2007〜2011、日本で起きた知られざるスクウォット(建物占拠)闘争(その1)

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海のピラミッド

 問題の“海のピラミッド”
 (「天草旅ポータルサイトTRAVEL GUIDE AMAKUSA」より)

 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 ※当記事はもともと有料記事でしたが、スポンサーがついたので無料公開に切り替えます。「多くの人に読ませたい良い記事なので、私が丸ごと高額で買い上げるから、無料公開としてほしい」という奇特な方が現れたわけです。すでに有料で買ったという方には心苦しいんですが……。

 有川理(ありかわ・おさむ)氏は熊本の企業経営者である。67年生まれで、外山の3つ上ということになる。外山は90年代半ばに知り合い、実は有形無形のさまざまな支援をしてもらってもきた。インタビュー中でも明らかにされているが、東大在学中に一瞬(1年間ほど)中核派の活動に参加したこともあるそうだ。ちょうど外山と知り合った前後から、熊本で有川氏が経営するレストランは成り行きでインディーズ系?の結婚式場に業種変更していく。
 06年、当時の熊本県宇城市長が、有川氏の経営手腕を見込んで、どうにも使い途がなくて困り果てている、バブル期につい県が地元に建ててしまった前衛建築「海のピラミッド」をどうにか活用してくれと泣きついてくる。有川氏は話に乗り、熊本駅から電車で1時間のまさに僻地にあるそのヘンテコ物件を、“西日本最大級のクラブ”としてリニューアルし、驚いたことに毎週末、数百人の若者たちがつめかける謎の新名所へと、あっというまに変貌させてしまう。
 大成功、のはずである。
 が、やがて有川氏の試みを後援していた市長が失脚、新しい市長は、前の市長がやったことをことごとく忌み嫌い、“西日本最大級のクラブ”も当然、目の敵にされ始める。以後、なぜか(屋内に)ゲバラやマルコムXやレーニンの肖像が飾られ、「想像力が権力を奪う」などのスローガンが大書されていたりする「海のピラミッド」は、2012年11月の強制代執行(!)による退去に至るまで、事実上の“スクウォット”状態となる。
 この奇人・有川氏のそもそもの生育歴から、本題の“「海のピラミッド」スクウォット闘争”の一部始終まで、根掘り葉掘り、徹底的に訊いてみた!

 インタビューは2015年12月30日におこなわれ、紙版『人民の敵』第16号に掲載された。

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 チェ・ゲバラの生まれ変わり

外山 企業家としての立場もあるでしょうし、今回は匿名・仮名のインタビューでいいんですが、やっぱり内容的に、そもそもの生い立ちというか活動歴というか、触れざるを得ないと思うんです。だってフツーの人がやたらと、まあ今やファッション・アイテムと化してもいるゲバラやマルコムXまではともかく、レーニンのポスターなんかそこらへんに貼りたがったりしないでしょ?(笑) 後でそういう話が出てきた時に、やっぱり何か特殊な背景を持った人なんじゃないかと読者も勘ぐるだろうし、実際そうなんだから、いっそ最初から説明しといた方が話が早い。

有川 もはや実名で構わないけどね。ツイッターもフェイスブックも実名で、いろいろやってることももう書いちゃってるし、“海のピラミッド”で検索すれば、私に対する批判なんかも実名で出てくるし(笑)。

外山 ともかく本題の“ピラミッド”の話に入る前に、それほど詳細にではなくていいんで、ざっと活動歴等から訊いておきたい、と。

有川 もう日本も終わりそうだし、とくに隠さなきゃいけない話もないよ(笑)。

外山 世代の確認の意味もあるんですが、生まれは67年でしたっけ?

