反共ファシストによるマルクス主義入門・その20

 【外山恒一の「note」コンテンツ一覧】

  〈ロシア革命史篇〉その7

  「その19」から続く〉
  〈全体の構成は「もくじ」参照〉

 2014年夏から毎年、学生の長期休暇に合わせて福岡で開催している10日間合宿(初期は1週間合宿)のためのテキストとして2016年夏に執筆し、紙版『人民の敵』第23号から第26号にかけて掲載したものである。
 ともかく、これさえ読んでおけば(古典的)マルクス主義については大体のことは押さえられるという、我ながら良い入門書ではある。

 性質上、他人の本からの引用部分も多いのだが、面倒なのでそういった部分も含めて、これまでどおり機械的に「400字詰め原稿用紙1枚分10円」で料金設定する。とにかく“これだけで大抵のことは分かる”素晴らしい内容なんだから、許せ。なお引用部分の太字は、原文がそうなっているのではなく外山の処理である。
 第13部までが“マルクス主義入門”の“本編”で、第14部からは“おまけ”的な“ロシア革命史篇”で、つまり“レーニン主義”の解説となる。
 第13部までエドワルド・リウスの『フォー・ビギナーズ マルクス』に、第14部からは松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』に、主に依拠している。

 第20部は原稿用紙23枚分、うち冒頭7枚分は無料でも読める。ただし料金設定にはその7枚分も含む。

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   26.10月革命(承前)

 レーニンは危ういところでフィンランドに脱出し、またもや亡命者となった。なおこの時期にレーニンはもう1つの主著『国家と革命』の執筆にとりかかった。

 国家とは階級支配の道具、すなわち支配階級が被支配階級を支配するための道具であり、資本主義社会とは“ブルジョア独裁”の社会である。階級が消滅すれば国家もまた必然的に消滅するのだが、革命によってプロレタリア階級が権力の座についたからといってすぐにブルジョアジーがいなくなるわけでもなく、革命を挫折させようと蠢動するから、社会からブルジョアジーが一掃されるまでの期間には、プロレタリア階級がブルジョア階級の反抗を抑えるために国家権力を活用する“プロレタリア独裁”が必要である。この過渡期の必要を理解せず、革命が勝利するやすぐに国家も消滅するかのように夢想するのはアナキズム的な蒙昧である……という立場が、『国家と革命』でまとまった形で表明され、これも「マルクス・レーニン主義」の基本的な見解の1つとなった。

 『国家と革命』は全6章から成るが、本来はさらに第7章が書かれる予定であった。

 レーニンは最後の章を「一九〇五年と一九一七年のロシア革命の経験」と題して書きかけたが、十月革命の前夜の切迫した情勢のため書く暇がなくなった。そこで、十月革命後の「一九一七年十一月三十日」付の「第一版へのあとがき」で、「“革命の経験”をすることは、それについて書くことよりもいっそう愉快であり、またいっそう有益だから」とむすんだ。最後の章はついに書かれなかった。そして『国家と革命』はレーニンのまとまった理論的著作の、最後のものとなった。
 (尾鍋『ロシア革命』

 17年7月の蜂起の失敗によって、レーニン以外のボルシェヴィキの幹部たちも次々と逮捕された。大戦が始まって以来、徐々にレーニンの路線に近づき、今やすっかりボルシェヴィキ指導部の一員となっていたトロツキーも、その中に含まれていた。

 この一件に先だって、政府内でブルジョア派と社会主義派が対立し、決裂して、リヴォフ首相以下ブルジョア派の閣僚全員が辞任する事態に立ち至っていた。政府は社会主義者のみとなった。もちろん、「社会主義者だけでやれるものならやってみろ」と、やれないことを見越してのブルジョア側の作戦である。暴動騒ぎが一段落すると、ケレンスキーを首班とした新政府が組織された。メンシェヴィキと社会革命党(エスエル)はブルジョア派へのさらなる妥協を強いられた。ボルシェヴィキも再び地下に潜って、「二重権力」状態はようやく解消された。

