絓秀実的な、あまりに絓秀実的な「なごやトリエンナーレ」論

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 ※絓秀実氏の(とくに『革命的な、あまりに革命的な』第9章で赤瀬川原平を絶賛した部分の)文体模写(一部まるパクリ)です。正確には、文体模写と丸写しの中間、“替え歌”ぐらいでしょうか。内容に関しては、私自身もところどころ自分で何を云っているのか分かりません(笑)。


 「なごやトリエンナーレ」事件を、それを担った者たち自身もおそらくは(肯定的であると否定的であるとにかかわらず)参照していると思われる赤瀬川原平らのかつての一連の「反芸術」運動の文脈において(のみ)捉えることは、赤瀬川らが、例えば「反芸術」としての模型千円札の「芸術」たるゆえんを述べることで無罪を主張し、「反芸術」を従来の「芸術」の文脈に回収してしまう限界を露呈したことに比して、「なごやトリエンナーレ」の担い手たちがあくまで自らの有罪性を引き受けようとしているという決定的な差異から目をそらし、事の重大性を隠蔽しかねないものである。
 「なごやトリエンナーレ」問題は、それが赤瀬川的な「ネオダダ」の半世紀ぶりの不意の再現であるというがごときロマンティックなコンテクストにおいてではなく、まず何よりも、単に「似ていること」(『鏡・空間・イマージュ』)がオリジナルのアイデンティティーを揺るがすという宮川淳的なコンテクストから論じられるべきはずである。
 「再現」と「似ていること」とのパラドキシカルな差異。それは、再現=表象としてのイメージが、常に背後にある(あるいは、深層の)何らかの実体的=主体的自己同一性の表層への代行的再現であり、「劣弱性」をまぬがれないのに対して、単に「似ていること」としてのそれは、「あるものがそれ自体であると同時に、それ自体からずれてあること」としてある、ということにほかならない。それは、「背後のないことそのもののあらわれ、軽薄なまでに表面的であることの権利」だと、宮川は言う。つまり、「背後の」何らかの実体的=主体的自己同一性を「再現」するのではなく、ただそれと同じ表面において「似ていること」、これが例えばフランス五月革命におけるもっとも知られたスローガンたる「想像力が権力を奪う」ことの真に六八年的な意味でなければならないし、そこにあってイメージとは、似ることによって「権力」を奪い、それ自体から「ずれてあること」の力なのである。
 つまり、宮川に倣えば、ただ単に「似ている」ものが二つある時、その自己同一性が揺らぎはじめるのだが、それが「反芸術」を掲げながら「芸術」に回収されてゆく最悪の意味でのダダイズムにほかならない、「反芸術=芸術」という自己同一性をつかさどる赤瀬川の実践にたいして「反芸術」として遂行される場合、決定的な芸術批判となる。
 そもそも「反芸術」の理念は従来しばしば人間主義的に解釈され、疎外論的芸術観と結合される傾向があった。人間は本来、無限に享楽されるべき「表現の自由」を「検閲」や「脅迫」や「弾圧」によって規制されるという、「疎外」をこうむってはならぬ崇高な存在であり、「反芸術」はその「表現の自由」を極限まで拡張することを目指すものだ、という次第である。しかし、これがミスリーディングであることは論をまたない。たとえ「反芸術」が人間主義的な「表現の自由」理解の枠内で掲げられてきたように時として見えるとしても、である。むしろ、「商品経済における物神崇拝は(中略)労働力商品化による資本の生産過程においてその根拠を明らかにされる」(宇野弘蔵『経済原論』)と言われるように、「反芸術」という芸術の「特殊性」から、「芸術=商品」世界を覆う「フェティシズム的性格とその秘密」が明らかにされると言うべきなのだ。
 しかも「なごやトリエンナーレ」のめざましさは、そのことをたんに赤瀬川的な「反芸術=芸術」(ネオダダ)というプロブレマティークにおいてのみならず、「あいちトリエンナーレ」という現代の「芸術=商品」世界総体の記念碑的な祭典と位置づけられ(う)るところの、(その「反響」までを考慮に入れれば「国民的」とも称されるべき)巨大な官製イベントの中心において敢行したことにある。
