外山恒一&藤村修の時事放談2016.12.03「“総しばき隊化”するリベラル派」(その4)

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 「その3」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2016年12月3日におこなわれ、紙版『人民の敵』第27号に掲載された対談である。
 第4部は原稿用紙換算24枚分、うち冒頭8枚分は無料でも読めます。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)はその8枚分も含みます。

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 野間易通と加藤典洋のロジックの相似性

藤村 話は飛ぶけど、野間さんと笠井(潔)さんの往復書簡が本(『3・11後の叛乱 反原連・しばき隊・シールズ』集英社新書・16年7月)になって、ツイッターでオレが観察してた範囲では、それを最初に高く評価したのは加藤典洋だった。加藤典洋がこの本を、あるいは野間さんという人間を評価するのは、オレにはものすごくよく分かる。
 ……オレは加藤典洋に強い影響を受けてた時期もあるんだ。加藤典洋というか、いわゆる『オルガン』派(86年から91年にかけて10号刊行された左派論壇の異端的な雑誌『オルガン』の編集同人あるいは常連寄稿者)の人たち。笠井さんもそうだし、竹田青嗣とか小阪修平とか、加藤典洋も、あと橋爪大三郎もいたね。外山君もそうだろうけど、オレも一時期はそういう人たちの強い影響下にあった。で、加藤典洋はやがて、それこそ“ヘサヨ島宇宙”の高橋哲哉と、いわゆる“歴史主体”論争(95〜97年ごろ)ってのをやるわけだ。加藤典洋が「敗戦後論」(『群像』95年1月号掲載)で……。

外山 日本が過去の侵略について近隣諸国に謝罪するためには、その謝罪の主体である“日本人”が形成されなくちゃいけないし、“日本人”が形成されるためには、靖国に参拝するという形にするかどうかはともかく、まず他国の戦争犠牲者よりも先に自国の戦没者を“国民的に”追悼するという過程が必要である、という論だね。

藤村 それに対して高橋哲哉が、それはナショナリズムを生み、肯定するものだと批判して、論争になった。実はこれって、野間さんとヘサヨの……。

外山 あ、たしかに似てる。

藤村 まったく同じではないけど、構図は近い。実際オレ、野間さんとヘサヨが論争してる時、野間さんに加藤典洋を、ヘサヨに高橋哲哉を重ねて見てたもん(笑)。
 ともかく加藤典洋は論争の時、「自己中心性」って言葉をよく使ってたんだ。石橋湛山(1884〜1973。戦前はリベラルなジャーナリストとして知られ、戦後は政界に転じて、56年末には首相となるが、急病により2ヶ月あまりで辞任、その後も60年代前半まで自民党内のリベラル派の重鎮の1人として活躍した)の戦前の植民地主義批判について書かれた本の書評で、加藤典洋は、「植民地主義はなぜ悪いか。植民地にされた地域の人々に迷惑をかけるからではない。我々にとって得にならないからだ」というようなことを書いてる。で、石橋湛山のリベラリズム思想の核心には「自己中心性」がある、って加藤典洋は指摘したわけだね。この「自己中心性」を含み込んでいない思想はダメなんだ、ってことでもある。もちろん高橋哲哉は加藤典洋のそういう部分を、ナショナリズムを肯定するものとして批判した。

外山 ったくヘサヨはすぐそれだ。

藤村 うん、ヘサヨは当然そう云うよ。しかし、「植民地主義は悪い」という前提に立てば、論理的に正しいのは高橋哲哉のほうなんだ。植民地主義を批判するのにわざわざ「自己中心性」なんて盗人猛々しいことを云うな、って話になるんだけど、とにかく加藤典洋は「自己中心性」ってことを肯定的に論じた。もちろん“野間さんvsヘサヨ”の論争はもっとショボいレベルだったとはいえ、やっぱり野間さんの主張の核にもこの「自己中心性」がある。

外山 「在日のためにヘイトスピーチに反対してるのではない。我々日本人にとって有害だから反対してるんだ」というのが野間さんの基本的な立場だよね。

藤村 うん。「自分たちの社会、自分たちの共同体の利益ためにやってるんだ」っていう。加藤典洋にも影響を受けたオレからすれば、野間さんの云うことはしっくりくる。だって「しばき隊」以前のカウンターは……。

