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映画『JOKER』について、何も言えなくなっちゃったけれど、せめてその理由くらいは書いておこうと思う

アメコミ映画のステレオタイプは、「なんか演出が激しくて、中身自体は薄っぺらい」みたいなものじゃないかと思うけれど、少なくとも昨今の映画はそんな大味なものではない、と思う(真面目に観たのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と『デッドプール』くらいだけれども)。『JOKER』は、その味の「繊細さ」がずば抜けている。

ざっくりストーリー

母に「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」と言われて育ったアーサーは、コメディアンを目指して、大都会の片隅でピエロのメイクの大道芸人をしている。
彼は自分の意志とは関係なく突然笑いだしてしまう病気を抱えていることもあり、周囲の人間から気味悪がられているが、何種類もの薬を飲みながら、働けなくなった母の介護をして暮らしていた。

ピエロとしての仕事中にストリートチルドレンに仕事道具を奪われ、破壊され、さらには暴行を受けるが、そのことを職場で訴えても耳を貸してもらえず、弁償するように言い渡される。
帰宅して、隣に並んでテレビを観る母は、自身のつらさや夢ばかりをとうとうと語る。

そんなことばかりでも、アーサーは笑う。

ある日、ある失態により職を失ったアーサーは、ピエロの衣装のまま乗り込んだ電車で、サラリーマンから暴行を受ける。彼らのことを、笑ってしまったからだった。

ついに限界を迎えたアーサーは、彼を踏みにじった人々に静かに立ち向かい始める。

主演のホアキン・フェニックスがすごい

まず、この人自身が非常に不思議な人だ。

元々実力派俳優として期待されていた中、あるとき「ラッパーになる」と宣言して俳優を引退。ミュージシャンとして活動する中で観客と乱闘を起こしたり、お騒がせキャラとして2年間を過ごしたが「実はラッパー転向は嘘でした。すべて演技でした。そういうフェイクドキュメンタリー映画を撮ってました」とネタばらしして、世間を(主に悪い意味で)驚かせた。らしい。

なんだそりゃ。

まあなんでしょう、それだけ俳優として自分を追い込んでみたい人なのかな、と思いました。恋人に借りてパンフレットを読むと、彼が真摯に役に向き合ったことがわかるから。

―実際の演技はどんな部分から構築していきましたか?

最初は「笑い声」でした。トッド(けそ:監督のトッド・フィリップスのこと)からは、ジョーカーの笑い声を痛ましいものにしたいと説明されたんです。笑いを制御できないとはどういうことか、笑いにまつわる精神疾患を抱えた方々の映像を見せてもらって、それは強く印象に残りましたね。ただしトッドが求めたのは、疾患ゆえではなく、深く抑圧された感情が出てこようとする笑い声。最初はトッドが望む笑いを演じる自信がなくて、彼を満足させられなければ、この役を諦めると言っていました。

『JOKER』パンフレットより

たしか監督のインタビューに書いてあったかな、監督は主役はホアキンしか考えられないと思っていたそうなのだけれど、ホアキンは自らオーディションをしてほしいと言ったらしい。こないだ、書道師範レベルの知人と話していても思ったけど、高みにいる人のすごさの一つって、「自分のレベルを正確にはかれる」ところだよな。どこまでできて、どこはできないか、鮮やかに知っている。

ホアキンの走り方(すごいダサい←もちろんほめている。万引き家族のリリーさんぽい)も踊り方も、アーサーの人生が反映されていて、一つ一つが絵画のようだった。神経質に煙草を吸うところ、一人になるなり一瞬で笑いを引っ込めるところ、その、すべてが。

そして、先ほど引用したインタビューの別のやり取りで、私はホアキンのことを勝手に信用した。

―あなたにとって、今回のジョーカーの魅力とは?

言葉は悪いですが、アーサーの明るさに惹かれました。アーサーは苦しみだけでなく喜びも感じているし、幸せになるため、人との繋がりや温かさ、愛情を感じるために格闘している。ただ苦しんでいる人物だとか、そういう定義付けは絶対にしないようにしています。

『JOKER』パンフレットより


(もっと演技に詳しくなって、もっときめ細やかに彼の演技の素晴らしさが感じられるようになりたい!)

