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正論じゃ、世界はよくならない。

この記事は、ぼくがstand.fmで配信している音声コンテンツを書き起こし、修正・編集したものになります。

こんにちは、こんばんは、井口です。
今回のツイートはこちら

デザインがなんだっていうお話では全然ないんですけど。これ、何かの本を読んでて気付かされたことです。

その正論、ただの持論では?

なんか「これって正論でしょ。常識でしょ」みたいに人に伝えるときって、結局【正論の皮をかぶった持論】なことが多いなって思ったんですよね

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「これって世間的にこうなっているよね」「こうするのが当たり前だよね」ってわざわざ伝えるときって、それはじぶんの意見をその正論とやらに乗っけて、虎の威を借る狐じゃないけど、「ほらほらこう言われてるじゃないですか」みたいな感じの言い方になってるな、って思ったんです。

だから正論かもなって思うことを言うときは、説き伏せようとしてるだけかもってかなり気をつけないといけないですよね。

正しさは、絶対じゃない

その正論の「正」、“正しさ”って何かっていうと、ご存知の通り絶対的なものではないですよね。

時代によって“正しい”か“悪いか”は変わるし、時代どころか国によっても、宗教によっても、もっとちいさな地域によっても変わる。センシティブな話だけど、生まれた性別によっても変わるかもしれない。

そういう風にいろんな面で“正しさ”って相対的であって。関係性があってこその話なんやと思うんですよね。

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なので、ぼくとあなたが正しいって思うものっていうのは、その両者の関係っていう中でしかあり得ないんですよ。ぼくが正しいと思っていることと、あなたが正しいと思ってることにもし相違があるのなら、ぼくの「正しい」とあなたの「正しい」の中間というか、妥協して落とせるとこに落とさないと、それって決着しないと思うんですよね。

で、その落としどころこそが、その両者にとっての“正しさ”になるんだろうなと。だから「正しさは関係性の中に浮かび上がる」っては、そういう意味です。

主張をつよめるということは対話を拒否している

落とし所を探さないのであれば、「バーカバーカ」って「分からず屋!」って言って喧嘩しちゃうんで。

にもかかわらず、「俺が正しいんだ。これが正論だ」って言っちゃうってことはもう、対話を拒否していることになっちゃうと思うのです。それは絶対、両者における“正しさ”にたどり着けない。じぶんの正しさの押し付け合いでしかなくなっちゃうな、と思います。

「わたしはこれが良いと思っています。だからあなたの良いと思ってるのは違います。だめです」っていう世の中じゃいやじゃないですか?
「わたしが良いと思っていることの方が、良いって言ってる人が多いから正解ですね」みたいな。ぼくの言ってることも大切にしてよ!って。

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多様性は、じぶんの意見の尊重にもつながる

やっぱ世界にはたくさんの人がいます。「多様性が大事だよ」って言われる時代です。もちろんその多様性の弊害もあるんだろうけど、なんせいろんな人がいるって楽しいと思ってます。

いろんな価値観があって、「ぼくはこう思うよ」って言える世の中。
「きみはそう思うんだな。へーなるほどね!」と、「でもさ、ぼくはさ、こう思うんだよ。」って言える世の中って、めちゃくちゃ良いなと思ってて。

「わたしはこれが正しいと思ってる」
「でもあなたはそれが正しいと思ってるから違うね」
「でも、こことここは共通項があるから、ここは認め合えるね」

とかいう建設的な話ができる、互いにリスペクトができるっていう世界線をぼくはすごく求めているみたいです。

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説き伏せても世界はべつに良くならない

正論を言っちゃうとき、やっぱり感情的になってるときほど正論言っちゃうんですよ。「○○“すべき”でしょ」みたいな言い方。
「べき論」が必ずしも間違いではないと思いますよ。でもそんな“べき”に頼っちゃうときって、だれかを説き伏せたいんですよね。言い負かせたい、みたいな気持ちになってる。

でも言い負かしたところで、気持ちよくなるだけでね、あんまりいいことないんですよね。

じぶんの論が正しいということが、たとえばだれかを言い負かすことで証明されたと感じる。そりゃ溜飲は下がるし、満足感はあるかもしれない。だけど世界はひとつも良くなっていかないな、って思うのです。

それよりもお互いを尊重しあおう

それよりもお互い尊重し合える世界を実現するってのが、真に世界を良くする方法だなって、いまは思います。

そのためには、先述した「正しさっていうのは関係性の中にしかないよ」っていうのと、
「正論を言う時はだいぶ感情的になってるんじゃないかな」とか、じぶんを見つめ直す余裕や時間、そういうものを持つ必要がある。といった気付きを読書中に得て書いたのがこのポエムです。

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ポエムってなに?

そんな感じでぼくはポエムという名の、これまた持論を書いたりするんですけど、じゃあなんで「ポエム」って言っているのかというと、短い文章で書くので、どうしても上に書いた「正論化」っていうか、一般化せざるを得ないんですよ。「こうだ」みたいな言い方になっちゃうんですよね。

それってやっぱり角が立つし、「いやそうじゃないでしょ」っていう人ももちろんいる、と。「そうじゃないでしょ」っていうが人いることは、さっき言ったみたいに、あって然るべきだと思ってます。

そういう意見の相違があれば、もしかすると論争するかもしれないし、
「いや、こうじゃないか、ああじゃないか」って話はするかもしれないけど、その結果で、何か落としどころが見つかったらいいと思うわけです。そうなれば全然いいんだけれども、でも、やっぱ揉めたくないから“ポエム”って名前付けとくと、「あ、すごくプライベートなつぶやきなんだな」って感じがするじゃないですかw。“個人の思想です”みたいな。ちょっと柔らかくなるな、って思って書いてます。おわり。


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