有川 うん、67年の12月……。

外山 あ、そうだ(笑)。

有川 12月8日(笑)。チェ・ゲバラが死んでちょうど2ヶ月後ぐらいですね(笑)。

外山 そう云われてみれば……つまりゲバラの生まれ変わりである、と(笑)。

有川 たしか67年の10月9日だかに、あの人はボリビアの山奥で戦死してるでしょ。

外山 その約2ヶ月後に熊本で誕生……。

有川 いや、大牟田(福岡県の最南部で、熊本県との県境)。

外山 そうでしたね。

有川 12月8日生まれだから、誕生日と云えばもう、テレビでは必ず日米開戦、真珠湾攻撃の回顧特番なんです(笑)。誕生日のたびにそういう映像を刷り込まれてたら、やっぱり影響されるよ。

外山 ジョン・レノンは……当時はまだ生きてるのか(笑)。

有川 暗殺されたのが80年でしょ。中1の時だな。

外山 じゃあ中1以降はさらに“ジョン・レノン特集”も加わって、誕生日のたびに“真珠湾”だの“ジョン・レノン”だの……

有川 両方だよね。まさに“戦争と平和”(笑)。象徴的な日というか、特異日というか、そういう日付になってる。


 核戦争で世界が終わる!

外山 実際に“目覚める”のはいつ頃なんですか?

有川 うーん……そもそも冷戦の真っ只中でしょ、とくにその後、80年代に入ってからの方がむしろ。

外山 “レーガン、サッチャー、中曽根”の時代になりますもんね。

有川 『風が吹くとき』「スノーマン」などでも知られるイギリスの児童文学作家・漫画家のレイモンド・ブリッグズが82年に発表した漫画を原作とした86年製作の反核アニメーション映画。ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズが音楽を担当し、デヴィッド・ボウイが主題歌を担当。日本でも87年に公開され、大ヒットした。外山も高校時代に観て感動した記憶があり、実は当時買ったパンフも持ってたりする)とか、あと“第三次世界大戦”の架空戦記ものとか流行って……NATOの司令官がそういうのを書いたりしてたんですよ(ジョン・ハケットが78年に発表しベストセラーとなった『第三次世界大戦──1985年8月』のことと思われる。その後の“架空戦記”ブームの先駆けの1つとなった)。NATOとワルシャワ条約機構軍が衝突したらどうなるか、みたいなシミュレーション小説が本屋にいっぱい並んでた。

外山 『渚にて』って映画もありませんでしたっけ?

有川 あれはモノクロだし、50年代じゃないかな。

外山 あ、そうか。80年代初頭に他にも有名な映画が何かあったような気がするんだけど……(アメリカで83年に高視聴率を記録し、日本でも翌84年に劇場公開されたテレビ映画『ザ・デイ・アフター』のことを云おうとしていた。やはり“第三次世界大戦”的な核戦争もの。日本での映画興行成績は芳しくなかったが、同年中の「日曜洋画劇場」でのテレビ放映は、現在でも同番組の歴代3位の高視聴率となっているようだ)。

有川 あと、『復活の日』とかね(小松左京・原作のSF映画。米軍が開発したウィルス兵器を積んだ飛行機が墜落し、感染拡大して人類はほぼ絶滅、かろうじて極寒の南極にいた者たちだけが生き延びるが、観測で北米での大地震の発生が予想され、米ソが遺した“自動報復システム”が、まずアメリカのそれが地震を自国への核攻撃と誤認することから連鎖的に作動し始め、南極も含む世界中に何百発もの核ミサイルが降りそそぐ危険性が高まり……という話。原作は64年に書かれたが、80年公開の角川映画版も大ヒットした)。とにかく“世界が終わる”的なネタが多かった。しかも多くの場合それは、自然災害とかよりも“人間のせい”で(笑)。

外山 60年代にフルシチョフとケネディが出て、冷戦がいったん“雪どけ”的に緩和してたのが、ソ連もフルシチョフが失脚してブレジネフの時代(64〜82年)になって、スターリン体制に逆戻りしちゃうし、西側もやがて“レーガン(81〜89)、サッチャー(79〜90)、中曽根(82〜87)”の時代になって……。

有川 うん、そうだよね。

外山 雰囲気的には80年代に入ってからの方が、いかにも“冷戦”っていう感じが強まる。レーガンが“スター・ウォーズ計画”とか云い出すし(笑)。

有川 軍事雑誌なんかも結構売れてたと思うよ。私も小学生の時にマンハッタン計画(第二次大戦中のアメリカの原爆開発計画)の本を買って熟読してた(笑)。“NBC兵器がどうこう”って新書を図書館で借りて読んだりもしたな。“核(ニュークリア)、バイオ(生物兵器)、ケミカル(化学兵器)”ね。だから小学生の時点でもう、“サリン”とか“マスタード・ガス”とか知ってたもん(笑)。原爆の基本的な原理も知ってたね。


 公害と労働争議の街に育つ

外山 ラ・サール(云わずと知れた全国有数の名門校。鹿児島市にある)は中学校からですか?

