、われわれはみな同胞となる。平和な時代には、あれこれの党派が朕を攻撃したが、いま朕は彼等を心の底から許す」
 と民衆にむかって演説した。軍部当局は、はじめ開戦と同時に社会民主党幹部を逮捕する予定であったが、そのような手段がとられないかわりに、社会民主党員もまた「ドイツ人」としてすすんで祖国防衛にあたることを誓わされた。翌日の国会では社会民主党の指導者ハーゼも四〇〇万の労働者の名において戦時公債案に賛成した。しかし、反戦を主張するカール゠リープクネヒトローザ゠ルクセンブルク、フランツ゠メーリングのような、少数の反対派も存在した。
 フランスでは、八月四日、臨時議会が招集され、大統領のポアンカレの教書は、「神聖連合」すなわち党派をこえた全国民の一致団結をよびかけた。
 イギリスでは、社会主義者の運動はそれほど困難ではなかった。当時、全ヨーロッパにおいて、いかなる集会も、言論も、また新聞記事も禁止しなかったのは、ただイギリスのみであった。(略)
 八月一日、第二インターナショナルのイギリス支部は、ケア゠ハーディおよびアーサー゠ヘンダーソンの反戦宣言を出したが、宣戦とともに態度は一変した。社会主義者の大半は志願兵募集に賛成し、最急進派の独立社会主義者一味も、とうてい戦争の支持に党員の参加することをとめるすべはなかった。
 そして交戦国双方の責任を主張していたマクドナルドは労働党首の地位をしりぞくこととなり、ヘンダーソンがこれに代わった。
 ベルギーの社会党指導者ヴァンデルヴェルデも、すすんで自国政府に入閣するにいたった。(略)
 こうしてヨーロッパの社会主義者の階級的立場は民族的立場をこえることができなかった。ここにいわゆる「第二インターナショナルの崩壊」があり、戦争はこのような反戦運動の国際的な分裂を前提として進められていったということができる。
 (江口朴郎『世界の歴史14 第一次大戦後の世界』62年・中公文庫)

 少し古い本からの引用だが、広く流通している認識では現在でもこれと大差ない。各国の社会主義者たちは、民族的立場を階級的立場によって乗り越えることができず自国の戦争に賛成した“右派”と、あくまで社会主義の原則を守って戦争に反対した“左派”とに分裂し、各国の社会主義者の分裂は第2インターの崩壊に帰結した、と整理される。

 レーニンらの左派のかんがえ方からすればこの宣言(引用者註.シュトゥットガルト宣言)は、戦争を内乱に転化させて、労働者階級が資本家の政府をたおして権力をとれという呼びかけであった。だから、いよいよ大戦がおこった時点で、すでに社会主義者のとるべき態度はきまっているはずだった。祖国を守れというのは、資本家の階級の利益を守るだけである。労働者階級は、資本家の国家にたいして、新しい自分たちの国家をつきつける以外になかった。国家というのは階級が階級を抑圧するための暴力機関であることは、「共産党宣言」によってとっくの昔からはっきりしているとかんがえた。
 これにたいして右派の社会主義者はべつのかんがえをもっていた。かれらは資本主義の社会は平和的に社会主義社会に移行するとした。労働組合や協同組合の活動を通じて、民主主義を拡大させていくことで、国家は労働者の国家になるのだから、労働者は国家にたいする愛をどこででも捨てる必要がない。国家のあたえる福祉が大きくなるほど労働者は国を愛するのが当然である。もし外敵が国家を侵略してくるのなら、敵に降伏するより立って祖国を守るべきである。こういう立場から、右派の社会主義者は、大戦勃発にあたって祖国防衛の立場にたった。
 中間派は、左派と右派のあいだをたえず動揺した。たとえば、カウツキーは資本主義の没落は必然ではあるが、なるべく労働者階級の出血の少ない仕方で権力の交替をしたいとかんがえていた。はやる左派にたいして、まだ、その時期ではないとなだめた。資本主義社会のなかで、労働者階級はもっと政治に習熟せねばならない。資本主義社会はその内部経済的な矛盾でがたがたになるときがくるのだから、そのときに民主主義の力で革命をやればよいという思想だった。戦争における外国軍の侵略は破壊の最大なものだから、これは防がねばならぬ。自国の独立と領土の保全は、すべての民族国家の労働者階級の努力すべきことだといった。
 (松田『ロシアの革命』)

 反戦を貫いた“左派”の代表がレーニンやローザ・ルクセンブルクであり、レーニンら“正統派”のマルクス主義者がそれまで「修正主義」その他のレッテルを貼って攻撃してきた“右派”は、それ見たことか、大戦争が勃発するや馬脚を現してしまった、というわけである。

 そのような“通説”を受け入れている者からすれば、左派が主導するイタリア社会党の有力な指導的の1人でありながら、大戦勃発後まもなく参戦派に転じて除名され、やがて「ファシズム」運動を創始するムソリーニ(1883〜1945)など、典型的な“右派”と見えようが、事実は違う。

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