外山 ヘサヨがやってた。そしてたしかに藤村君が云うように、ヘサヨはやっぱり“在日のために”やってた。もちろんヘサヨは「在日のためにやってる」なんて“日本人のくせに傲慢”なことは口が裂けても云わないけど、華青闘告発以後の新左翼運動は、差別する側の一員である自己を否定して、差別されている人々にひたすら献身するものだからね。“自己否定”で、“永遠に恥じ入り続けなければならない存在”としての自己以外は無化されてる、要は新左翼の正統な末裔であるヘサヨは、「自分のためにやってる」なんてことは絶対に云えない。

藤村 でも結局はヘサヨは“在日のために”やってたし、しかもどういうつもりでなのか北朝鮮を「共和国」と呼ぶ人も多くて、オレも在特会のヘイトスピーチに腹は立ってたけど、ヘサヨがやってるカウンターには乗れなかったんだ。そこに野間さんたちが登場して、「自己中心性」を無邪気に肯定して、ヘサヨの限界をいとも簡単に乗り越えた。もちろんヘサヨには批判されたわけだけど、それは非常に画期的なことだったと思う。だから加藤典洋が野間さんと笠井さんの往復書簡本を高く評価したのも、そりゃそうだよなと腑に落ちる。


 80年代の“共同体派vs外部派”論争

藤村 もともと笠井さんもヘサヨ的な潮流とずっと敵対関係にあった人でしょ。

外山 70年代末にマルクス主義批判に転じた笠井さんは、新左翼主流派から「マルクス葬送派」のレッテルを貼られて、罵詈雑言を浴びせられた。“ヘサヨ”はもちろんここ5年ぐらいで生まれて定着した用語だけど、さっきも云ったように、全共闘に端を発する新左翼ノンセクトの正統かつ凡庸な末裔たちのことだからね。

藤村 笠井さんはちょっと違うけど、加藤典洋や竹田青嗣といった“『オルガン』右派”の人たち(藤村氏および外山は、笠井潔・小阪修平らを“『オルガン』左派”と呼んでいる)と、柄谷行人・蓮實重彦・浅田彰ってラインが、“共同体派vs外部派”として論争になってたことがあるじゃん。

外山 それはいつ頃の話?

藤村 えーと……。

外山 笠井潔も含めて『オルガン』系の論客と、柄谷その他のポストモダン系主流派は、例の「文学者の反戦声明」の時に完全に割れたでしょ。91年の湾岸戦争の時に、柄谷を中心にポストモダン派の論客たちが急に「9条を守れ」とか云い出して、ポストモダン派と問題意識を共有しつつも同時に“反左翼”を明確に掲げてた『オルガン』派とで論争になってたのは覚えてる。

藤村 あれも1つの分岐点ではあったけど、それ以前から両者は割れてたよ。竹田青嗣や加藤典洋が、高橋源一郎と一緒に「批評は今なぜ、むずかしいか」という座談会をやってて(『文學界』88年4月号)、その中で加藤典洋が、批評というのは“なんとなく分かるでしょ”という、つまりそれを読む者にある種の共感をもたらすものであることが望ましい、といったような趣旨の発言をしてる。当時はいわゆるポストモダン批評が全盛で、普通の読者には分かりにくい“難解な批評”が主流だったわけだ。
 で、この加藤典洋の発言に対して、たしか浅田彰が、「“なんとなく分かるでしょ”的に馴れ合うような批評は、ムラ社会的な日本人の既成の共同性を強化するものでしかない」といった批判をして(「むずかしい批評について」・『すばる』88年7月号)、加藤典洋と竹田青嗣に「共同体派」というレッテルを貼ったんだよ。加藤典洋も浅田彰に反論して、柄谷や浅田は外来のポストモダン思想に眩惑された「眩惑派」だとレッテルを貼り返して、ちょっとした論争になったわけだ(つまり元々は「共同体派vs眩惑派」だったのを、のちに後者に有利に「共同体派vs外部派」と云い替えて流布させたのは、どうやら上野千鶴子であるらしい)。

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