 ところが8月、ケレンスキー内閣のもとで、軍の最高司令官として軍規の回復に努めていたコロニーロフ将軍(1870〜1918)の、反革命クーデタ計画が露見した。ケレンスキーは先手を打ってコロニーロフを罷免しようとしたが、コロニーロフは反乱に踏み切った。ケレンスキーは、ソヴィエトのみならず、ボルシェヴィキにも援軍を要請せざるをえなくなった。ボルシェヴィキの部隊は奮戦し、コルニーロフの反乱を鎮圧するのに大いに活躍した。ボルシェヴィキは、思わぬ幸運によって党勢を盛り返すことになり、逮捕されていたトロツキーらも釈放された。

 レーニンは潜伏先のフィンランドから、いよいよ武装蜂起の準備にとりかかるよう、盛んに指令を送った。ボルシェヴィキ幹部たちの多くは動揺したが、トロツキーは動揺しなかった。

 いま、ブルジョアの政府の担当者ケレンスキーから権力を奪取するチャンスであることを見抜いた点では、トロツキーはレーニンとおなじである。だが、レーニンよりもロマンチックであったトロツキーは、人民のデモクラシーへの夢を大切にしたかった。
 (略)
 トロツキーにしてみれば、いままで「すべての権力をソヴェトへ」という扇動をやってきたのだから、ソヴェトが権力をとるというのが、人民の革命への夢をもっともスムースにみたすだろうとかんがえた。権力を奪取するにはちがいないが、かれはレーニンの作曲した楽譜を、夢をかなえる仕方で演奏しようとした。フィンランドにレーニンがかくれている以上、この演出ができる演技力をもった人物は、かれ以外にいなかった。
 (松田『ロシアの革命』)

 トロツキーはペトログラート・ソヴィエトの幹部会改選の場に乗り込んで、巧みな弁舌でたちまち主導権を握り、ボルシェヴィキをソヴィエトの多数派の座につけ、自分も議長の地位におさまった。トロツキーのペトログラート・ソヴィエト議長就任は、1905年の第1次革命以来のことである。

 トロツキーはボルシェヴィキの方針のとおりにソヴィエトを運営し、10月に入るとペトログラート・ソヴィエトの中に、自らが指揮する「軍事革命委員会」を組織した。

 ボリシェヴィキの中央委員会の客観的情勢に「あかるい」連中は蜂起について自信がなかった。待ちきれなくなったレーニンは、変装してペトログラートにのりこんできて、一〇月の一〇日、一六日、二〇日と立てつづけに中央委員会を開かせて説得にかかった。その記録を読むと、他の中央委員が、どれほど客観情勢が熟していないかを「事実」によって論証しようとしたかがわかる。とくにジィノヴィエフカーメネフはレーニンの国内情勢の評価の甘さと、ドイツ艦隊の一部におこった反乱の過大評価とを攻撃して、蜂起反対の声明を党外の新聞にまで発表した。怒ったレーニンが両者の除名を提案したのに仲裁にはいったのはスターリンだった。
 (松田『ロシアの革命』)

 10月24日、ついに蜂起の準備に入る。ケレンスキーもこれを察知して対抗策を打つ。双方とも軍勢を整えながら決戦に備える。トロツキーもケレンスキーも、味方を統制するため、それぞれに弁舌をふるい続けなければならなかった。

 蜂起は10月25日(新暦11月7日)の未明に始まった。「革命軍事委員会」の指令で、兵士たちが市内の要所を占拠する。部隊を動かすために出払っていたケレンスキー以外の政府要員のいる冬宮を包囲し、降伏させたのは蜂起開始から24時間後だった。

 同じ10月25日、もともと予定されていた第2回目の「全ロシア・ソヴィエト大会」が開かれ、メンシェヴィキ左派のマルトフらとボルシェヴィキとの論戦が続いていた。その間に多くの反ボルシェヴィキ派が野次に腹を立てるなどして退席していき、最後にはマルトフらも出ていって、議場にはボルシェヴィキと社会革命党左派だけが残った。やがてそこへ冬宮陥落のニュースが届き、万雷の拍手で、権力奪取の成功が確認された。

 いわゆる「10月革命」である。

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