絓秀実『1968年』超難解章“精読”読書会(2017.4.9)その2

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その1」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 絓秀実氏の『1968年』(06年・ちくま新書)の“精読”読書会(の一部)のテープ起こしである。
 2017年4月9日におこなわれ、『1968年』の中でも最も難解だと思われる「第四章」と「第五章」を対象としている。紙版『人民の敵』第31号に掲載された。
 絓氏の『1968年』の現物をまず入手し、文中に「第何章第何節・黙読タイム」とあったら自身もまずその部分を読んでから先に進む、という読み方を推奨する。

 第2部は原稿用紙18枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)にはその7枚分も含む。

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 “実践”を伴わないことを正当化するアカデミズム

藤村 やっぱり難しい本で、ぼくも読んでいて“大体こういうことなんだろう”という程度に理解してるつもりだけど、例えばこの章の冒頭、192ページで、華青闘告発が「新左翼にアイデンティティーの危機をもたらすことになっ」て、「新左翼の入管闘争から狭山闘争へのシフトは、その危機への一つの応接であったが、その応接自体が『もの』に憑かれるという危機だったのである」と書かれてて、その上で“偽史”云々の議論につながっていく。つまり、かつてマルクス主義は“科学的社会主義”であって、その時代の左翼だって実は“労働者階級”という“もの”に憑かれていたんだと思うけど、唯物史観という科学的・客観的な歴史観のもとでは、“憑かれている”なんて自覚できるはずもない。しかし華青闘告発以降は、「『在日』中国人・台湾人、『在日』韓国・朝鮮人は言うに及ばず、アイヌ、琉球人、被差別部落民、障害者、性的マイノリティー等々、そして何よりも女性」(193ページ)とかに依拠することになって、唯物史観の“科学性”というものが解除されてしまった、ということでしょう。

外山 “もの”に憑かれる、ということについては、前の章ですが、189ページに出てきます。「フェティッシュ(呪物)のような『もの』」とあって、「フェティッシュとは、存在しないはずのカテゴリーが『もの』として存在していることを言う」と説明されてる。「存在しないはず」というのは、例えば“部落民”というのは、明治以降は法的・制度的には存在しないことになってるわけで、しかし現に“部落民”として差別されている人たちは存在していて、だから反差別運動の側としては、「存在しないはずの」“部落民”というカテゴリーを“存在してるじゃないか”と強調せざるをえない。それは“在日外国人”についても同様で、反差別運動の側は、誰もが“同じ人間”として平等であり“日本人”とか“朝鮮人”とかいったカテゴリーなど存在しないと一方で云う必要があるんだけど、他方でやっぱり“在日朝鮮人”というカテゴリーに属している人々に依拠しなきゃいけない。そういうメカニズムを指して“「もの」に憑かれる”と云ってるんだろうね。で、“「もの」に憑かれる”運動が“偽史”への扉を開くことになる。
 ところが215ページから216ページにかけてあるように、今のアカデミズムの世界では完全に“前提”と化していると云っていいだろうポストモダン的な言説というのは、そもそも“華青闘告発以降”の文脈で登場してきたものであるはずなのに、不思議なことに“実践”を忌避するような傾向を持ってしまっている、という問題があるわけです。むしろ“実践”を伴わないことこそが、ポストモダン思想に依拠して正当化されてたりする。彼らは、「実践の問題を『解放』とか『革命』という『大きな物語』に回収されるとしてしりぞけ」るわけです。ここは、いわゆるカルチュラル・スタディーズとかポスト・コロニアリズムとかの現状に対する絓さんの批判ですね。だからといって、じゃあ絓さんが“偽史的想像力”に基づく“実践”を復活させるべきだと云ってるかというと、そういうわけでもないところがこの本の難しいところです(笑)。“偽史的想像力”の産物という側面を濃厚に持っていながら、本来は肝心であったはずの“実践”を伴わないポスコロ、カルスタなんてものは、華青闘告発以後の転換から必然的に生じてくるさまざまな問題をスルーしている。それらをスルーしてはいけないんだが、それらをもたらした転換を絓さんは良しとしているわけでもないという、やっぱり実に難しい本(笑)。


 平田篤胤が“キリスト教までをも取り込んで”?

外山 ……ぼくも、単に知識がないためによく分からない箇所が1、2ヶ所あったんで、藤村君に教えを乞いたいんですが、まず201ページに、「キリスト教までをも取り込んで、それを日本化する平田篤胤の偽史的国学」とありますよね。“キリスト教までをも取り込んで”というのは、どういう意味ですか?

藤村 平田篤胤が自然科学的なものを取り込んでいることは間違いないんです。地球……という云い方はしてなかったかもしれないけど、“天地”がどう動いてるかとかさ。

外山 それは“蘭学”とかを密輸入してる感じなの?

藤村 たぶんね。もちろんそういった知見を取り込んで、“神道”の枠組の中に昇華させる。右翼のオレがこういうことを云っちゃいけないんだが、まあ、“擬似科学”的なところがある(笑)。で、“平田篤胤”に関する質問にオレがちゃんと答えられないというのは……。

外山 ゆゆしき問題(笑)。

藤村 そうなんですけど(笑)、パッと答えられる範囲で云うと、本居宣長の場合は、人間は死んだら“黄泉の国”に行くわけでしょ。生きている間に良いことをしようと悪いことをしようと、死んだら誰でも“黄泉の国”という“穢れた汚ない国”に行く。しかし平田篤胤の場合は、現世で“良いおこない”をした人は死んでも“黄泉の国”には行かずに、生きている時と同じ国土の上にある“幽冥界”ってところに行って、“魂”がそこらへんにフワフワと浮かんで、生きている我々の“守護神”みたいなものになる。

外山 神道だから、さすがに“極楽”に行ったりはしないんだ?

藤村 うん。でも“神道ふうに云い換えた極楽”みたいなものだよね。つまり、キリスト教的な“最後の審判”とは違うけれども……。

外山 現世での善悪が“死後の運命”を左右するような話になってる、と。

藤村 そういう意味で“キリスト教までをも取り込んで”と表現してるのかなあ、と思いました。

外山 ちなみに日本の右翼の世界では、本居宣長は当然、“偉い人である”ということになってると思うけど……。

藤村 やっぱり平田篤胤のほうがメインですよ。

外山 だよね? たぶん本居宣長は神棚に祭り上げられるような感じで……。

藤村 平田篤胤“先生”だし、あるいは“大人”というふうに呼びます。イデオローグとしての影響力は本居宣長よりも大きい。


 “ポストコロニアル理性批判”としての“偽史運動”

外山 ……それともう1ヶ所、207ページの真ん中ぐらいに出てくる、「偽史運動は、それがポストコロニアル理性批判であるという意味で、エコロジー運動とも親近性を持っており」云々とあって、よく意味が分からないんだけど、藤村君は分かる?

藤村 “三宅洋平”とか思い浮かべたらいいんじゃない?(笑)

外山 いやいや、具体的にどういう運動のことを指して云ってるのかが“分からない”わけではなくて(笑)、“偽史運動”が“ポストコロニアル理性批判である”ということの意味がよく分からない。

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