反共ファシストによるマルクス主義入門・その4

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  「その3」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。
 第4部は原稿用紙18枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその5枚分も含む。

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   6.空想的社会主義

 革命運動史にマルクスやバクーニンの名がチラつき始めたところで、すでに現れていた他の「社会主義者」たちについても概観しておこう。

 まず後にマルクスそしてエンゲルスによって「空想的社会主義者」(もしくは「ユートピア社会主義者」)と罵倒されることになる一群の思想家がいる。イギリスのロバート・オーウェン(1771〜1858)、フランスのサン・シモン(1760〜1825)、フーリエ(1772〜1837)らである。

 ちなみにバブーフ以来の革命思想家・運動家について縷々延べてきたうち、すでに触れたようにバブーフ、ブランキの名は高校世界史の教科書にも登場する。「バブーフの陰謀」は太字だが、ブランキの名は太字ではない。マルクスやエンゲルスはもちろん“極太”であり、バクーニンも太字だが、ヴァイトリングはブランキと同じく“細字”である。ブオナローティ、シャッパーなどは高校世界史では名前も登場しない。これから説明する3人の「空想的社会主義者」たちを始め、19世紀半ばに登場していたさまざまの「社会主義者」たちはすべて太字である。“太字”というのは大半の教科書に記載されている、“細字”は有名進学校で使われるような詳しめの1、2の教科書には載っている、というぐらいの意味である。こうした情報は、“世間一般での認識”の参考として、今後も触れることにする。

 (後註.自分の認識が世間一般の平均値や、この場合で云えば文系インテリ一般の平均値と、どの程度に重なっているのか、ズレているのか、そうしたことに自覚的でなければならない)

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 まずロバート・オーウェンである。ある意味でエンゲルスの境遇にも似て、イギリスの工場経営者である。エンゲルスと違って父親の工場を継いだのではなく、妻の父の工場を継いだもので、本人は小商人の子である。エンゲルスと同じくいわば“良心的経営者”で、下層労働者の悲惨に心を痛め、10歳未満の子供を働かせることをやめ、工場に学校を併設して通わせた。大人の労働者のための夜間学校も開設した。労働問題への取り組みを政府にも訴え、その結果として1819年にはイギリスで最初の「工場法」が制定される(ほとんど実効性のないものだったが、これがやがて1833年以後、児童労働の禁止や労働者一般の労働時間の規制など、実体を伴う法制へと発展していく)。

 イギリスでのオーウェンの活動はいったん頓挫し、1824年には心機一転を図って渡米、私財を投じてインディアナ州ハーモニーに土地と建物を購入して理想郷建設の構想を発表し、これに応じた二百人の参加をもって、翌1825年、農業と製造業を併せて実施し共同作業・共同消費をおこなう「ニュー・ハーモニー村」を開設した。これはすぐに失敗し、2年後の1827年には自身その失敗を認め、1829年には再びイギリスへ戻った。オーウェンがイギリスを離れている間に、オーウェンの著作などの影響を受けた労働者たちがイギリス国内で自主的に、各自の生産物を協同して販売する組合や、生活必需品を協同購入する組合、さらには共同の仕事場で協力して生産し直接公衆に販売する組合などを作って活動し始めており、帰国した初老(50代後半)のオーウェンはこれらの指導にあたった。オーウェンは長命で(享年87歳)、その後も20年以上にわたってさまざまの社会改良の運動に取り組むが、最終的にはどれもあまりうまくいかず、晩年は宗教的になり、「新道徳世界」という機関紙を発行しながら“社会の道徳的覚醒による千年王国の到来”を訴えて講演活動を続けたという。

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 オーウェンより11歳年長(バブーフと同い年)のフランスのサン・シモンは、名前からも想像されるとおり貴族の生まれである。16歳でラ゠ファイエットが指揮する義勇軍の士官としてアメリカ独立戦争に参加したという経歴も持つ(英仏は対立していたので、フランスは独立勢力側を支援した)。

 1789年に始まるフランス革命にはほとんど関与せず、「恐怖政治」の時代に人違いで投獄されたが、「テルミドールの反動」の後に釈放されている。貴族の称号を放棄して実業に専念し、巨額の財を成した。子供の頃からリベラルな教育を受けており(「百科全書派」のダランベールが家庭教師に就いたこともあるそうだ)、財を成してからも、多くの学者を会食に招いて教養に親しんだ。

 「ブルボン復古王政」時代には自由主義者と親しく交際し、1816年には自由主義思想を広めるための新聞を創刊した。その後もいくつかの新聞を創刊し、そこに自身の論文を発表したが、あまり評判を呼ばず、1823年にはピストル自殺未遂事件を起こしている。その2年後に衰弱して死去。つまり“現場の運動”にはほとんど関わらず、もっぱら言論で理想社会の建設を訴えた人物である。

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