有川 いや、中学校はまだ大牟田の普通の公立。中学生の時は、夏休みの自由研究で“宇宙移民”について調べたりしてた(笑)。“スペース・コロニー”ってやつ。

外山 それは本当に“自由”研究で? 先生にテーマを与えられたとかではなく……。

有川 うん。『第三の選択』(イギリスのテレビ局が77年にエイプリル・フール用に製作した、地球温暖化の危機を察知した米ソが極秘裏に一部エリートのみでの火星移住計画を進めている、とするフェイク・ドキュメンタリー。日本でも翌78年にテレビ放映されたが、82年には今度はトンデモ陰謀論者の矢追純一の演出で、あたかもシリアスなドキュメンタリーであるかのような体裁で再びテレビ放映された)なんかにも影響されてたと思う。あと、例の“ローマ・クラブ報告”も70年代からあったし(世界各国の有識者を集め、72年の「成長の限界」を皮切りに、資源枯渇、人口増加、軍備拡張、経済問題、環境破壊など、グローバルな諸問題に関するさまざまのレポートを発表、とくに環境問題への関心を広く喚起した)、とにかく環境破壊とかいろんな問題で人類は地球に住めなくなるんじゃないか、っていうさまざまな……脅し?(笑) 核戦争は迫ってるわ、石油は枯渇寸前だわ、と煽られまくってた、そういう時代ですよ。ガンダムなんかも、スペース・コロニーがどうこうって話でしょ。

外山 あれも80年前後ですよね。

有川 うん、70年代のうちじゃないかな(いわゆる“ファースト・ガンダム”、第1シリーズのテレビ放映は79年〜80年)。まあ全体的にそういう時代だったし……それに大牟田って、そもそも労働争議の街なんだ(59〜60年、福岡県大牟田市から熊本県荒尾市にかけて広がる三井財閥系の三池炭坑を舞台に、いわゆる三井三池闘争、“総資本vs総労働の闘い”とまで称され、60年安保闘争と共に戦後民主主義の高揚と終焉を象徴する巨大な労働争議が起きた)。

外山 そうか(笑)。

有川 九州の中でもかなり特殊な地域だと思う。60年当時ほどの高揚はなくても労働争議は続いてるし(閉山は97年)、公害問題も起きるし……私も喘息だったもん。小児喘息。

外山 それはきっと単に前世のゲバラから引き継いだだけですよ(笑)。ゲバラの喘息持ちは有名じゃないですか。

有川 いやいや(笑)、やっぱり公害病ですよ。当時の大牟田の川って、油やら何やら、いろんな有害物質で7色だったぐらいでさ。

外山 問題化もしてたんですか?

有川 もちろん。山手の方に化学工場がたくさんあって、そこで石炭をいろいろ化学的に加工してた。港の周辺も工業地帯だし、両方に挟まれる形で市街地がある。

外山 住んでる人たちも大半はそれらの関連で雇われて……。

有川 多かったね。……あ、そうそう。大牟田の市街地に有名な塾があって、ラ・サールとか久留米附設(久留米大学附設中学・高校。福岡県久留米市にある九州第2の名門校。ラ・サールには全国から、久大附設には九州全域から、外山の出身校である福岡市の西南学院中が九州第3の名門中学で、福岡都市圏全域から生徒が集まる、ぐらいのイメージでおおよそ合ってるはず)への合格率が異様に高いんだよ。それには理由があって、石炭がまだ日本の花形産業だった頃には、三井のお偉いさんたちが出世していく過程での栄転先がまず大牟田だったんだ。それで東大卒のエリート社員たちがたくさん転勤してくるでしょ。その子弟が通う塾なんだね。だから大牟田って、人口に比して、あるいは田舎の割に、ものすごく教育水準が高かった。


 先生が乗った飛行機をソ連が撃墜

外山 有川さんの家は、もともとレストラン経営ですよね。小中学生の頃にはすでにそうだったんですか?

