反共ファシストによるマルクス主義入門・その13

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  「その12」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。
 第13部は原稿用紙23枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。
 なお、この第13部までが、初期の合宿でテキストとして使用していたエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』を下敷きとしたというか、説明手順をそのまま踏襲しつつ内容的には私が全面的に書き直したような部分で、次の第14部からは、リウスの本からは離れた“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。

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   16.史的唯物論

 マルクス主義がほとんど宗教的な眩惑力をもって多くの人々を惹きつけた最大の要因は、その「史的唯物論」にあると思われる。前節で述べたような、「資本主義は“必然的に”共産主義へと移行する」という託宣を含む、1つの歴史理論である。「唯物史観」とも云う。

 マルクスによれば、歴史には「発展法則」がある。その要となるのは、歴史を動かす「原動力」であるとマルクスが主張する「生産力」である。生産力は、基本的には増大していく一方の力である。

 「歴史の発展段階」の一番最初に「原始共産制」というシステムが想定される。この段階では、社会総体が持つ生産力がまだ圧倒的に小さい。その社会の成員が全員で全力で働いて、やっと全員が食えるかどうか、というほどの生産力である。したがってそこには「働かない階級」はまだ存在しない。

 この原始共産制の社会においてならば“全員で働く”というような、社会に必要なモノを生産するに際して人々が取り結ぶ関係の形を「生産関係」と云う。そして生産力と生産関係との組み合わせの形態を「生産様式」と云い、この例では「原始共産制」というのがそれに当たる。

 何万年あるいは何十、何百万年と続いたであろう、生存ギリギリの水準で人々が完全に平等な一種のユートピア社会である原始共産制の時代は、やがて終わる。農耕や牧畜の開始によって、生産が効率化され、生産力が増大するためである。それまでは10人なら10人全員で働いてやっと10人が食っていけたのに、例えば9人で働けば残りの1人も食わせることができるようになる。

 こうして「階級」が発生する。持つ者と持たざる者、他人を支配して働かせる階級と、働く階級である。最初の階級社会は「古代奴隷制」と呼ばれる。古代ギリシアや古代ローマの社会構造が念頭におかれているが、階級構成(生産関係)は単純で、政体は共和制だったり王制だったりしながら、要は働く階級と働かない階級とが生まれ、働くのが奴隷階級の人々である。

 この単純な階級構成の古代奴隷制の時代にも終わりがくる。生産技術はさらに発展し、生産力がさらに増大して、それが古代奴隷制の階級構成とそぐわなくなるからである。歴史は、王や貴族、聖職者、商人、職人、農奴……と複雑な階級構成を持ち、分権的でもある「中世封建制」の社会へと“発展”する。

 ここまでの説明でおよそ想像がつくように、マルクスはまさに“弁証法的に”歴史を把握している。原始共産制という生産様式のもとで安定していた生産力と生産関係の組み合わせが、生産力が増大することで齟齬をきたし、増大した生産力に見合う生産関係へと社会は再編され、古代奴隷制という新段階の生産様式へと移行する。その古代奴隷制のもとでも生産力は少しずつ不可逆的に増大していくから、やがてその生産関係に見合う以上の生産力に達すると、社会はまた階級構成の再編を余儀なくされ、中世封建制という次の段階の生産様式への移行が起きる。

 マルクスによれば、歴史とは生産様式の変遷なのである。その原動力となっているのが生産力の増大である。

 中世封建制が「近代資本制」というさらに新しい生産様式へと移行し、生産関係=階級構成も“ブルジョアとプロレタリア”の2大階級とに再び単純化されていくメカニズムは、これまでに述べてきたとおりである。

 そして現在のこの近代資本制の生産様式も、社会がそれに見合わないほどの生産力の増大を実現するにつれ、歴史的役割を終える。“来たるべき新社会”の生産様式である、とマルクスが想定するのが「未来共産制」ということになる。それは、かつてないほど豊かな生産力を実現した上で到来する無階級社会であり、したがって人類史の終着点でもある。ヘーゲルの弁証法を継承したマルクスの歴史観は、“人類史のゴール”を現在ではなく少し先の未来に置きかえたにすぎない、とも云える。

 生産力の増大という誰も否定できない歴史的事実を軸に“歴史の発展法則”を描き出してみせた上で、それに基づいて共産主義社会の到来の“必然性”を唱えるマルクスの“予言”は、資本主義がもたらした現実に憤る世界中の人々を熱狂させた。

 もちろん共産主義の社会が“必然的に”到来するのなら、なにもわざわざ苦労して闘う必要はない、ということにはならない。資本主義の進展につれて労働者たちは闘わざるをえなくなり、闘うためには団結せざるをえなくなり、その団結は拡大せざるをえなくなるからこそ、それは“必然的”なのだからである。

 ところでこうした歴史観は、実は日本の多くの歴史教科書でも踏襲されている。歴史教科書の記述をよく読み返してみれば、生産力の増大がさまざまの歴史的事象の背景にある、という視点で貫かれていることに気がつくはずである。いわゆる右派がよく問題にするような、“先の戦争”に関する記述がどうこうといった浅いレベルではなく、もっと深い根本的な歴史観の部分で、ほとんどの歴史教科書はマルクス主義的に“偏向”しているのである。経済こそが社会のありようを決定するという「経済決定論」に、歴史学者を含む多くの人文系学者たちが説得されてしまっているからである。

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