栗原康『現代暴力論』“検閲”読書会(2017.3.26、4.2)その7

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その6」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2017年3月26日と4月2日の2回に分けておこなわれた、栗原康の『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』(角川新書・2015年)を熟読する読書会のテープ起こしである。
 栗原康の『現代暴力論』の現物を入手して、途中ことわり書きが挟まるように、例えば「第一章・黙読タイム」などのところでまず当該の章を自分でも黙読してから読み進む、というのが一番タメになる読み方である。

 第7部は原稿用紙17枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその5枚分も含む。

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 (引き続き「第四章 恋愛という暴力」をめぐっての議論)


 すべて“生き方”論に流し込まれて終わっちゃう

外山 ……しかしこの「第四章」はアレだな、頑張って何か“読書会”っぽい、実になるような話をしようとしても、著者の人格を攻撃するような話にしかなりませんな(笑)。

藤村 いきなり“自分語り”から始まって、しかもその内容が人格を疑わせるようなものなんだから、仕方がない。

A女史 伊藤野枝や浮舟はカッコいいのにね。

藤村 ぼくは一応、吉本(隆明)主義者なんで、吉本の云う、恋愛などの局面で人間が抱く“対幻想”という領域は、それ以外の“自己幻想”や“共同幻想”とは独立して存在する、という……まあ胡散臭いテーゼですが(笑)、吉本のそういう立論を一応は支持しているので、“下部構造が上部構造を規定する”、つまり人間が抱く観念なんてものはしょせんその人間が置かれた経済的な地位なんかによって決まる、みたいなことを具体的な男女関係にまで粗雑に適用してくるのには、ものすごく違和感がある。

外山 ぼくもやっぱり“恋愛”的な領域は他の諸々とは違う水準で存在してると思うけど、もちろん特定の時代に人々が持つ平均的な恋愛観が例えばこの“資本主義”という特定の時代の社会構造から受ける影響はあるとも思うし、しかし栗原康のつなげ方はあまりにも短絡的で、マルクス主義的なものであれ何であれ、こっちがもうちょっと“左翼的にまっとうな”つなげ方を示してあげたくもなってしまう(笑)。

藤村 うん、まあそういうことです。

外山 しかしかく云う私自身、かつてまさに栗原康が書いてるような“自由恋愛”の理想を掲げていた時期もあるから……。

藤村 よく存じております(笑)。

外山 だから栗原康の気持ちも分からなくはないんだが……でもやっぱり単なる自己正当化なんだよね、これは。

藤村 外山君の“自由恋愛”論は、これよりははるかにマトモだったと思うよ。こういうのではなかった。

A女史 “こういうの”呼ばわり(笑)。

外山 そうか……藤村君にそう云っていただけると心強い。読みながら、“こういうの”に近かったような気も自分ではしてたからさ(笑)。

A女史 女が“家庭”に取り込まれていくっていう、こういう話は、例えば資本主義社会の“賃労働”があるからこそ家庭での女による無償の“家事労働”が補完的に必要とされ正当化されるっていう、よくある議論にでもつなげていくんならまだ理解できるけど……。

E氏 たしかにこの本では、すべて“生き方”論に流し込まれて終わっちゃうんですよね。

外山 うん、結局“道徳の問題”にしてしまってる気はする。恋愛的な局面における諸々の“納得いかないこと”を、社会の側が要求してくる“道徳”に多くの人が縛られてるせいだ、という話にしていて、そうだとしてもその背後にあるとも云えるだろう社会の“構造”の話にまではつながっていかない。たまにそっちに行きかけても、すぐUターンして、“内面の話”に着地して終わってしまう。

A女史 そもそも“恋愛”そのものが“近代”のシステムであることは、さんざん云われてきたとおりでしょ。そういう視点もないと思う。むしろ近代的な“恋愛”観が自明視されてるように、読んでて感じます。


 外山のかつての“自由恋愛論”とどこが違う?

外山 ……ともかくこの「第四章」についての議論は発展させられそうもないので、次に行っちゃいますか?

東野 最後にもう1つだけ。……本自体が“暴力論”ってタイトルになってて、この「第四章」のタイトルも「恋愛という暴力」ということになってます。しかしこの「第四章」のどこらへんが“暴力論”になってるんでしょうか?

外山 おそらく、人間が持っている“本来の”というか“自然の”というか、まあ“不定型な”エネルギーを型にはめるのが、イデオロギーとかも含めた諸々の社会的制度である、という話でしょう。そういうエネルギーが“自由に”放出されれば必ず“社会”と衝突したり、軋轢を生じてしまうものだ、っていう。

東野 たしかにそういう記述もありましたね。

外山 だから人々が本来の“不定形なエネルギー”を放出すること自体がある種の“暴力”的な意味合いを持つのであって……。

東野 169ページに「ひとを愛する奔放な力。暴力ということ。そのあばれゆく力が、ただひとつの暴力に、権力に囲いこまれてしまう」とあります。

外山 “恋愛”という局面でもそういうことが云える、って話ですね。……えー、他に何かありますか? 悪口以外、“人格攻撃”以外で(笑)。

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