北田暁大・白井聡・五野井郁夫『リベラル再起動のために』“検閲”読書会(2018.10.14)その2

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その1」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2018年10月14日におこなわれた、北田暁大・白井聡・五野井郁夫の鼎談本『リベラル再起動のために』(毎日新聞出版・2016年)を熟読する読書会のテープ起こしである。
 テキストの現物を入手して、途中ことわり書きが挟まるように、例えば「第一章・黙読タイム」などのところでまず当該の章を自分でも黙読してから読み進む、というのが一番タメになる読み方である。

 読書会参加者というか“検閲官”は外山の他、外山と同世代でほぼレギュラー的な福岡在住の天皇主義右翼・藤村修氏、ほとんど喋らないが九州ファシスト党〈我々団〉の東野大地、「その3」から参加する福岡在住の劇評家・薙野信喜氏(御年72歳!)である。

 第2部は原稿用紙19枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)にはその6枚分も含む。

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 (引き続き「第一章」をめぐっての議論)

 白井聡の典型的なダブスタ&ポジション・トーク

外山 やっぱり相対的には北田だけが多少はマトモなことを云ってる。左派・リベラル派のかなりの部分が共産党に対して嫌悪感を持ってて、なかなか“共闘”が実現しないのも、歴史的経緯を考えれば無理もないってことを、北田は何度も繰り返し云ってたりするよね。それに対して白井は……例えば19ページでも、北田が「私の世代以上で社会運動に関わったり、社会運動に興味がある人は、共産党の負の歴史を、嫌というほど学んできてますからね」と云うのを承けて、「そう見えてしまう世代が、もはや間違っているのではないですか?」とか、ふざけたことを云ってる。歴史を知る人が共産党を警戒する気持ちは「分かるけれど」、そういう“古い世代”の連中には「もう今後は出番がないのかもしれない」とか、切って捨てる。
 25ページでも北田がしつこく(笑)、「歴史的経緯」を考えれば共産党を警戒する人たちが根強くいるのは「仕方がない」という話をすると、白井は、「またもや歴史的経緯。つくづくウンザリします」って、これはもう許しがたいですよ。
 北田もやんわりと、「そんなことを言わない(笑)。歴史認識は大切ですよ」と応じてますけど、白井みたいな左派とかリベラル派っていうのは、“先の戦争”に関して“歴史認識”がどうこう、コトサラに蒸し返してきたんじゃないのか? 白井も、破局的な戦争に至る「歴史的経緯」や、それと同じような過ちを繰り返してしまう体制が敗戦後もずっと続いてきた「歴史的経緯」を今さら蒸し返して、『永続敗戦論』とか書いたんじゃないのか?(笑)
 「歴史的経緯」がどうでもいいって云うんなら、もう“ファシズム”のことも許してくださいよ(笑)。ファシストは過去にこんな悪いことをした、あんなこともやった、って「歴史的経緯」にこだわるようなのは「もはや間違っているのではないですか?」、そんな“古い”ことをいつまでも云ってちゃ「もう今後は出番がないのかもしれない」ですよ、ってことになる。“ファシスト”だろうが“ナチ”だろうが、今現在“いいこと”を云ってるんなら手を組みましょう、となるはずだけど、たぶん白井はそんなことは云い出さないよね。共産党とか“マルクス・レーニン主義”とかに関してだけ、“過去”の話はもういいじゃないですかっていうのは、典型的なダブル・スタンダードであり、要するに白井はポジション・トークをしてるにすぎません。

藤村 どうもこの本での白井さんは、モノホンのパヨクである五野井以上に“パヨク発言”が多いよね(笑)。

外山 ……全然関係ないが、一番最初のページで五野井が、「端から見れば、北田さんがリベラル派、私が左翼、白井さんが極左という色分けでしょうね」とか云ってるんだけど、一体どこの誰が五野井なんぞを“左翼”と認めたんだ? 責任者ちょっと出てこい(笑)。

藤村 五野井は左翼ではなく“パヨク”です(笑)。

外山 とうてい“左翼”とは呼びがたいから、そういう新語が作られたわけで。

藤村 “パヨク”呼ばわりがイヤだというなら、“リベラル右派”でもいいですよ。五野井が続けて自分で「私は学問の方面からは保守主義者だと認知されることも多い」と云ってるとおり、その程度のものでしょう。


 新自由主義の暴力の1丁目1番地を見ないリベラル派

外山 とはいえ、鼎談の最初のほうの、13ページにある北田発言を見ても、「反安保法制の国会前デモとかが、僕らの世代がこれまで見たことがないほど大変に盛り上がった」と云ってるように、彼らはまず例えば88年の反原発運動の高揚とかを知らないわけです。ぼくも新しい本(『全共闘以後』)で書いてるとおり、“盛り上がった”運動なんて、この数十年の間に何度もあるんだけど、彼らはそういう世界と無縁に生きてきたノンポリなんで、あの「反安保法制の国会前デモ」程度のものが、もうとんでもない“盛り上がり”に感じられてしまう。

藤村 そうなんだろうなあ……。

外山 あの程度のものを“盛り上がり”と感じてしまう、彼らの限界です。

藤村 それに彼らの云ってる“新自由主義反対”なんてのはしょせん、“再分配”がどうこうってレベルの話でしょ。しかし新自由主義の一番恐ろしいところは、社会全体をフラット化してしまうことじゃん。全国どこでも何ら代わり映えのしない、三島の云う“ニュートラル”な、のっぺりとした社会を完成させてしまう。
 外山君の御学友の(笑)、施光恒センセイ(“保守系論客”と見なされている政治学者。外山の中学校時代の、しかも部活も同じ同級生で、紙版『人民の敵』第25号にも登場)が最近よく使ってる言葉で云えば、anywhereとsomewhereで、どこでもやっていけるエリート層のanywhere派が新自由主義的な改革を推し進めて、どこか特定の地域に根ざして暮らしてるようなsomewhere派はどんどん生きにくくなる。そういう新自由主義の暴力の1丁目1番地が、例えば京大のタテカン規制だったり吉田寮廃寮だったり、あるいは高円寺の再開発だったり、いろんな形で現れたり焦点化されたりしてるけど、そういう種類の闘争に彼らは参加してるんだろうか?

外山 “国会前”なんかに目を奪われてる場合か、と。

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