反共ファシストによるマルクス主義入門・その2

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  「その1」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。
 第2部は原稿用紙21枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその5枚分も含む。

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   3.フランス革命史(承前)

 1789年に勃発したフランス革命は、その後の数年間に複雑な経緯をたどる。複雑といっても、94年までの5年間は、革命は単にひたすら過激化していくのである。先の図式で云えば、当初は穏健な立憲君主主義者(ミラボーラ゠ファイエット)が実権を握ったが、やがて失脚し、次に穏健な共和主義者が実権を握り、しかしこれもやがて失脚して、ついには過激な共和主義者が実権を握る。彼ら過激な共和主義者たちを「ジャコバン派」という。拠点がジャコバン修道院というところにあったからである。ジャコバン派の指導者がロベスピエールである。彼らの主導で93年にはついにルイ16世は処刑され、さらに実権を完全に掌握すると「恐怖政治」と呼ばれる反革命勢力弾圧の強権的な独裁政治をおこなった。「反革命」とされた革命指導者たちが次々とギロチンにかけられたという、あれである。やがてロベスピエール自身も失脚してギロチンにかけられるが、これを「テルミドールの反動」(94年7月)という。つまりいかに過激な恐怖支配がおこなわれたとはいえ、それまでは革命が左へ左へと展開していく過程であり、「進歩的」な立場からすれば理念上は肯定的な過程なのである。ロベスピエールの失脚でこの過程は終わり、「反動」が起きて、以後は穏健な共和派が実権を握る。フランス革命史が“複雑”なのはここからだ。

 革命が穏健化したとはいえ、他のヨーロッパ諸国からすればフランス革命自体がとんでもない暴挙である。事実上の立憲君主制となっていたイギリスでさえ、フランス革命の影響が自国に及んで王制打倒まで突き進まれてはたまったものではないし、他のいまだ強固な王政や帝政が敷かれている国々ではなおさらである。イギリスの提唱で、オーストリア、プロシア(ドイツ)、ロシア、スペイン、オランダ、ポルトガルなどでフランスを包囲する軍事同盟が組まれ、つまりフランスはヨーロッパ中を敵に回して新国家を防衛しなければならなくなるのだ。そこで台頭してくるのが、天才的な軍事指導者だったナポレオンである。ナポレオンが指揮するフランス軍は各地で連戦連勝し、一躍国民的な英雄となるが、1799年、政府の実権を掌握すると、やがて1804年、自ら「皇帝」に就任してしまう。つまり革命によってせっかく成立した共和政が、「王政」どころか「帝政」に変質してしまうのである。

 フランス革命後、ここまでを「第1共和政」、ここからを「第1帝政」と云う。もちろんそれぞれこの後に「第2」がある(「共和政」にはさらに「第3」、「第4」とあり、現在のフランスは「第5共和政」である)。

 ナポレオンはフランス以外の国々の革命派にとっても少なくとも当初は英雄であり、各国の支配者たちとは異なって、革命派は自国にフランス革命の影響が及ぶことを期待したのである。とくに強固な帝政下にあったドイツにナポレオン熱は強まり、例えば哲学者ヘーゲルはナポレオンを「世界精神」(世界史の進展を象徴する精神)と呼んで絶賛しているし、ベートベンの第3交響曲のタイトル「英雄」とはナポレオンのことである(ただし完成間近にナポレオンが皇帝に就任したとの報に接して失望し、楽譜の冒頭に「ある英雄の思い出のために」と書きつけている)。ヘーゲルもベートーベンも共に1770年生まれで、1769年生まれのナポレオンとは同世代である。

 ともかく、ナポレオンに率いられる革命国家フランスをどうにかして封じ込めることが、ナポレオンの皇帝就任後もヨーロッパ各国の一致した政治目標であり、1814年から1815年にかけて、ついにフランス包囲軍はナポレオンを打ち負かす。ナポレオンは流刑となり、国外亡命していた元の王家であるブルボン家のルイ18世(処刑されたルイ16世の弟)が、諸外国からの圧力によって改めてフランス国王に据えられる。1814、15年までの「第1帝政」が終わり、「ブルボン復古王政」の時代になる。

 同時に、再び「反革命」国家に復した当のフランスを含むヨーロッパ各国が連帯して、2度とフランス革命のような事態を招かないように、自由主義・民主主義・議会主義・共和主義の運動を封じ込めることを目的とした強固な国際秩序が築かれる。これを「ウィーン体制」と云う。主導したのはオーストリアの政治家メッテルニヒである。

 このウィーン体制が崩壊するのが「1848年の世界革命」で、それまで約30年間、各国の反体制派にとって、ウィーン体制を打倒することが当面の政治目標となったのである。

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