有川 いや、当時はまだ、まあ飲食系ではあったけど、バーとかクラブとか。両親よりさらに前の代は、料亭……とは云っても、かなり怪しい“料亭”なんだよね。

外山 ああ、いかがわしい感じの(笑)。

有川 うん、フスマを開けると布団が敷いてあるような(笑)。

外山 熊本に移ってくるのはいつ頃なんですか?

有川 やがてレストラン経営を始めるわけだけど、順調に伸びて大牟田・玉名(熊本県北部)・熊本の3店舗を持つようになって……だけど大牟田の街がどんどん衰退していくでしょ。大牟田の最盛期は、人口が16万人以上いたんだけど(もっと多く、大争議が勃発した59年の人口約20万9千人がピークだったようだ)、それが今や10万人を切りそうなぐらいにまで落ちてる(15年現在約11万7千人)。人口が3分の2ぐらい落ち込む(実際にはほぼ半減である)ってのは、相当な衰退だよ。まあそういう趨勢を見越して、ジワジワと移ってきたわけだ。

外山 じゃあ熊本の前に玉名時代もあるんですか?

有川 うん。

外山 3店舗あって、“本部機能”を担う店が南下してきたような……。

有川 そうだね。本部というか、メインの店が、最初は大牟田だったのが、玉名になり、熊本になり……。

外山 有川さん自身は進学で実家を離れてる時期に、その“移動”が進行するのかな?

有川 私は中学まで大牟田にいて、高校から1人で鹿児島に。

外山 本格的に左傾するのは、やっぱり鹿児島のラ・サール時代ですか?

有川 “左傾”ってわけでもないんだけど……さっき云ったように、冷戦時代でしょ。中学生の頃にはすでにガスマスクとか入手して、持ってたもんね。化学防護服まで持ってた(笑)。

外山 かなりイッちゃってるお子さんですね(笑)。

有川 唯一ガイガー・カウンターは持ってなかったな。……ガスマスクは今でも持ってるよ。

外山 その頃に買ったやつを?

有川 うん。(3・11以後の)今となってみると、ガイガー・カウンターを買っておくべきだったね(笑)。とにかく中学生段階ではそういう感じで、将来の進路としても、防衛技術研究所(現在の防衛装備庁)とか、防衛庁管轄の兵器開発の部署に行きたいと考えてた。だけどやがて高校時代に吉本隆明を読んだり……時期的には何年頃になるのかな?

外山 えーと、ぼくの高校時代が86年からだから、3つ上ってことは……83年に入学して86年に卒業って計算になりますね。

有川 80年代半ばだな。ちょうどちょっと左翼っぽいのが流行って、本多勝一とか……。

外山 はいはい。反核運動がすごく盛り上がったのも、82年から83年にかけてでしょう。

有川 あと、第三書館あたりからサブカルっぽい新左翼本がたくさん出たりした。

外山 “全共闘ブーム”もその頃ですよね。『全共闘グラフィティ』(84年に新泉社から刊行された記録写真集的な回顧本)なんかが売れたっていう。

有川 そうそう。そういうのに感化されたところはあると思う。……チェルノブイリはいつだっけ?

外山 86年です。

有川 ってことは、もう卒業した後だったかな?

外山 4月ですから、そうですね。卒業直後のはずです。

有川 ……あ、思い出した。ラ・サールって、ミッション系でしょ。本部がカナダにあるんだ。夏休みにそこへ行ってる先生がいて、新学期が始まるんでまた日本に戻るために乗った飛行機が、撃墜されちゃったんだよ。大韓航空機事件(83年9月1日、ニューヨーク発・アラスカ経由・ソウル行きの大韓航空の旅客機が、予定の航路を外れ、ソ連の領空を侵犯して撃墜された。日本人28名を含む乗員乗客269名全員が死亡。87年に北朝鮮の工作員が大韓機を爆破し墜落させた事件とはまた別の大事件)。

外山 ええっ!?

