絓秀実『1968年』超難解章“精読”読書会(2017.4.9)その4

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 「その3」から続く〉
 〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 絓秀実氏の『1968年』(06年・ちくま新書)の“精読”読書会(の一部)のテープ起こしである。
 2017年4月9日におこなわれ、『1968年』の中でも最も難解だと思われる「第四章」と「第五章」を対象としている。紙版『人民の敵』第31号に掲載された。
 絓氏の『1968年』の現物をまず入手し、文中に「第何章第何節・黙読タイム」とあったら自身もまずその部分を読んでから先に進む、という読み方を推奨する。

 第4部は原稿用紙22枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定(原稿用紙1枚分10円)にはその7枚分も含む。

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 引用されてる和歌の意味が分からん(笑)

外山 ……ところで、ここはやっぱり藤村先生にぜひ教えを乞いたいんですけど、234ページにある「村の家」からの引用部分の最後に出てくる、「『古事記』の一節」だという「命のまたけむ人は──うずにさせその子」というのは、どういう意味ですか?

藤村 突然また答えにくいことを……(笑)。

外山 省略されてる部分も含めた前後については、235ページに、「良く知られた全篇を引けば」と文学方面に造詣の浅いぼくなんかを萎縮させる、例の“誰でも知ってるようにヘーゲルは云々”的なことが書いてあって(笑)、「命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の くまかしが葉を うずにさせ その子」と改めて『古事記』から引用されてます。

藤村 並べて引用されてるもう1つの和歌の中の「倭は 国のまほろば」なら意味は分かりますけど……。

外山 そりゃそうでしょう、右翼で、しかもさだまさし(「まほろば」という曲がある)の(元)ファンなんだから(笑)。“またけむ”というのは、“全”という漢字が充ててあるけど、つまり“まっとうする”みたいな意味なのかな? で、さらに“うずにさせ”っていうのは……何?(笑)

藤村 降参して素直に電子辞書で調べましょう(笑)。

外山 “たたみこも”っていうのも、まったく分かんないしなあ。“くまかし”ってのは何か植物の名前なのかな? その後にさらに引用されてる“片歌”の中の“はしけやし”も分かんないし、とにかく“全篇”分かんないぞ(笑)。

藤村 ……あ、出てきた。“またけむ”は“無事である”となってて、“まっとうする”みたいな意味で合ってたんでしょうね。えーと、“命の無事な者は、幾重にも連なる平群山の大きな樫の木の葉をかんざしとして挿すがよい”とのことです。絓さんも書いてるように、ヤマトタケルが“東征”に行った先で、自分の死期が近いことを悟って詠んだ“望郷の歌”である、と。つまり、自分はもう死ぬけど、東征を終えて無事に大和に帰り着くことができた者たちは、楽しく達者に暮らせよ、というような内容なんですね。


 「おれもヘラスの鶯として死ねる」とは?

外山 じゃあ、絓さんの解釈と重ねると、ここで中野重治がその歌を引用した心境というのは、自分は“転向者”となって“党”を裏切り、同志たちの前から姿を消すけれども、“我等が党は永遠なり!”みたいなこと? で、そのヤマトタケルの歌に続いてすぐ出てくる、「おれもヘラスの鶯として死ねる」というのは……これはウグイスと読むのかな?

藤村 そうでしょうね。

外山 “ヘラス”というのは絓さんが「古代ギリシア(ヘラス)」(235ページ)と書いてるように“古代ギリシア”の異名か何かで、かつ「詩人という存在を『ヘラスびと』と捉えること」(236ページ)は、プロレタリア文学者も含むロマン派的な文学者たちの間では広く共有されてる認識だったという解説もある。
 で、絓さんは、この「村の家」の前後の時期の中野重治と日本浪漫派の保田與重郎との間に、双方の研究者たちもまったく気づかず指摘されていない、それぞれが公開した文章を通じてのお互いへのメッセージの応酬があり、その中ではドイツ・ロマン派に影響を与えた詩人ヘルダーリンがテーマになってるという、たぶん日本文学史研究的にも画期的な大発見をここで披瀝してるよね。
 その上で246ページに、「ヘルダーリンの『帰郷』がそうであり、ヤマトタケルの大和もそうであるように、彼らは真の故郷から隔てられた本源的な故郷喪失者であ」り、そうであるからこそ、よりいっそう強く“故郷”という“「もの」に憑かれる”のだ、と。「それは、転向者が党から絶対的に隔たっているのと同じ」で、そういう存在であるからこそ“党という故郷”を“文学”で支えることも可能になる、“非転向”を貫いてみせることでスターリン的な“鋼鉄の人”であることを証明しえた「宮本が存在し、それとアイロニカルにつながっている限りおいて、中野は『ヘラスの鶯として死ねる』のだ」(248ページ)ということになる。
 ……それにしても、転向して出所して故郷に戻ってきた「村の家」の主人公は、保守的な父親に、そんなに簡単に転向してしまうほどヤワな信念ならしょせん“遊び”にすぎなかったということじゃないか、つまり“サブカル”じゃねえかと(笑)、もう筆を折ってしまえと説教されて、“おっしゃることはよく分かりますが、それでも書いていこうと思います”って答える、例の吉本の「転向論」にも引用されてて名高い箇所があるけど、たしかに絓さんの指摘するとおり、主人公つまり中野重治は、故郷にとどまって保守的な共同体の中で“書いていく”んじゃなくて、また「東京で『書いて行く』ことしかできない」んだよね。吉本は、中野重治のこのセリフを、日本の大衆の中に息づいた“封建制の優性遺伝的なナントカ”と初めて向かい合う“決意表明”みたいなものとして評価してたはずだけど、たしかに“東京で”書き続けるということでしかない(笑)。逆に故郷から“遠く隔たった場所”で書くからこそ故郷と強く結びつきうるのであり、“党”を裏切って絶対的に隔たるからこそ“党”と強く結びつきうるのだ、という話なんだけどさ。


 “弁証法”から“イロニー”への“転向”

藤村 今ちょっと検索してみたら、ヘルダーリンの「故郷」という詩が出てきたんだけど、故郷に向けて「愛の悩みを鎮めてくれるか 約束するか」と問いかけていて、で、「まめやかな者たちよ!」つまり“故郷の人々よ”という箇所があって、「しかし私は知っている 愛の悩みはたやすくは癒えないと」って、つまり故郷に帰っても「悩み」は解決するわけではないってことだよね。最後は「だからこのままであれ 地上の子 私はどうやら 愛するように 悩むように作られている」と締めくくられてる。ヘルダーリンはインテリなんで、「愛するように 悩むように」作られてるんだけど、故郷に住むフツーの人々、つまり“大衆”というか、「まめやかな者たち」、「地上の子」らに対しては、「このままであれ」と呼びかけてるわけだ。

外山 インテリってのは、観念の領域が肥大して自動運動を始めるところまで辿り着いちゃった人たちなので、“現実との相克”に苦しむことになる。これは大変苦しいんで、大衆の皆さんはそういうことにならないように、どうか「このままで」いてください、と。インテリになるというのはヘンなビョーキにかかるようなもので、大衆の中にとどまれる人はそのほうがずっと幸せですよ、と(笑)。ヘルダーリン自身はすでにインテリになっちゃったし、これは不治の病なので今さらもう仕方がない、私はこの病を抱えて生きていきます、ということですね(笑)。

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