栗原康『現代暴力論』“検閲”読書会(2017.3.26、4.2)その10

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

 「その9」から続いてこれで完結〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2017年3月26日と4月2日の2回に分けておこなわれた、栗原康の『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』(角川新書・2015年)を熟読する読書会のテープ起こしである。
 栗原康の『現代暴力論』の現物を入手して、途中ことわり書きが挟まるように、例えば「第一章・黙読タイム」などのところでまず当該の章を自分でも黙読してから読み進む、というのが一番タメになる読み方である。

 第10部は原稿用紙15枚分、うち冒頭5枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその5枚分も含む。

     ※     ※     ※

 (「おわりに」黙読タイム)


 “暴れられない”のは意志や決意の問題ではない

藤村 (早く読み終わったらしく、手元にあった紙版『人民の敵』第30号掲載の『現代暴力論』第三章までの読書会“実況中継”(後註.このコンテンツの「その5」までのこと)を読みながらクスクス笑って)やっぱり『人民の敵』のほうが面白い(笑)。

外山 うん、最後までこの調子だったね(笑)。

藤村 しかしまあ、この本を書いた意図は理解した。“最近は反体制運動の参加者たちもなかなか暴れようとしない、それではいかん、みんなもっと暴れよう”っていう、それだけの話でしょ(笑)。“日本人だって大正時代なんかは暴れてたじゃないか、欧米の反サミットの運動なんかでは今でも暴れている”、それはまあおっしゃるとおりなんですが……。

外山 「何人かの友人といっしょに二〇〇八年にひらかれる日本の洞爺湖サミットに反対しようとおもっていた。それで前年度がドイツのハイリゲンダムサミットだったので、そこでくまれる抗議行動を見物しにいった」(259ページ)ってことで、ドイツでの反サミット行動に参加した体験を書いてる。それはいいんだけど、やっぱり問題は、栗原康や矢部史郎たちが主導した肝心の08年の洞爺湖サミットでの反対行動はどうだったのか、ということじゃないですか。なのにそれについては一言も書いてない。ドイツでの反サミット行動がいかに“暴力的”で“楽しかった”か、という話だけだよね。
 ぼくも08年の洞爺湖サミット反対行動にはワケあって(この時の北海道現地の中心的活動家の1人で、紙版『人民の敵』第3号第13号第14号にも登場した、旧くからの同志である宮沢直人に多少なりとも助力するために)参加したけど、ここに出てくる、「ブラックブロック」と呼ばれてる「海外のアナキスト」たちも多少は来てた。もちろん欧米圏からは日本は遠いんで、たいした人数は来てなかったとはいえ、欧米では大暴れしている歴戦のブラックブロックの連中も、洞爺湖サミットではまったく暴れることができなかったんです。
 矢部周辺から漏れ伝わってきた話では、矢部が主催してたキャンプ地にやってきたブラックブロックの連中は“暴れようぜ”と盛んに提起してたらしい。それを矢部たちが、“日本のデモ規制は欧米のそれとは全然違って、そう簡単に暴れることなんか不可能だ”と説明するんだけど、やっぱり日本の事情を知らない海外のアナキストたちは納得しないよね。“お前らもアナキストを自称してるくせに何をビビってんだ?”って反応になる。ところが、いざデモ本番になって、ブラックブロックの連中は暴れようと当然いろいろ試みるんだけど、実際やっぱり暴れることなんかできないんだ。“日本のデモ規制”を現場で体験してみて初めて、海外のアナキストたちも矢部とかが云ってたことを“ほんとだ!”と理解したそうです。
 つまり“日本でも欧米のアナキストたちみたいに暴れようぜ!”といくら煽ったところで、その当の欧米の過激なアナキストたちでさえ日本ではまったく暴れることができなかったっていう、その事実をこそまずは直視しなきゃいけないはずだよ。“なぜ暴れられないのか?”というのは、意志や決意の問題ではなくて、警備体制をはじめ日本特有のさまざまなメカニズムが“暴動”的なものを完全に抑え込んでるからで、そのメカニズムを分析して対抗策を提起しないことには、“暴れようぜ!”と煽ったって暴れられるわけがない。
 もちろんその日本特有のメカニズムは、警備体制にしても、デモ参加者たちの大部分を含む“フツーの日本人”の過激派アレルギーにしても、日本の“68年”の諸運動が70年代以降どう特殊で悲惨な展開をしたかってことと密接に関連してて、当然そのあたりを仔細に検討する作業が必要になるでしょう。この本に書いてあったような“一般論”としての国家論ではなく、日本の“68年”以降の運動史、“68年”の“その後”について考えないと、なぜ日本人が「あばれる力」を失ってしまっているのか、ちっとも明らかにはならない。
 栗原康も洞爺湖サミットでは、暴れる気満々だったはずなのに、つまり“意志や決意の問題”は解決済であったはずなのに、結局ちっとも暴れられなかったので、こんなふうにその前年のドイツでの体験を書くしかないわけでしょ。もし洞爺湖サミットで暴れてたら、ここではその話を書くはずだよね。それができないという忸怩たる思いがまったく感じられない。結局この人は少しもマジメに考えてないってことだよ。

藤村 たしかに、“暴れよう”と煽るより“なぜ現に今、暴れることができないのか”を分析すべきだ。欧米だけでなく韓国でだって民衆は大暴れしてるじゃん(笑)。しかし日本では暴れることなんかとうてい不可能に思えるもん。

ここから先は

4,030字

¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?