有川 あれにラ・サールの先生が1人乗ってたの。高校1年の時かな。

外山 それはまさに、冷戦を身近に……(笑)。

有川 そうだよなあ。先生が乗った飛行機が“撃墜”されるんだもんね、ソ連軍機に(笑)。


 ラ・サール高校の単調な日々

外山 ラ・サールなら同級生とかにも本格的に左翼っぽい人とか、いるんじゃないですか?

有川 そうでもないよ。田舎にあるし、そもそも“高校”というより予備校みたいなところだしね。いい大学に進むために身を置いてるだけだから、愛校心のようなものを持ってる人もほとんどいないような学校。

外山 ぼくが高校時代に連絡を取り合ってた1人は、ラ・サールの人でしたよ。わりと本格的に左傾してて、やがて東大ノンセクトになって、湯浅誠なんかと一緒に活動する人。

有川 湯浅誠って、どういう人だっけ?

外山 ホームレス支援の運動をやってて、“日雇い派遣村”の“村長”として有名になって……。

有川 ああ、民主党政権の時に……。

外山 うん、内閣参与か何かやってた。あの湯浅誠とたぶんずっと同志みたいな関係にある、稲葉剛って人です。やっぱり貧困問題で本も何冊か書いてる。ぼくも後に参加して影響を受ける、全国の高校生の新聞部員たちの東京での合宿イベント(高校生新聞編集者会議。70年代から代替わりしながら90年代半ばまで続いた。外山は88年夏に参加、同年末にラジカル派が分裂し、外山もその「全国高校生会議」派の中心メンバーの1人となる。紙版『人民の敵』第9号の“沢村真司”インタビュー参照/後註.『全共闘以後』も参照)にも、鹿児島から参加してたらしいことも後で知るんだけど……ぼくは高校時代に電話で連絡を取り合ってただけで、会わずじまいなんですが、彼はぼくより1つ年上でしたね。

有川 じゃあ私の2つ下か……。

外山 有川さんが3年の時に1年、ということになります。

有川 知らないなあ。まあ、演劇部の人たちは、“左翼的”とまでは云えないかもしれないけど、ちょっとそういう雰囲気はあったよ。……高校を中退して大検を受ける、みたいなのは私よりちょっと下の世代でしょ?

外山 そうですね。制度自体は昔からあったはずだけど、そういうルートが広く認知されて、昔ながらの不良タイプではない普通の生徒や、優等生たちまで高校をどんどん辞め始めるのは、ぼくや、ぼくの1つ上の代ぐらいからです。あのドラマの影響も大きかったと思う。「もう高校はいらない」っていう……。

有川 菅原文太がお父さん役のやつね。

外山 うん、それです(笑)。

有川 やっぱり私の高校時代より少し後だ。

外山 ぼくが高校に入りたての頃に流行ってた気がする(記憶違い。「中卒・東大一直線 もう高校はいらない!」は、84年春、したがって外山は中1〜2、有川氏は高1〜2の頃に全9回の連続ドラマとして放送された。中学校の管理教育に反発した主人公が、高校に進学せず、大検経由で東大に現役合格するという、父親役のモデルである磯村懋の『奇跡の対話教育』を原作とする物語。主人公の少年は坂上忍が演じた)。

有川 私も高校2年ぐらいの時に、もう辞めちゃおうかな、とも思ったんです。でも大検を知らなかったもんで……。1、2年、遅く生まれてたら、たぶん辞めて大検を受けてただろうな。

外山 高校時代はどんな感じというか、何を考えて日々を送ってたんですか?(笑)

有川 中学の頃からもう、授業を聞いてノートをとったことがない。勉強は全部、自分でやってたんです。高校の時もそうで、だから学校に通う意味があんまりないと思ってた。

外山 もし大検を知ってれば辞めてたかもしれないというのは、単純に学校がつまんなかったということですか?

有川 学校的なものにすごく違和感があって、とにかく学校が嫌いだったね。高校3年の時なんか、出席日数もギリギリなんだ。それはもちろん、計算して、卒業するための最低限の出席日数だけ仕方なく行った。

外山 だけど県外からラ・サールに通う場合は、寮じゃないんですか?

有川 2年生からは下宿に住んでたから、学校をサボるのもわりと簡単。

 「その2」へ続く〉


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