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夫の借金29,035,436円と私㉑

第21話  美は万物を制する

それは昨年の11月25日、夫の11,351,393円の借金が発覚した日の午前中の出来事でした。

私は事務職のパートをしており、正社員を除きパート職員の中では最も勤続年数が長いのです。
社内のシステム改正があり、パート事務の中で最も古株の私が事務作業内の改正の形式上の責任者となりました。

その日の午前中にシステム改正を依頼した業者に訪問してもらい、皆で説明を受ける事になっていました。

午前10時ぴったりに「よろしくお願いします」の挨拶と共に入ってきた男性に対し、私は人生初の「二度見」をしてしまいました。

年の頃なら30代前半、長身で均整のとれた体躯、雪のような白い肌、艶のある美しい黒髪、マスクをして顔半分は見えないものの吉沢亮を思わせる美青年だったのです。

私も含め、その場にいた女性たちの空気が一瞬で変わるのを肌で感じました。

年齢の割に実に落ち着いており、説明も明瞭簡潔でまさに「仕事ができる男」という印象でした。
それから1時間ほどシステムの説明を受けたものの、私は暇さえあれば彼の美しい横顔とパソコンのキーボードをたたく白く長い指を眺めていました。

説明会が終了し彼が帰った後、私たちパートのおばさん連中は一気に色めき立ち、「あの人、超イケメンだよね~」などと盛り上がりました。

美青年との偶然の出会いの興奮も醒めやらぬ高揚した気分で家に帰ったところ、夫の11,351,393円の借金が発覚し、どん底に突き落とされたのです。

1日の間でスプラッシュマウンテンのように、高いところへ引き上げられそのまま突き落とされたような、今にして思えば不思議な日でした。


私は形式上の責任者だったので、今後のシステム導入の日程などを調整しなければならない立場でした。

担当者である彼と、何度かメールのやり取りをしましたが、それだけで心躍るものがありました。

姿だけでなくすべての所作が美しく、彼の周囲は美のオーラに包まれ、そこだけ異次元のようで、薄汚くて埃っぽい職場が恥ずかしくなるほどでした。

私はいい年をして人見知りなので、彼と私語を交わすことはほとんどありませんでした。
彼の3回目の訪問の時、パート仲間でノリのいい女性が、彼の年齢や現在の仕事に就いたきっかなどを尋ねていました。

彼によれば、現在の仕事に就く前まではファミレスの厨房で働いていたそうです。
高校生の時からバイトで働いていたファミレスに、卒業してから調理師免許を取り、そのまま正社員になったのだそうです。

彼のルックスからすればあまりに地味な職業と言えます。

転職の理由は「1日中厨房にいるより、人と関わる仕事がしたかった」から、現在のシステム会社の営業に転職したのだそうです。

普通に大学に行って、チャラチャラ部活をして合コンをして、新卒で就職したのかと思いきや、意外な苦労人だった・・

さらに彼に対する好感度が増しました。

その後何度かの訪問を経て、システム導入の説明も終了し
「今後は主にリモートでの対応になるかと思います。それでは・・」
と、爽やかに去っていきました。

ほんの数週間の邂逅でしたが、彼の登場により、鬱屈して煮詰まった職場に春風が吹いたような清々しさがありました。

たぶんもう、直に会うことは無いであろう彼の背中を、寂しい思い出見送りました。


私は昔見た映画「ベニスに死す」を思い出しました。

老いた音楽家アシェンバッハが、静養のために訪れたベニスで美少年タジオと出会い、もって生まれた美しさ、創造を超えた美の存在を知り苦悩するのです。
アシェンバッハは、彼に惹かれ、自らを若く見せようと髪を染め化粧をし、でもそんな自分を鏡で見て老いぼれた姿に落ち込む。

疫病に感染したアシェンバッハは、彼を思い、彼を崇拝するかのように見つめながら、崩れ落ちていく・・・

最後に彼を見送る時、私もこのアシェンバッハの気持ちがわかるような気がしました。
恋というよりは、美に対する畏怖、憧れの気持ちなのだと思います。
圧倒的な美の前では、凡人はただひれ伏すのみですね。

アシェンバッハは疫病に倒れ命を落としましたが、私はこれからも生きねばなりません。

昨年の11月25日、夫の3度目の借金が発覚してから4ヵ月、まさに地の底を這うような苦悩の日々でしたが、彼の事を考えると少し心が明るくなり、まさに彼に救われたといっても過言ではありません。

本当に美しさほど人の心を動かすものはありませんね。

彼との出会いは孤軍奮闘する私に神様がくれた、小さなご褒美だったのかもしれません。

借金残額 令和5年4月現在 7,403,757円












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