反共ファシストによるマルクス主義入門・その15

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  〈ロシア革命史篇〉その2

  「その14」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。なお引用部分の太字は、原文がそうなっているのではなく外山の処理である。
 第13部までが“マルクス主義入門”の“本編”で、第14部からは“おまけ”的な“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。
 第13部までエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』に、第14部からは松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』に、主に依拠している。

 第15部は原稿用紙22枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその7枚分も含む。

     ※     ※     ※

   20.ナロードニキ運動とテロリズム

 ネチャーエフの唱える革命の教義のあまりのおぞましさに、ロシアの革命運動は壊滅的な打撃を受けた。意気消沈した過激派の青年たちと入れ替わるように、ネチャーエフ的な秘密の陰謀結社に拠るのではなく、自ら農村に出向き、農民たちと触れ合いながら啓蒙活動に努めようという、それまでの陰惨な運動とは正反対の、明るい正義感に溢れる素朴な運動が、1873年から75年にかけて、学生たちの間に爆発的に拡がった。「人民の中へ(ヴ・ナロード)」をスローガンに掲げた「ナロードニキ運動」である。

 「人民のなかへ」はそれに参加した青年には、えがたい教訓をあたえたが、農民たちは青年からほとんど何もまなばなかった。農民たちは、まだまだ皇帝を信じていた。青年たちの宣伝をきこうとしなかっただけでなく、警察に密告したり、ひっくくってつきだしたりした。青年たちの人民信仰は大きくゆらぐことになった。
 (松田『ロシアの革命』)
 十九世紀の一時期、都会の学生、青年インテリゲンチャたちが、こぞって農村に工作のために入っていったことがあった。このナロードニキ運動は、理想主義の熱狂に駆られた青年たちによって支えられていた。彼等は、農奴制的支配と抑圧の下にあった「二本足の道具」であるロシア農民を解放することを望んだのだが、この運動はツァーリ(引用者註.ロシア皇帝のこと)専制権力の仮借ない弾圧と、さらにそれ以上に、この運動を迎えた農民自身の冷淡な無関心──むしろ敵意によって、数年を待たずして壊滅していく。
 (略)
 初期のナロードニズムは、「犬のように愚直な理想主義」とでもいうべき性格において特に際立っている。そこには、一抹のシニシズムさえ感じられないのである。ナロードニズムの挫折は基本的には、ナロードニキ的理想に対する民衆の無関心と敵意に由来していた。人間解放を広汎な被抑圧民衆の解放として実現することを望んだ理想主義的観念の、その最大の妨害者が革命家の自己犠牲と献身の対象であるべき民衆自身であったのだ。ナロードニズムは、このように本質的には民衆の拒絶によって、さらに現実的には専制権力の弾圧によって運動としては崩壊した。
 (略)
 ナロードニズムというもっとも純真な理想主義的観念といえども、観念的なるものの病理と無縁な存在だったなどと信じるわけにはいかない。いやむしろ、その観念がラディカルに理想主義的であればあるほど、その病理は根深いものであったと考えるべきであろう。
 ナロードニキは同時にインテリゲンチャであった。いや、このインテリゲンチャという言葉そのものが、ナロードニキ運動を前後する十九世紀ロシアの知的風土を背景に生まれたものだった。(略)インテリゲンチャを社会的あるいは政治的な範疇で捉えてはならない。それはむしろ、実存論的な範疇なのである。インテリゲンチャという言葉には、「知的無用者」あるいは「知的余計者」というニュアンスが含まれていた。これは、知的であるけれども社会的には有用でない余計な人間という意味ではまったくない。社会的に有用でなく余計であるからこそ、つまり現実に無用であるからこそ、そこからの唯一の脱出路として観念的な世界に自己をせりあげていかざるをえない宿命こそが、インテリゲンチャという存在を定義する。
 現実生活からの脱落者、不適応者であり、不可避に共同性から疎外されていく者、つまり世界に安定した足場を持たない者、端的にいえば世界を現実的に喪失してしまった者が観念の世界において自己回復を企てる時にこそ、彼はインテリゲンチャになる。
 (略)
 観念的自己回復の手段としてなら、理想主義はペテルスブルグのサークルのなかでだけ叫ばれているべきだったのだ。民衆が、なぜインテリゲンチャの観念的自己回復の運動につき合うだろうか。ナロードニキに対する、農民たちのあまりに冷淡な態度は当然のものであった。しかし、ここに〈生活〉の重さと〈観念〉の軽さの対比を見ようとする者は、事態の意味を何ひとつ理解していないのだ。存在の意味を渇望し、自己回復を企てる観念はまるで爆弾である。生活者の肩越しに、したり顔で理想主義を嘲笑する者たちは、たんに観念の欺瞞という水準に位置しているに過ぎない。それはより累積された水準である、のたうちまわる観念の背理の凄絶さによってたちまち吹きとばされてしまうだけだ。民衆解放の理念が、観念の倒錯的運動故に民衆自体によって拒絶される時、観念の背理は惨苦に満ちた地獄遍歴の最初の一歩を踏みだすのである。
 ナロードニキ運動の壊滅後、ヴェーラ・ザスーリッチはナロードニキ学生を不法に拷問した責任者として警視総監トレポフを狙撃した。一八七八年のこの事件が、一八八一年の皇帝アレクサンドル二世暗殺へとうねり高まっていく血みどろのロシア・テロリズム時代の開幕を告げたのであった。
 (笠井『テロルの現象学』

 ロシア革命後まで生きる英雄的な女性革命家であるヴェーラ・ザスーリッチ(1849〜1919)は、かつてネチャーエフのサークルに属していたかどで流刑になっていたこともあった。

 笠井が述べているように、このトレポフ狙撃事件を皮切りに、ロシア革命史は本格的な「テロリズム」の時代に突入する。同年中に、検事が狙撃され、憲兵副隊長が刺殺され、秘密警察の長官がやはり刺殺される。かつて一瞬だけ存在した革命組織の名にあやかり、「土地と自由」と名乗る革命結社が改めて組織されたが、翌1879年にはテロ路線の推進派と慎重派とに組織は分裂した。

 慎重派の代表的なメンバーには、やがて〝ロシア・マルクス主義の父〟と称されることになるゲオルギー・プレハーノフ(1856〜1918)もいた。プレハーノフは慎重派というより徹底的なテロ反対派だった。やがてマルクス主義に傾き、1883年に亡命先のスイス・ジュネーヴでマルクス主義者の組織「労働解放団」を結成する。

 テロ推進派は1879年中に「人民の意志」党を新たに組織する。19世紀末ロシアのテロリズム時代を象徴する結社である。「人民の意志」はさっそく皇帝暗殺を具体的に追求し始める。まず同年11月、皇帝の乗った列車を爆破しようとして失敗した。翌1880年2月には党員の1人が職人として皇居に雇われることに成功、食堂を爆破し多くの死傷者が出たが皇帝本人はたまたまその場にいなかった。同年中にさらに2回の暗殺計画が失敗し、ついに指導者であるアレクサンドル・ミハイロフ(1855〜84)が逮捕された。

 1881年1月、壊滅寸前に追い込まれていた「人民の意志」党に1通の手紙が届けられた。ロシア随一の〝要塞監獄〟に収監され、とうに獄死したものと誰もが思い込んでいた、あのネチャーエフからの手紙だった。

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