栗原康『現代暴力論』“検閲”読書会(2017.3.26、4.2)その9

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その8」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2017年3月26日と4月2日の2回に分けておこなわれた、栗原康の『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』(角川新書・2015年)を熟読する読書会のテープ起こしである。
 栗原康の『現代暴力論』の現物を入手して、途中ことわり書きが挟まるように、例えば「第一章・黙読タイム」などのところでまず当該の章を自分でも黙読してから読み進む、というのが一番タメになる読み方である。

 第9部は原稿用紙18枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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 (引き続き「第五章 テロリズムのたそがれ」をめぐっての議論)


 “長渕の人”が“アナキズム”に入れこんじゃうとこうなる

外山 森元斎の『アナキズム入門』にも“歌詞の引用”はたくさんあったけど、あっちはもっとオシャレな、今ふうの曲からの引用だったもんな。サチモスとか相対性理論とか、まあ要は“サブカル王道”の“選曲”だったじゃん。実際“いい”かどうかはここにいる人たちの間でも意見が分かれるだろうけど、日本の“サブカル・エリート”たちの間では一般的に“いい”とされている、“優等生”的な選曲だったと云っていい。
 しかし栗原康のほうは“ブルーハーツと長渕”だっていう……。しかもそのブルーハーツも、初期のほんとに革命的だった時期の曲からの引用じゃなくて、後期というか末期というか、4枚目のアルバム(『バスト・ウェスト・ヒップ』90年)冒頭でシニカル転向を宣言してしまって以降の、全然つまんない曲から引用してる(笑)。そういう“ダメになったブルーハーツ”と、長渕

A女史 それはつまりどういうことを意味してるんですか?

外山 世の中とうまく折り合いをつけられないタイプの若者が、内向して、つまり「あばれる力」とか発揮しない方向で鬱屈して、でもやっぱり世の中に対する不満タラタラで……っていう、そういう若者たちを“おまえは間違ってない”と元気づけてくれるような音楽を、栗原康もまさにそのように聴きながら自己形成したんだろうってことです。

A女史 それに対して、森元斎の“オシャレ”な音楽趣味は何を意味してるの?

外山 うーん……森君が“オシャレ”な音楽趣味の人だってことを意味してるね(笑)。まあ、あえてイヤミったらしく云えば、森元斎がプチブルの“趣味人”だってことでもある。文化的にそこそこ恵まれた階層の出身なんでしょう。“サブカル王道”の諸々が自然と視界に入り、そういうものをもちろん素直に“いい”と感じられる、“正解”をすんなり選べるような感性を身につけることが可能であるぐらいの、つまり相当に高いレベルの文化資本を備えた家庭環境あるいは学校環境の中で思春期を過ごしたのであろうことが分かる。

A女史 そういうものなのか……。

外山 しかし栗原康のほうは、“後期ブルーハーツと長渕”! まあ……“底辺”だね(笑)。

A女史 底辺なの?

外山 そりゃあ底辺でしょう、少なくとも文化的には。そういう意味では、森元斎よりも好感が持てるかな(笑)。

E氏 ぼくもなんか好感が持てる気がしてきた(笑)。好感というか親近感というか、みなさんがこの本に対して批判的に云ってるようなことは自分にもかなり当てはまるような気がして、反省させられますよ。

東野 しかし一方では“シチュアシオニスト”がどうこう云ってたりするじゃないですか。

外山 うん、背伸びしてね(笑)。矢部史郎なんかと知り合っちゃったもんだから……。

A女史 “好感が持てる”というのは、誰しもが抱えてるような“ダメな自分”へのモヤモヤした思いみたいなものが表現されていて、キュンときちゃうような?

外山 ぼくの云うのはそういうことではないけど、この本を読んで共感するようなタイプの人は、そんな感じなのかもしれない。“栗原さんも私と同じようにダメな人なんだ”という……だって“これでもか!”ってぐらいにダメっぷりをアピールしてるもんな。云い寄った女の子にまで「死ね」とか云われちゃうっていう(笑)。ちなみにぼくが“森元斎より好感が持てる”というのは、ぼくも文化的には不毛な環境で思春期を過ごしたっていう、つまり森君みたいな“恵まれた階層”への“階級憎悪”というか、まあ単なるルサンチマンね(笑)。

藤村 ……「蜂起の二大原理」として掲げられてたうちの1つ、「ゼロになること」っていうのがよく分からないんだけど、一応説明として「わが身をかえりみずにたちあがるということだ。自分のためでも、他人のためでも、これをやらなければとおもったら、もうなにも考えずに損得ぬきでやってしまう。それでわが身が破滅してしまったとしても、文字どおり死んでしまったとしても、である」(233ページ)と書いてあって、これはまさに“長渕スピリッツ”じゃん(笑)。

A女史 そうなの?

外山 なるほどねえ……うん、“長渕アナキズム”だったんだな。

A女史 なんか外山さんがすごくスッキリしちゃってる(笑)。

外山 スッキリしたよ(笑)。どうも栗原康って人が……書いてある内容がくだらないとか、具体的にどうくだらないかとかは、さんざん云ってきたようにいくらでも明確に云えるけど、なんでこんなことになっちゃうのかが実は今ひとつピンときてなかった。それが、“長渕の人”が“アナキズム”とかに入れこんじゃうと、たしかにこうなるだろうって、すごくよく分かる。


 “階級脱落者”こそが蜂起の主体となる

藤村 でも長渕は日章旗を掲げてもいるし、政治的・イデオロギー的には明らかに“右”でしょ。

外山 そこはそうだよね。長渕も“黒旗でバシバシ”とシバかなきゃ(笑)。

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