で、なんで何も言えなくなっちゃったのか?

映画を観る前と観たあと、3本批評を聴いたり観たりした。

■宇多丸さん:TBSラジオ『アフター6ジャンクション』での評

■町山智浩さん:TBSラジオ『たまむすび』での評

■岡田斗司夫さん:YOUTUBEでの評(ネタバレあり)

どの方の評もすっごく面白くっておすすめなのだけれど、最後に聴いた岡田さんの評が胸に刺さった。

僕らはああいう人たちに対しての対処法を知らないので〔中略〕周りから浮いている人に親しく話しかけられたら、逃げちゃうんですよね。無視して笑うか、逃げるか。だから、だからですよ、劣っている者が関係を持つには友達になるんではなく、恐れられるしかないんです。アーサーみたいな人が周りの人間と関係を持とうと思ったら、優しい人を探して友達になるんではなくて、もっと簡単で単純なのは、「怖がられること」なんですよ
(岡田斗司夫さんのYOUTUBEより、けそが書き起こし。太字もけそによるもの。言いよどみとかある程度整理してます)

最近note編集部のおすすめに入っていたレビュー記事は、岡田さんとは違う方向だけどやっぱりアーサーを「自分とは別の世界の人」として捉えて書いている記事で、そのことに対する批判がコメント欄にちらほら残っていた。

私自身も、記事を読んでおもしろいなと思ったものの、やっぱりどこか違和感を感じていた。「私とアーサーは違う」と思ったり「私はあっち側にはいかない」と思ったりすることは、映画が必死に訴えていることを無碍にするような態度だと感じたからだと思う(恋人も、エンドロールですぐ席を立った人を見てそれに近いことを言っていた)。

だけど。

岡田さんの上記の言葉や、「映画を観に行く余裕があるような私たちはアーサーとはやっぱり違う」みたいな話を聴く中で、またうーん、と考え込んでしまった。私は本当に、いろんな人に寄り添えるだろうか、何か少しでもできるだろうか、だって「寄り添えるか」とか考えている時点で、私は自分自身を「手を差し伸べる側の人間」と考えているじゃん、めちゃめちゃ傲慢じゃん、と思って。

私は小学生のとき、知的障害を持つ女の子と同じクラブに入っていたんだけど、ある日彼女とV6の話をしたことを日記に書いていた。「いいことしたぞ」と書いてあった。中学生くらいのときにそれを読み返して、「いったい自分を何様だと思ってるんだ」と、あまりの気持ち悪さにぞっとした。

そのときの私から、私はちゃんと進めているんだろうか、と思ってしまって、何も言えなくなってしまった。

(それでも、私にも何かできることがあると信じたいなあ。なるべくえらそうにならないように、何かしたいんだ)

おまけ:パンフレットがおすすめ

私自身は買ってなくて恋人のを借りたのだけど、映画のパンフレットがすごく読みごたえがあってよかったです。

トッド・フィリップス監督(※)やホアキン・フェニックス氏のインタビューも面白いんだけど、

(※)彼はコメディ映画『ハングオーバー!』を撮った人なのも興味深い(『消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』は観たけど、ビールで言えばコロナみたいな軽い映画だった、という印象)。改めて、人を「笑うこと」の明るい面と暗い面って一続きなんだなと思う。『稲中卓球部』の古谷実氏が『ヒミズ』も描いたように。そもそも、『稲中卓球部』も時々不気味な話があったよな。

歴代JOKERを演じた役者たちがどんな役作りをしてきたかのコーナーや、衣装や音楽の方の話がよかった。特に、「なんだか演技づくりに煮詰まっていたところ、劇中使う予定の音楽を流したら、ホアキンがこれだという演技を見出した」っていう話は、感動した。その曲は、チェロの独奏に聞こえるけど実は後ろでオーケストラがひそかに演奏しているっていう曲らしい(私は映画を観ているとき独奏だと思ってた)。隠し味ならぬ隠し音なんだな。すごい。

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