反共ファシストによるマルクス主義入門・その16

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  〈ロシア革命史篇〉その3

  「その15」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。なお引用部分の太字は、原文がそうなっているのではなく外山の処理である。
 第13部までが“マルクス主義入門”の“本編”で、第14部からは“おまけ”的な“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。
 第13部までエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』に、第14部からは松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』に、主に依拠している。

 第16部は原稿用紙22枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

     ※     ※     ※

   21.レーニンの登場(承前)

 1894年のうちにレーニンは、1歳年上の女性活動家であるナデジダ・クルプスカヤ(1869〜1939)と出会っていた。(「その15」末尾の)引用文中にあるとおり95年末に逮捕されたレーニンは、1年半の獄中生活を経て97年にシベリア流刑となるが、クルプスカヤも96年に逮捕され、98年にシベリアへの流刑が決まった。すぐに結婚することを条件に流刑地をレーニンと同じ村にしてほしいというクルプスカヤの希望が当局に認められて、2人はシベリアで結婚した。

 レーニンの刑期は1900年1月に満了し、居住を禁じられたペテルブルクの近郊での短い活動を経て、同年7月にジュネーヴへ亡命、翌8月にはドイツのミュンヘンに移住する。クルプスカヤも1901年6月に刑期を終えてミュンヘンに到着、以後、レーニンの死去まで2人は行動を共にした。クルプスカヤはレーニンの私生活における伴侶であるだけでなく、活動上の同志でもあり、やがてレーニンが指導する党の幹部ともなる。

 レーニンとクルプスカヤがまだシベリアにいた1898年、ベラルーシのミンスクに主にインテリのマルクス主義者たちが集まって、「ロシア社会民主労働者党」を結成する。ところがロシア秘密警察は情報をすっかり掴んでいて、結成大会が終わるや参加者全員に尾行をつけ、一斉逮捕した。誕生したばかりの党はいきなり壊滅の危機に陥ったのである。インテリ指導者の大部分が検挙されたので、労働者党員たちがインテリたちの仕事を引き継いだ。

 この経緯は流刑先のレーニンにも伝わった。

 革命は自分たちが人民によびかけておこすものだと思っていたインテリにとって、この労働者の自発性の異様なたかまりは、ショックであった。革命と人民との関係についてインテリたちのなかに思想の動揺がおこった。
 あるものは、労働者の自発性をたかく評価しながら、ロシアの労働者はまだ政治的に未熟だから、労働者にもっぱら自発的な日常の経済闘争をやらせ、インテリは自由主義者といっしょに立憲政治をかちとるべきだといった。
 またあるものは、ミンスクでできた党はフィクションにすぎない、党のかわりに、労働者自身によって民主的に管理された組合をつくろうといった。
 他方では、党はすでにできているのだから、中央部を選挙しなおせばよいといい、あるものは労働者の意識の発達に応じた課題をあたえるべきで、高度の政治的要求をかかげてはいけないといった。
 これにたいして、プレハーノフとレーニンとはちがった反応をしめした。プレハーノフは世界的なマルクス主義理論家として、ヨーロッパの舞台にひっぱりだされていたから、もっぱらヨーロッパ的な視野でこの問題に近づいた。当時ドイツの社会民主党では、ベルンシュタインがマルクスのいった労働者の窮乏はだんだんひどくなるという説を否定した。革命によらないで社会主義がくる可能性を説いて、改良主義者として批判されていた。
 プレハーノフもその批判に一役かっていたこともあって、かれはロシアの革命家たちの思想の動揺を、ロシアにおけるベルンシュタイン主義ときめつけ、これに「経済主義者」というレッテルをはりつけた。政治闘争をかかげてナロードニキから分離したプレハーノフにすれば、いまさら政治闘争を否定するのはゆるされないことだった。かれはもっぱらマルクス主義にたいする違反として教条主義的に批判したのだった。
 レーニンは、この問題を、思想の問題としてより組織の問題としてとりあげた。革命家と人民との関係は、レーニンにおいては解決ずみであった。革命をやるのは革命家である。人民のエネルギーを活用することをかんがえなかったのは「人民の意志」党のあやまりであったが、革命の目標が専制の打倒であり、それをなしうるのは、党であることについて、「人民の意志」党のたれも疑わなかった。
 (略)
 社会主義と労働運動との結合、政治と経済との結合はすでにやってきた。それがうまくいかなかったのは、政府の弾圧によって党の活動が一時的によわまったためにすぎない。
 「党を終局的に確立し、党の綱領を作成し、その公式機関誌を復刊するために全力をつくすことこそ、すべてのロシアの社会民主主義者の任務である」
 いまさら、政治か経済かなどということを問う必要はない。ロシアにはすでに革命運動の伝統がある。
 「党を組織し、党内の規律を強化し、秘密活動の技術を発達させること」
 に全力を集中すればよい。
 (松田『ロシアの革命』)

 1900年、レーニンはミュンヘンで新しい新聞の発行を主導した。新聞のタイトルは『イスクラ(火花)』といった。編集部はプレハーノフヴェーラ・ザスーリッチら年長世代の3人とレーニンやマルトフ(1873〜1923)ら年少世代の3人とで形成されていたが、中心はレーニンであり、レーニンはプレハーノフに代わる新しい指導者として頭角を現し始めた。

 「新聞の発行」をとおして党組織を拡大する、というのはレーニンの運動論の主要な特徴の1つである。新聞の配布網がそのまま党の秘密の連絡網となる。例えば日本共産党においても、機関紙『赤旗』は今も昔も党勢拡大の極めて重要なツールと見なされている。

ここから先は

6,388字

¥ 220

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?