 改めて指摘するまでもなく、もとより「あいちトリエンナーレ」に対しては、ことに「表現の不自由展・その後」と題された企画展に提出されたいくつかの作品をめぐって、河村たかし名古屋市長に使嗾された「ウヨ」市民からの抗議や脅迫が相次ぎ、くだんの企画展がわずか数日で中止に追い込まれるなど、さまざまのトラブルが生起していた。「なごやトリエンナーレ」側は、すでに別途論じたような「反芸術」的な立場からする「官製アート」批判の文脈で、「あいちトリエンナーレ」への徹底的(いや、この場合、これまた六八年を象徴する革命的な漫画たる、つげ義春の『ねじ式』から学んで、「テッテ的」というのが正しい文法であろう)介入を試みたわけだが、「会場にガソリンをまく」などと「あいちトリエンナーレ」事務局を脅迫した男が前日に逮捕されたばかりというタイミングの問題とも相まって(注1)、「あいちトリエンナーレ」側のスタッフらとの押し問答の過程で、会場を(赤瀬川らの「首都圏清掃整理促進運動」をも想起させるように)「掃除」するために「なごやトリエンナーレ」のメンバーが手にしていたバケツの水が、両者の間に割って入っていた警察官の足にかかったという「公務執行妨害」逮捕事件は、当初かなりその実相を歪曲される形で広く世間に伝えられた。
 しかし事情が次第に判明してくるにつれて、逮捕を不当とする意見がSNS上でも多数を占めるようになり、それにとどまらず、左右両翼から挟撃されて無様な後退を続けるばかりの「あいちトリエンナーレ」への悪評の高まりに反比例するように、「なごやトリエンナーレ」こそ真に芸術の名に値するものだといった類いの「誤認」が、一部の「芸術」関係者の間でさえ囁かれるまでになりつつあるというのが現状なのである。まして逮捕された青年が、警官の足に水をかけるという行為の有罪性を正面から引き受ける覚悟を示し、「もし私が起訴されれば名古屋地裁が「なごやトリエンナーレ」のメイン会場となるだろう」と弁護士を通じたメッセージを発し、あまつさえ、警察署に面会に訪れた仲間に開口一番「「なごやトリエンナーレ」にようこそ」と言い放ったと伝えられる状況にあっては、なおさらであろう。
 戦前からの弾圧に耐えて非転向の「主体」を貫いた日本共産党=宮本顕治や、一度は「自白」を強要されたとはいえ、それ以後は「無実」を主張し続けた、華青闘告発以後の新左翼における石川一雄のような存在を持たぬ芸術というジャンルにおいて、そのような存在をさがすのは、赤瀬川らが結局「反芸術=芸術」という自己同一性に退行することによる「無罪」主張の自己弁護に追い込まれた千円札裁判以降、焦眉の課題であった。
 だが、三度繰り返せば、「なごやトリエンナーレ」とは、赤瀬川らの「反芸術」と「似ていること」において、当人たちが自称する「超芸術」なるやや不明瞭な造語に込められたところの何かというよりも、「反芸術=芸術」という「自己同一性の拒否」であり、さらには、「首都圏清掃整理促進運動」というオリジナルの自己同一性を「拒否」することではなかったか。
 いうまでなく、「なごやトリエンナーレ」の実践はたんに赤瀬川らの「反芸術」に「似ている」ばかりでなく、「あいちトリエンナーレ」とも「似ている」ことはもちろん、「ウヨ」市民たちによる「あいちトリエンナーレ」への脅迫事件とさえ「似ている」(注2)。
 そもそも、東京オリンピックの後、清潔な都市空間と化した東京・銀座において、赤瀬川らハイレッド・センターの面々が白衣とマスク・腕章姿の「官許のデザイン」でおこなった高名な「首都圏清掃整理促進運動」それ自体も、公権力の清掃事業とただ単に「似ている」ところの、端的にジャンクなパフォーミング・アートであった。「あいちトリエンナーレ」もまた、先進国イタリアで一九二三年にまで遡る長い歴史(つまりそれはファシズム政権下で誕生し、したがって「一九三〇年代」的な問題性をも孕んでいることもまた見逃されてはならないが、ここではさしあたり問わずにおこう)に培われた権威を有する「ミラノ・トリエンナーレ」とただ単に「似ている」ところの、しかも昨今では日本中の大小の自治体がこぞって開催し(たがっ)ている程度に凡庸な、やはり端的にジャンクな芸術祭である。