『情報環世界』とhogehoge

環世界について

 環世界の概念は知っていたが、入力を知覚世界(Merkwelt)、出力を作用世界(Wirkwelt)と分けて説明していることを初めて知った(いい加減原著読もう・・・)。
 入力と出力が連動していて、かつその間に環世界ができている場合にその対象を『主体』とする。
 『道具は入出力のどちらかにしか関与しなかったり、入力と出力が連動していなかったりするため、客体に留まる』と書いてあるが、Argumented Humanなど、主体を拡張させるツールにおいてはこの限りではないように思う。

共話(Synlogue)について

 対話(Dialogue)に対する言葉。英語は主体がはっきりしており、線形に会話の主体が移動する(相手が喋ってるか自分が喋っているか)が、日本語は主体が非常に曖昧で未完成な言葉を相手に投げて相槌で完成させていく。英語だと会話が『やりとり』だが日本語だと『共同作業』的な要素を多く含む。心理的充足もあり、グルーミングに近い。

脳のサイズと群の規模について

 ロビン・ダンバーは霊長類の大脳皮質の大きさと群のサイズに関連があることを発見した。この仮説では人間の脳は150人程度の群に対応できるサイズだ。
 東浩紀は「『社会契約論』は数万の規模(当時の国の人口規模)に対して書かれている」と言っていたが、これとの乖離は何か。システム1の扱う群れとシステム2が扱う群れの違い?

『考える』と『わかる』について

 『考える』は自分の持つ環世界から離陸すること。『わかる』は新たな環世界に着陸すること。これを環世界間移動能力(Inter-Umwelt Mobility)と呼ぶ。『人間は考えなくてもよくなるために考える』。
 正常化バイアスなどもこの話と繋がる。環世界がすでに構築されてしまうと考えなくてもよくなる。動物的、システム1ベースで暮らすことができる。一旦システム1に権利を移譲してしまうと、考える(環世界の見直しを要求する)、つまりシステム2へ権利を戻すタイミングが難しい。

『無意識』という他者について

 『無意識』という最も身近な他者。『意識の持つ環世界』と『無意識の持つ環世界』は異なる。
 自動運転は結局『人間と機械の共同作業』になる。『人間がシステム2を、機械がシステム1を担当してひとつの身体を動かす』ということになるが、そう書くと非常に難しい内容に感じる。むしろこの役割分担は人間でも正常性バイアスのような問題を含むので、別の区分やデザインが必要なのではないか。

『迷い』や『わからなさ』について

 『わかってしまう』と更新が止まってしまう。関わりが途絶えてしまう。関わり続けること、考え続けることが重要。
 『わからなさ』と関わりを持ち続ける重要性。『ニュー・ダーク・エイジ』で書かれていた『複雑さ』や『不透明さ』もこれに近いニュアンス。
 アートとは結局『無意識』や『機械』などを使って『わからなさ』を立ち上げて『考える』ことをさせる装置なのでは。

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