反共ファシストによるマルクス主義入門・その19

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  〈ロシア革命史篇〉その6

  「その18」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。なお引用部分の太字は、原文がそうなっているのではなく外山の処理である。
 第13部までが“マルクス主義入門”の“本編”で、第14部からは“おまけ”的な“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。
 第13部までエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』に、第14部からは松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』に、主に依拠している。

 第19部は原稿用紙22枚分、うち冒頭6枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその6枚分も含む。

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   25.ロシア2月革命

 開戦当初こそ諸外国と同様、好戦的なナショナリズムのムードに包まれたロシアだったが、戦線が膠着して久しくなると、これまた諸外国と同様、厭戦のムードが蔓延する。

 やがて革命につながる不穏な動きは、早くも開戦翌年の1915年のうちに、まずはブルジョアの主導で始まっていた。戦況のはかばかしくないことに危機感を抱き、前近代的な専制政府に戦争指導を任せてはおけないと政治改革を要求し始めたのだ。

 帝政の腐敗の象徴として槍玉に挙げられたのが、かの有名な“怪僧”ラスプーチン(1869〜1916)である。

 ラスプーチンという名で知られている、シベリアの馬商人の倅である僧が宮廷に出入りするようになったのは一九〇五年である。ロシアの典型的な百姓の心情をそなえていたかれは泥酔と淫乱の青年時代ののち各地を放浪して加持祈禱をする乞食僧となり、いつのまにか、聖者に祭り上げられた。
 皇后がラスプーチンを近づけたのは、医者の治療しえなかった皇太子の血友病の出血を、ラスプーチンがとめることができたからだった。皇帝と皇后の異常な信頼をかちえたラスプーチンは、高官の人事にかんしてお告げを提供した。ラスプーチンの知的な低さや粗野を意に介しないような出世主義者がかれにとりいって、裏口から皇帝に近づこうとした。そして皇后がラスプーチンを全的に信頼して、かれの意見を大本営のモギリョーフの皇帝にあてて「わたしたちの友人」はこういっているという手紙で知らせたことも事実である。
 (松田『ロシアの革命』)

 立憲民主党(カデット)のゲオルギー・リヴォフ(1861〜1925)、十月党のアレクサンドル・グチコフ(1862〜1936)、労働派のアレクサンドル・ケレンスキー(1881〜1970)らが「人民救助委員会」という秘密組織を作り、皇后がラスプーチンと組んでドイツのスパイと化している、というデマを流すなどして専制政府を揺さぶっていたことが、だいぶ後になってから判明している。

 ラスプーチンは人々の怨嗟の的となり、1916年12月、若い貴族らの手で暗殺された(まず饗応して毒殺しようとし、いつまで経っても毒が効いてくる様子がないので仕方なくピストルで心臓を目がけて4発撃つと、地下室から地上への階段を駆け上がり鍵のかかったドアを打ち破って戸外へ出たところでようやく倒れたので、簀巻きにして川へ放り込んだが、やがて浮かんだラスプーチンの死体を検死した医者は「死因は溺死」と判定した、と伝えられる)。

 公然面では、リヴォフら自由主義的ブルジョア指導者たちは国会に「進歩ブロック」を形成し、過半数を占めて、大臣の皇帝任命制の廃止などを要求した。

 皇帝側もなかなか折れず、双方に強硬策の計画も含むさまざまの攻防が続いていた。

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 「2月革命」(“2月”は旧暦で、新暦では3月。のちの「10月革命」も新暦では11月だが、一般に「2月革命」「10月革命」の呼称が定着している)は、ガポン神父が率いた陳情デモへの発砲(「血の日曜日事件」)が契機となった1905年の「第1次革命」以上に自然発生的に起きたものだとされてきたが、第1次革命の際にロシアに乗り込みトロツキーと二人三脚で「ペテルブルク・ソヴィエト」を指導した、ドイツ社会民主党左派のバルヴス(1869〜1924)の謀略だったとも云われる。ロシアに革命を起こすことはバルヴスの“執念”と化しており、貿易で成功して得た巨万の富をそのためにつぎ込んでさえいた。少なくとも15年から16年にかけて、対戦国ロシアを弱体化させたいドイツ外務省と組んで謀略に奔走していたことは、2次大戦後に明るみに出たドイツの機密文書で判明している。

 ともかく1917年の「2月革命」の発端となったのは、ペトログラートの婦人労働者や主婦たちの“パンをよこせ”のデモとストライキだった。

 二月二三日の国際婦人デーにヴィボルク地区の繊維工場の婦人労働者が、ボリシェヴィキの地区委員会の制止を無視して「パンよこせ」のストとデモをはじめたのも、労働者のなかに主婦が多かったからだろう。
 その日ストをした労働者は九万をこえ、「専制を倒せ」「パンをよこせ」「戦争をやめろ」のスローガンをかいた赤旗をかかげて行進した。パンの配給をもらいに列をつくっていた主婦たちは「パンをよこせ」デモに完全に同調して参加するものも出てきた。
 「パンをよこせ」のスローガンと女性がくわわったデモは異様な力を発揮することになった。デモを解散させるため警官の手がたりないので、応援に呼びだされた守備隊は、パンが欲しいといっている市民に手荒なことをする気になれなかった。守備隊が何も手だしをしないとなると、潮のような人の流れは、守備隊をつつみこんで行進をつづけた。
 ペトログラートの兵舎にいる守備隊は、短期間待機している部隊で、徴兵ほやほやの少年のような新兵、病院から治療して復帰してきた戦争にあきあきした兵隊、学生あがり、労働者あがりなどからなり、士気はさかんではなく、パンをよこせという労働者や主婦の生活をよく理解する連中だった。それに将校は将校で、新聞で責任内閣制を頑固に否定する皇帝のことをよんでいて、いいかげんに議員のいうとおりにしたらどうだといった気持になっていたのが多かった。
 (松田『ロシアの革命』)

 やがて兵士の反乱が拡がり、労働者のデモに合流し、暴徒化して監獄を襲って2千4百人の政治犯を解放した。

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