六八年の革命による資本主義の転換にともなって急速に進んだ「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)はまた、同時にいわゆる「ポスト・ポリティクス」と呼ばれる保守化現象をももたらし、プチ・ナショナリズムに感染した「ウヨ」たちのPC=マイノリティ問題への怨嗟の言葉は今やネット空間を突き破ってリアル社会全体に横溢し、「あいちトリエンナーレ」におけるくだんの企画展に出品された従軍慰安婦像(など)をめぐる騒動もその見やすい例にすぎないが、彼/彼女ら「ウヨ」市民たちにしても、結局のところ、ポスト市民社会の監視/管理体制下で差別を享楽するジャンク化された主体(の残骸)にほかならないこともまた改めて指摘するまでもない。付け加えておけば、「会場にガソリンをまく」云々の脅迫的言辞を弄して「なごやトリエンナーレ」事件の前日に逮捕された犯人さえもが、「あいちトリエンナーレ」に少し先行して世間の耳目を集めた京アニ放火事件と単に「似ている」ことを明白に意図した、端的にジャンクな二番煎じでしかあるまい。
 「表現の自由」の疎外論的/人間主義的な称揚は、一般的にはそれと敵対しているかに看做されていよう「ウヨ」たちをもその内部に包摂しながら(「批判の自由」の正当な行使!)、誰もがジャンクとして自由で平等な近代資本制下の「反芸術=芸術」のフェティシズム的性格が完成される。だとすれば、それへの批判は、自らを──「芸術無罪」的なロジックによってではなく──確信犯的な「(「反」であれ「超」であれ)非芸術有罪」的なロジックによって(非゠)正当化することによってのみ、可能となろう。
 そしてじっさい、「なごやトリエンナーレ」は、「あいちトリエンナーレ」やそれへの脅迫事件や「首都圏清掃整理促進運動」などと単に(しかし複雑に、多重的・多層的に)「似ていること」によって、それらオリジナルのアイデンティティーを揺るがしたというばかりでさえない。今や、「なごやトリエンナーレ」の「水まき公務執行妨害」青年が、司直による裁きを待つ身というテッテ的にロウワーでジャンクな存在であり続けながら(あり続けることによって?)日々そのアウラを高めつつある一方で、近代資本制下の国民国家(の有機的部分たる地方自治体)が莫大な税金を投入して開催する官製芸術展たる「あいちトリエンナーレ」は、それが「表現の自由」の擁護を掲げる企画展を守りきれず字義どおりの「表現の不自由」展に頽落したことで、他の自治体による類似のジャンク芸術祭に対する「あいちトリエンナーレ」全体の卓越化(箔付け!)のために招聘されたと思しき海外「アーティスト」たちが、抗議の意思表示として続々と出品作を引き上げるという事態が一段落する気配もなく進行中であり、ついには「あいちトリエンナーレ」の運営に「アドバイザー」として名を連ねていた著名批評家も辞任を表明するに至るなど、無惨に崩壊してゆく姿を露呈するばかりなのである。
 「なごやトリエンナーレ」はまさに、「あいちトリエンナーレ」に似ることによってその「権力」(権威)を奪い、かつまた、それ自体から「ずれてあること」の力のありかをまざまざと開示し(え)ていると評価すべきだろう。

(注1) 「なごやトリエンナーレ」の面々が「あいちトリエンナーレ」開幕以前から一貫してSNSなどで繰り返し公に表明してさえいた「前衛的」な文脈を理解しえなかった警察が、「右翼による脅迫事件」というありうべきナラティヴを駆使して、現場で「ガソリン」が云々されたという不確実な情報をさえあえて加味する発表をおこない、マスメディアを媒介した俗情との結託を企図した結果でもある。
(注2) さらに言えば、「なごやトリエンナーレ」の近傍にある九州の「反芸術」グループで、今回の一連の過程においても共闘関係を築いている「メインストリーム」は、よく知られているように自らを「芸術弾圧機構」と規定しており、したがって「なごやトリエンナーレ」に蝟集する一群の「反芸術」派のありようは、赤瀬川らのそれをはじめ歴代さまざまの「前衛」芸術を「弾圧」してきた警察当局にも「似ている」。そしてこのグループ周辺の理論的支援にも与かって、「なごやトリエンナーレ」は、「ガソリン」と「似ている」ただの水を「想像力」によって(?)ガソリンと確信的に誤認して対応した警察当局の「想像力」理解のサルトル的水準をテッテ的に糾弾し、左右を問わぬ広汎なネット民たちの大方の失笑を誘発することで、その権威と権力を脱構築的に無力化してさえいるのだ。

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